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刻命 - KOKUMEI  作者: カンボロ


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7/7

嵐は始まった

午前0時45分、リオの意識が戻った。

彼は二階にある自分だけの小さな部屋で、胡坐をかいた姿勢のまま目を覚ました。そこは、彼が普段ひとりになるための場所だった。

その正面、木の床の上には、一巻の巻物が整然と置かれていた。

部屋は闇に包まれている。閉ざされた壁や窓の隙間から、かすかな光の筋がわずかに滲み込むだけだ。だが、彼が身につけている角の生えた赤子の面によって、その闇は意味を失っていた。

リオは慎重に巻物を手に取り、開いた。

中には一つの名が記されている。標的の名だ。

その下には、簡潔な情報が並んでいた。

処刑当日の状況。行動パターン。周囲の環境。

詳細な指示は、どこにもない。

それで十分だった。

これらの断片から、リオは一つのことを悟る。

残りは、自分自身の責任だということを。

死神は運命を書き記すだけで、人がそれをどう迎えるかを見届けるだけなのだ。

リオの視線は、巻物の端へと移った。

そこには、はっきりとした手形の印が刻まれていた。

その中央に、一文字の簡素でありながら重い漢字がある。

『任務』

――使命。

リオは一瞬、目を閉じた。

そして手を上げ、今朝、焼けつくように感じた掌を見つめる。熱はすでに消えていたが、その感覚は完全には消え去っていない。

その印は、まるで血の中で生きているかのようだった。

彼は息を整える。

思考が定まり、意志が揺らがなくなったその瞬間、

リオは掌を巻物の手形に重ねた。

短い一息とともに――

バフッ。

彼の身体は消えた。

光もなく、音もない。

ただ、空気が虚空へ吸い込まれるような、一瞬の渦だけが残る。

闇の部屋に、無から生じた薄い煙がしばし漂い、やがて静かに消えていった。


午前一時。

夏日市の丘陵地に広がる高級住宅街は、いつもと変わらぬ静寂に包まれていた。

庭園灯が淡く地面を照らし、薄い霧がその光を柔らかく歪めている。山から吹き下ろす風が木々を揺らし、湿った土の匂いを運んでいた。

この場所は外界から切り離されたかのようで、日常と非日常の境界線に存在しているように感じられた。

夏日市は首都・新京からそう遠くない山岳都市である。

富裕層に人気の観光地として知られ、昼間は人で賑わうが、夜になると一変する。深夜を過ぎれば、この街は静かに口を閉ざし、選ばれた者だけの世界となる。

その一角に、厳重な警備に守られた一軒の大邸宅があった。

そこは 高宮みすず の私邸である。

七十四歳。

皇国史上、唯一の女性大統領。

最大政党《民主進歩党》の創設者にして現党首。

彼女の父は 高宮不露田。

建国の父であり、初代大統領。

「高宮」という名は、単なる姓ではなく、権力と歴史そのものを意味していた。

みすずの政権は一期で終わった。

強硬な政策は民意と乖離し、父の理想とも背を向けたものだと批判された。

次の選挙で敗北し、彼女は表舞台から姿を消した。

――少なくとも、表向きは。

だが、権力は必ずしも選挙で終わるものではない。

数十年にわたり、高宮みすずは政治の深部に網を張り巡らせてきた。

人脈、忠誠、負債。

それらは静かに、確実に彼女の名の下で結ばれている。

一部では、こんな噂が囁かれている。

――現大統領は操り人形にすぎない。

――真に国を動かしているのは、高宮みすずだ。

邸宅は丘の中央に聳え立ち、夜闇の中で重々しい存在感を放っていた。

その姿は静かで冷たい威圧を纏い、もはや「家」というより「城」と呼ぶに相応しい。

本館の延床面積は約六千平方メートル。

三ヘクタールの敷地の中央に構えられ、太い柱が高い屋根を支えている。

装飾は最小限に抑えられ、美しさより防御を優先した造り。

ここは住居であり、同時に要塞だった。

敷地全体は五メートルを超える高い塀で囲まれている。

その上には鉄柵と監視装置が設置され、死角はほとんど存在しない。

内側には広い中庭があり、軽装甲車すら展開できる余裕があった。

警備詰所は要所に配置されている。

夜間警備は最高警戒態勢。

大統領警護隊の精鋭十名が交代で警護に当たっていた。

中には、みすずが在任していた十三年前から仕えている者もいる。

さらに警察・諜報要員二十名。

加えて、軍から十五名が派遣され、昼夜を問わず警戒に就いていた。

二十四時間体制の多重警備。

すべては「国家の柱」と称される一人の人間を守るためだ。

近頃、「死顎しがく」 の噂が世間に広まりつつあった。

かつて暴君たちが次々と滅びたという古い伝承。

それが現代に蘇ったのではないかという、不気味な憶測。

警備側も無視はしていない。

もし伝説が真実なら。

もし、名が再び刻まれるのだとしたら。

高宮みすずも、例外ではない。

だが、その夜は――

すべてが平穏に見えた。

警報は鳴らない。

不審な動きもない。

異常報告も上がらない。

しかし――

彼らは、まだ気づいていなかった。

光の届かぬ場所で。

視線と信念の狭間で。

一つの影が、すでに静かに見つめていることを。

邸宅からおよそ百メートル離れた場所に、古い塔が建っていた。

かつて星と天候を観測するために造られた監視塔。

今ではほとんど使われていないが、機能は生きている。

頂上では、赤い警告灯が霧を裂くように点滅していた。

その塔の頂に、一枚の白い巻物が広がっている。

中央には、はっきりと刻まれた掌の痕。

そして、その中心に一文字。

『任務』

――ふん。

空気が、わずかに歪んだ。

次の瞬間、リオの姿が巻物の上に現れた。

光も、音もない。

まるで別の次元から切り取られたかのように。

彼はゆっくりと目を開き、立ち上がる。

夜風が黒衣を撫で、湿った土と金属の匂いを運んだ。

眼下には、眠らぬ新京の街灯が広がっている。

遠く揺らめく光の海。

そして、その先。

霧と闇に溶け込むように、あの邸宅がそこにあった。





管制室の中は、無機質なモニターの光に満たされていた。

密閉された空間にいるのは、三人だけ。

二人のオペレーターが並んで座り、CCTVの映像を監視している。

高天宮美鈴の邸宅を囲むすべての区域。

正門、庭園、外壁、巡回路、詰所。

あらゆる死角が、休みなく映し出されていた。

その背後に立つのは、警備指揮官。

冷めきったコーヒーを手にし、半ば眠気を帯びた目でモニターを見渡している。

今夜もまた、これまでと変わらぬ夜になるはずだった。

霧と霧雨のせいで、映像にはわずかなノイズが走っている。

だが、不審な動きはない。

――その時。

「指揮官。」

一人のオペレーターが、画面に身を乗り出した。

「第19ユニット……倒れています。」

指揮官はすぐに前へ出た。

西側エリアのモニターには、一人の警備員が地面に倒れている姿が映っている。

手から離れた懐中電灯だけが、虚しく空を照らしていた。

「呼びかけろ。」

短く、無駄のない指示。

オペレーターが通信ボタンを押す。

「第19ユニット、こちら管制室。状況を報告せよ。」

返答はない。

薄いノイズだけが、スピーカーから流れた。

もう一度。

「第19ユニット、応答しろ。」

沈黙。

指揮官は眉をひそめた。

「ズームだ。」

映像が拡大される。

倒れた警備員の身体は、微かに震えていた。

両手は地面を掴み、目は見開かれたまま。

「生きています……」

もう一人のオペレーターが呟く。

「でも……どうして何も言わない?」

その瞬間――

「指揮官。」

別のモニターを指す声。

「東側。第20ユニットも……倒れました。」

画面が切り替わる。

警備員がふらつき、そのまま糸が切れたように崩れ落ちる。

「第21も……」

「22もです。」

オペレーターの声色が変わった。

まだ叫びではない。

だが、余裕は消えている。

指揮官は背筋を伸ばした。

「発砲は?」

「ありません。銃声も、接触映像も確認できません。」

次々と映る同じ光景。

第25ユニット。

第26ユニット。

倒れる。

抵抗なし。

何者とも接触せずに。

管制室が、数秒間、完全に沈黙した。

やがて指揮官が口を開く。

低く、だが迷いのない声だった。

「事故や急病じゃない。」

メイン通信に切り替える。

「管制室より、全ユニットへ。」

その声には、もはや眠気はない。

「最優先行動を変更する。全員、マダムの居室へ集結。」

一拍置いて、続けた。

「何を見ても、単独行動はするな。」

オペレーターが喉を鳴らした。

「指揮官……」

「カメラの中で……彼ら、誰かと話しているように見えます。でも……映っていません。」

指揮官はモニターを見据えたまま、表情を硬くする。

「もう、入っている。」

その一言だけだった。

そして――

霧と霧雨の向こう側で。

手順書にも、想定にも存在しない“何か”が、すでに動き始めていた。

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