二極
双眼鏡越しに、塔の頂からリオは警備を見下ろしていた。
隙は、ほとんど存在しない。
高い塀の周囲を巡回灯が規則正しく動き、警備員たちの影が、夜明け前の濃くなる霧の中に現れては消えていく。
霧雨が静かに降っていた。礼儀正しいほどに静かだ。
だが、山の空気は骨にまで染み込む冷たさを帯びている。
一滴一滴の雨が、頭に落ちる感覚をはっきりと伝えてきた。
角を生やした赤子の面は、すでに濡れていた。
偽りの顔の起伏に沿って水が流れ、音もなく滴り落ちる。
その面――コクメンは、ただの仮面ではない。
それを通して見る限り、闇はもはや隠れる権利を失っていた。
黒衣が彼の身体を隙間なく包み込んでいる。
冥界の繊維で織られたこの装束は、着用者を技術の視界から切り離す。
監視カメラ、熱感知、あらゆる近代的装置。
そのすべてに、リオは存在しない。
腕と脚には、黒針を幾重にも重ねた装甲。
雨水が針の隙間に染み込み、流れ落ち、塔の木床に静かに弾けた。
リオは動かない。
冷えが身体の奥まで染み込むのを、ただ受け入れていた。
(この状況なら……)
胸の内で、彼は囁く。
(力を借りるしかないな)
ユウセイ。
跳躍。
身体は一度、澄んだ宙返りを描き、近くの木の梢に軽やかに着地する。
枝がわずかに揺れただけで、彼は次の足場へと移った。
点から点へ。
その動きは正確で、重力は助言に過ぎないかのようだった。
無音の着地。
側面の高い塀が、目前に迫る。
リオは両手を上げた。
指が走る。印を結ぶ。
一。口――両手を合わせ、円を描く。
二。神――両手を合わせ、一本の指を天へ。
三。鍵――動きはさらに速くなる。
四。墜――。
五つ目、《来》。
彼は強く息を吐いた。
「――はあっ」
空気が震えた。
夜明け前の霧が、意志を得たかのように動き出す。
集まり、絡み合い、密度を増していく。
白と灰の渦が、やがて形を結ぶ。
巨大な女の影。
宙に浮かび、長い髪を垂らし、顔は曖昧。
だが、ひとつだけは決して見誤れない。
裂けるほどに大きく開いた、口。
囁きが、リオの意識へと忍び込む。
――人間……
「この任務を、やめてしまえ。
お前の妻が知ったら、どう思う?
自分が殺し屋だと、知ったら……。
危険すぎる。
死神は、お前を道具として使っているだけだ。
失敗する。」
声は、近しい。
あまりにも。
リオは理解していた。
幽声。
恐怖を囁き、記憶と罪を掘り起こす、囁きの亡霊。
彼は答えない。
抗わない。
ただ、動く。
濡れた石の隙間に指を掛け、壁を登る。
一息で跳躍し、回転し、頂部の鋭い金属を越え、内側へ降り立った。
中枢区域。
霧雨と濃霧が足音を呑み込み、人の目と機械の感覚から、彼を切り離す。
リオは本館へと疾走する。
――その時。
一人の警備員が、彼を見た。
足が止まる。
息が詰まる。
目の前に、二つの存在。
生涯で決して見るはずのなかった光景。
一つは、角を持つ赤子の面を被った人間。
雨の中、静かに立っている。
もう一つは、宙に浮かぶ女。
裂けた口。
霧に溶ける半身。
「……化け物……」
声は、叫びになる前に砕けた。
リオは振り向かない。
そのまま通り過ぎる。
だが、警備員の精神は、すでに救いようがなかった。
囁きが、脳を満たす。
――地獄の使者が来た。
――お前が刻んできた傷を、すべて返しに。
――動くな。
――じっとしていろ。
――自分を守れ。
脚が震える。
力が抜ける。
銃が、ゆっくりと下がった。
雨と霧の中、彼は凍りついたまま立ち尽くす。
二つの影は、丘の上の大邸宅へと消えていった。
そして――
警報は、まだ鳴らない。
第十九ユニット、倒れる。
管制室のモニターが明滅する。
第二十。
二十一。
二十二。
二十三。
二十四。
二十五。
二十六。
次々と崩れ落ちる身体。
虚ろに開いた眼。
空を掴む指。
外傷は、ない。
「……くそ」
警備作戦指揮官が立ち上がった。
誠式 ジロウ。
元・首影。
首座影護課の生き残り。
旧時代から続く、最後の番人。
「……もう、侵入されている」
彼は主警報のスイッチを叩いた。
サイレンが、夜を引き裂く。
「全ユニット」
通信回線に乗る声は、冷たく、鋭い。
「最優先。マダムの居室前に集結。今すぐだ」
警報が、すべてを変えた。
静寂を生きてきたリオに、圧がかかる。
灯り。
走る足音。
装填される銃。
彼は風のように動く。
影から影へ。
判断が生まれる前に、距離を殺す。
警備員たちは《主》の部屋へ殺到する。
銃を構え、荒い息を吐きながら。
管制室で、誠式はモニターを睨んでいた。
高宮 ミスズが、寝台で身を起こしている。
(どうか……)
(冷静でいてくれ。生き延びろ)
リオは本館へ踏み込む。
警備員たちは、動けない。
彼ではない。
その隣にいるもののせいだ。
裂け口の亡霊が、静かに浮かぶ。
勇気は、音もなく崩れ落ちる。
モニターの中で、銃を向けた警備員たちは、誰一人として引き金を引けない。
映像には、何も映っていない。
それでも、全員が倒れていく。
「……これが」
誠式は、低く呟いた。
「権力を殺す幽鬼――
**死顎**か」
彼は立ち上がった。
この状況に備える訓練を受けた者は、ただ一人。
武器を手に取る。
「俺が出る」
二人のオペレーターに告げる。
「よく見ていろ」
扉を出る足取りは、揺るがない。
外では、霧が待っていた。
--------
リオは静かに、ミスズの部屋の扉へと歩み寄った。
周囲では、警備員たちが立ったまま、あるいは倒れたまま、半ば意識を失っている。目は開いたまま、身体は震え、理由の分からない恐怖に思考を沈めていた。
巨大な扉の前で、リオは足を止める。
持ち上げた手が、冷えきった分厚い鉄の表面に触れた。
**誘声**が、ゆっくりと動く。
その姿は霧へとほどけ、滲むように扉をすり抜け、死の吐息のように室内へ侵入していった。
――その瞬間。
ドンッ!
銃声が炸裂する。
リオは反射的に身を跳ばした。
動きは短く、無駄がない。放たれた弾丸は扉を打ち、甲高い音を立てて跳ね返り、床に転がった。
その動きに引き戻されるように、誘声の霧が歪み、扉の向こうとの接続を断たれて外へと引きずり出される。
リオは振り向いた。
そこに立っていたのは、体格の良い一人の男だった。
背筋は伸び、拳銃は安定して構えられている。
他の者たちに見られた動揺はなく、呼吸も乱れていない。
「……これが」
男の声は低く、だが明瞭だった。
「噂の、殺しの亡霊か」
目を細める。
「――シガクか?」
誘声が空中でゆっくりと身を反転させる。
霧が薄れ、一瞬だけ、その顔がセイシキの視界に露わになる。
裂けすぎた口。
空虚。
人のものではない造形。
そして――
囁きが、届いた。
叫びではない。
脅しでもない。
それは思考の最奥、最も触れられたくない隙間へと滑り込む。
名。
忘れ去った顔。
葬り去った決断。
拒むことを許されなかった命令。
ドンッ!
セイシキが再び引き金を引く。
リオは避ける。
今度は、さらに近くで。
動きは速く、簡潔で、計算されていた。
まるで、引き金が引かれるより先に、弾道を知っていたかのように。
二発目の弾丸が床を叩く。
リオは再び身を正し、男を見据える。
「……なるほど」
声は静かで、感情を含まない。
「これが、首座影護課の実力か」
視線が交錯する。
霧と銃口、
そして二人にしか聞こえない囁きの狭間で――
見えない二つの極が、同じ運命へと引き寄せられていた。




