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刻命 - KOKUMEI  作者: カンボロ


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7/17

嵐は始まった

午前0時45分、水上 リオの意識が戻った。

彼は二階にある自分だけの小さな部屋で、胡坐をかいた姿勢のまま目を覚ました。そこは、彼が普段ひとりになるための場所だった。

その正面、木の床の上には、一巻の巻物が整然と置かれていた。

部屋は闇に包まれている。閉ざされた壁や窓の隙間から、かすかな光の筋がわずかに滲み込むだけだ。だが、彼が身につけている角の生えた赤子の面によって、その闇は意味を失っていた。

水上 リオは慎重に巻物を手に取り、開いた。

中には一つの名が記されている。標的の名だ。

その下には、簡潔な情報が並んでいた。

処刑当日の状況。行動パターン。周囲の環境。

詳細な指示は、どこにもない。

それで十分だった。

これらの断片から、水上 リオは一つのことを悟る。

残りは、自分自身の責任だということを。

死神は運命を書き記すだけで、人がそれをどう迎えるかを見届けるだけなのだ。

水上 リオの視線は、巻物の端へと移った。

そこには、はっきりとした手形の印が刻まれていた。

その中央に、一文字の簡素でありながら重い漢字がある。

『任務』

――使命。

水上 リオは一瞬、目を閉じた。

そして手を上げ、今朝、焼けつくように感じた掌を見つめる。熱はすでに消えていたが、その感覚は完全には消え去っていない。

その印は、まるで血の中で生きているかのようだった。

彼は息を整える。

思考が定まり、意志が揺らがなくなったその瞬間、

水上 リオは掌を巻物の手形に重ねた。

短い一息とともに――

バフッ。

彼の身体は消えた。

光もなく、音もない。

ただ、空気が虚空へ吸い込まれるような、一瞬の渦だけが残る。

闇の部屋に、無から生じた薄い煙がしばし漂い、やがて静かに消えていった。

午前一時。

夏日市の丘陵地に広がる高級住宅街は、いつもと変わらぬ静寂に包まれていた。

庭園灯が淡く地面を照らし、薄い霧がその光を柔らかく歪めている。山から吹き下ろす風が木々を揺らし、湿った土の匂いを運んでいた。

この場所は外界から切り離されたかのようで、日常と非日常の境界線に存在しているように感じられた。

夏日市は首都・新京からそう遠くない山岳都市である。

富裕層に人気の観光地として知られ、昼間は人で賑わうが、夜になると一変する。深夜を過ぎれば、この街は静かに口を閉ざし、選ばれた者だけの世界となる。

その一角に、厳重な警備に守られた一軒の大邸宅があった。

そこは 高宮 ミスズ の私邸である。

七十四歳。

皇国史上、唯一の女性大統領。

最大政党《民主進歩党》の創設者にして現党首。

彼女の父は 高宮 フロダ。

建国の父であり、初代大統領。

「高宮」という名は、単なる姓ではなく、権力と歴史そのものを意味していた。

ミスズの政権は一期で終わった。

強硬な政策は民意と乖離し、父の理想とも背を向けたものだと批判された。

次の選挙で敗北し、彼女は表舞台から姿を消した。

――少なくとも、表向きは。

だが、権力は必ずしも選挙で終わるものではない。

数十年にわたり、高宮 ミスズは政治の深部に網を張り巡らせてきた。

人脈、忠誠、負債。

それらは静かに、確実に彼女の名の下で結ばれている。

一部では、こんな噂が囁かれている。

――現大統領は操り人形にすぎない。

――真に国を動かしているのは、高宮 ミスズだ。

邸宅は丘の中央に聳え立ち、夜闇の中で重々しい存在感を放っていた。

その佇まいは静かで冷たい威圧を纏い、もはや「家」というより「城」と呼ぶに相応しい。

本館の延床面積は約六千平方メートル。

三ヘクタールの敷地の中央に構えられ、太い柱が高い屋根を支えている。

装飾は最小限に抑えられ、美観よりも防御性を優先した造りだった。

ここは住居であると同時に、明確な意図を持った要塞である。

敷地全体は五メートルを超える高い塀で囲まれている。

その上部には鉄柵と各種監視装置が設置され、死角はほとんど存在しない。

内側には広い中庭が広がり、軽装甲車すら展開可能な余裕があった。

警備詰所は複数設けられ、要所ごとに人員が配置されている。

夜間警備は最高警戒態勢にあった。

大統領警護隊の精鋭十名が交代で配置され、その中には、ミスズが在任していた十三年前から仕えている者も含まれている。

さらに警察および諜報要員が二十名。

加えて、軍から派遣された十五名が昼夜を問わず警戒に就いていた。

二十四時間体制の多重警備。

すべては、「国家の柱」と称される一人の人間を守るために敷かれた布陣だった。

近頃、「死顎しがく」の噂が静かに広まりつつあった。

かつて暴君たちが次々と滅びたという、古い伝承。

それが現代に甦ったのではないかという、不気味な憶測である。

警備側も、それを単なる与太話として切り捨ててはいない。

もし伝説が真実であるなら。

もし、再び名が刻まれるのだとしたら。

高宮ミスズも、例外ではない。

だが、その夜は――

すべてが平穏に見えていた。

警報は鳴らない。

不審な動きもない。

異常報告も、ひとつとして上がっていない。

警備計画は想定通りに機能し、巡回は規則正しく繰り返されていた。

監視カメラは敷地内のあらゆる角度を捉え、赤外線センサーも正常値を示している。

夜の静寂は、厚い壁と規律によって完全に封じ込められているように見えた。

しかし――

彼らは、まだ気づいていなかった。

光の届かぬ場所で。

視線と信念の狭間で。

ひとつの影が、すでに静かに“到着”していることを。

邸宅からおよそ百メートル。

敷地外縁に近い丘の上に、古びた塔が立っていた。

かつて星と天候を観測するために建てられた監視塔だ。

今では使用頻度も低く、形ばかりの設備となっている。

だが、完全に放棄されたわけではない。

頂上では、赤色の警告灯が一定の間隔で点滅し、濃い霧を鈍く切り裂いていた。

その塔の頂に、一枚の白い巻物が広がっている。

風に煽られることもなく、まるで地面と一体化したかのように静止していた。

中央には、はっきりと刻まれた掌の痕。

そして、その中心に一文字。

『任務』

空気が、わずかに歪んだ。

次の瞬間、

リオの姿が巻物の上に現れた。

光も、音もない。

発生でも転移でもない。

そこに「いた」という結果だけが残る、不自然な出現だった。

彼はゆっくりと目を開き、立ち上がる。

夜風が黒衣を撫で、霧雨が面を濡らす。

角の生えた赤子の面の隙間を、水滴が静かに伝い落ちた。

眼下には、眠らぬ首都・新京の灯が広がっている。

遠く揺らめく光の海。

その先、闇と霧に溶け込むように――

高宮ミスズの邸宅が、確かにそこにあった。


管制室には、低い電子音だけが満ちていた。

無機質なモニターの光が壁を照らし、三人分の影を床に落としている。

中央に並ぶ二席には、二人のオペレーター。

交代制の深夜勤務。眠気を誤魔化すためのカフェインは、すでに効力を失いかけていた。

その背後に立つのが、警備指揮官。

背筋は伸びているが、呼吸は浅く、集中力だけで立っているのが分かる。

「異常なし、ですね」

片方のオペレーターが、半ば確認のように呟く。

もう一人は答えず、ただモニターを流れる映像を追っていた。

正門。

外壁。

中庭。

巡回路。

どの画面にも、不審な影は映らない。

霧と霧雨による映像ノイズはあるが、想定範囲内だ。

指揮官は腕時計に目を落とす。

午前一時十二分。

「……静かすぎるな」

独り言に近い声だった。

その瞬間、

左端のモニターが、わずかに揺れた。

「……ん?」

オペレーターの一人が身を乗り出す。

画面には、西側外周を巡回していた警備員が映っていた。

次の瞬間、

その男の足が止まる。

「止まったぞ、第19だ」

指揮官が一歩前に出る。

画面の中で、第19ユニットの警備員は、何かを見上げるように顔を上げた。

その動きは唐突で、不自然だった。

そして――

崩れる。

膝から力が抜け、前のめりに地面へ倒れ込む。

手にしていた懐中電灯が転がり、光だけが空を照らした。

「……倒れました」

声が、わずかに震える。

指揮官は即座に命じた。

「通信」

オペレーターが無線を開く。

「第19ユニット、こちら管制室。状況を報告せよ」

返答はない。

「第19ユニット、応答しろ」

ノイズ。

それだけ。

指揮官は画面を睨みつける。

「ズーム」

映像が拡大される。

倒れた警備員の身体は、微かに震えていた。

目は開いたまま。

叫び声も、苦悶もない。

「生きては……います」

「だが、正常じゃない」

そう言った直後だった。

「指揮官!」

別のオペレーターが声を上げる。

「東側、第20ユニット――」

画面が切り替わる。

巡回中の警備員が、ふらりとよろめき、そのまま倒れた。

「第21も……!」

「22もです!」

次々に切り替わるモニター。

同じ光景。

接触なし。

発砲なし。

争った形跡もない。

第25。

第26。

倒れる。

静かに。

まるで糸を切られた操り人形のように。

管制室が、完全に沈黙する。

指揮官は、ゆっくりと息を吐いた。

その声は低く、冷えていた。

「事故や急病じゃない」

メイン回線を開く。

「管制室より、全ユニットへ」

眠気は、もう微塵も残っていない。

「最優先行動を変更する。全員、マダムの居室へ集結」

一拍置き、続ける。

「何を見ても、単独行動はするな。必ず複数で動け」

オペレーターの一人が、喉を鳴らす。

「指揮官……」

「カメラの中で……彼ら、誰かと話しているように見えます。でも……映っていません」

指揮官は答えなかった。

ただ、モニターの奥を見据えたまま、短く言った。


「もう、入っている」


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