運命の名
斬保勝郎の死が国中に知れ渡ってから、五日が過ぎていた。
多くの人々にとって、その朝は、いつもと何ひとつ変わらない日だった。
リオは、普段と変わらぬ歩調で駅へ向かっていた。
朝のひんやりとした空気に呼吸を溶かし込み、足取りは安定していて、急ぐことも、ためらうこともない。
午前七時ちょうど。
その瞬間、彼の内側で微かな震えが走った。
それは肩口から始まり、腕を伝い、やがて掌へと集まっていく。
次の瞬間、骨の奥まで食い込むような熱が、掌を貫いた。
焼けつくような痛み。
まるで、存在の根まで掘り起こされるかのような感覚。
赤く染まった皮膚の上に、一文字の漢字が、はっきりと浮かび上がる。
『任務』
――使命。
リオは一瞬だけそれを見下ろし、静かに頷いた。
驚きはない。息を呑むこともない。
その徴は、彼にとってすでに見慣れたものだった。
彼はただ、短く目を閉じる。
この瞬間が訪れることを、ずっと前から想定していたかのように、思考の糸を整える。
足は止まらない。
駅前を行き交う人々。
規則正しい金属音を響かせて走り抜ける電車。
現れては消えていく無数の顔。
すべてが流れ、すべてが繰り返される。
まるで、終わることのない一枚の動く絵画のように。
――道。
――旅。
それが、この世界で息をするすべての魂に与えられた、生の本質だ。
一度、死の向こう側へ渡り、再び戻ってきた彼には、その真理が驚くほど単純に思えた。
退屈な日常でさえ、最後の息の後に広がる闇に比べれば、遥かに価値がある。
ましてや、人をこの世界につなぎとめるものがあるなら。
温かな愛。
家族の存在。
心を緩める、ささやかな時間。
それらは、人を生へ縛りつける金色の糸だ。
いつか必ず訪れる死の呼び声を、少しでも遠ざけようと、人が抗う理由。
リオはホームの端で足を止めた。
目の前を、一本の電車が高速で通り過ぎていく。
それぞれの目的地へ向かう人々を乗せたまま、互いを知ることも、振り返ることもなく。
――だが、運命は。
胸の奥で、風が木々をすり抜けるような声が囁く。
運命とは、見えない筆で書かれる書だ。
その一画一画は、人が気づくよりもずっと前に、すでに定められている。
広大な生の紙面には、名前が整然と並んでいる。
誰が先に旅を終えるのか。
誰が、まだこの地を歩き続けるのか。
そして今日――
運命は、その名を一つ、指し示した。
_____
ベッド脇の小さなテーブルに置かれた時計は、23時30分を指していた。
リオはゆっくりと目を覚ました。まだ眠りの名残がまぶたに重く残っている。
隣では、ハナがまだ完全には眠っていなかった。リンはつい先ほど眠りについたばかりで、小さな呼吸が規則正しく、二人の間で温もりを残している。
リオは、子どもを起こさぬよう、慎重に上体を起こした。
「……今夜も、上の部屋で寝るの?」
ハナの声は低く、半分眠っているようでいて、その瞳は覚めていた。
リオは小さく微笑み、そっと近づいてハナの髪に触れた。それは、ずっと前から変わらない仕草だった。
「ああ」
「ごめん。知ってるだろう。これは昔からの習慣なんだ。君と出会うずっと前から」
ハナはすぐには答えなかった。
「……今は、子どもがいるのよ」
その声は静かだったが、言葉の奥に抑えた何かがあった。
リオは一度、息を吸った。
「分かってる」
「君が疲れていることも。俺があまり一緒にいられないことも」
視線を落とし、続ける。
「それでも……これが一番いい。俺たちのために」
ハナはリオの手を握った。今度は強く。逃がさないように。
「……怖いの」
リオは彼女を見た。
「明日の朝、ニュースを見るのが怖いの」
「政治家。官僚。……誰かが、死んだって」
ハナは小さく息を整えた。
「あなたが私たちと一緒に眠った朝は、いつも静かだった」
まっすぐに、リオを見る。
「でも、誰かが死んだというニュースが出ると……」
「その前の夜、あなたは必ず上の部屋にいる」
声を荒げることはなかった。
「何も起きない夜でも、あなたは時々そこに行く」
「でも……本当に何かが起きる夜は、必ず」
ハナは喉を鳴らした。
「そこで何をしているのか、分からない」
「私に隠していることがあるのも、分かる」
部屋は静まり返った。
聞こえるのは、リンの寝息だけだった。
リオは驚いた。疑われたからではない。
ハナが、ここまで正直に口にしたことに。
彼女が賢いことは、分かっていた。
それでも、覚悟はしていなかった。
表情を抑える。
顔に先に語らせてはいけない。それは、長い経験が教えてくれたことだった。
「……ただの副業だよ」
「全部を話していないのは、認める」
「でも、いつか……必ず話す」
ハナの指は緩まなかった。むしろ、さらに力がこもる。
「失うのが、怖いだけ」
その声は、ほとんど囁きだった。
リオは彼女を抱き寄せた。
髪を撫でる手は、先ほどよりもゆっくりだった。
額に、そっと口づける。
「大丈夫だ」
「俺は生き続ける」
「君を守るために」
「リンを守るために」
ハナは答えなかった。ただ目を閉じた。
「眠って」
「愛している」
ハナは、リオの手を離した。
リオは立ち上がり、静かに部屋を出る。扉をそっと閉める。
家の中は薄暗い。
階段へ向かい、一段ずつ上っていく。
壁の一部に隠された特別な鍵で、扉を開けた。
暗い部屋。外からのわずかな光だけが差し込んでいる。
中に入り、扉を閉め、再び鍵をかける。
木の床の上を、音も立てずに歩く。
部屋の隅にある、さらに小さな隠し部屋へ。
そこから、古い木箱を持ち上げた。
箱を開く。
中には、黒一色の装束が丁寧に畳まれていた。
その上に、角を持つ赤子の顔を模した面。
表情は、ない。
リオはそれを身に着ける。
一つ一つの動きは正確で、無駄がなく、音もない。
部屋の中央へ進み、正座する。
三つの印を結ぶ。
その瞬間、ちょうど真夜中だった。
彼の身体は前へと崩れ落ちた。
力を失い、
静かに。
_____
リオは、一本の古い石畳の道に立っていた。
道はまっすぐ前方へと伸び、その先には巨大な社が静かに佇んでいる。
右にも、左にも、そして背後にも――
そこには何も存在しない。
霧でもなく、影でもない。
ただ、果てしない闇だけが広がっていた。
この場所に存在するものは、石の道と、彼方にある社だけだった。
リオは歩き出す。
道の両脇には灯籠が並び、かすかな光を揺らしている。その光は闇を照らすというより、闇の深さを際立たせているようだった。
道の中央には、巨大な黒い鳥居がそびえ立っていた。
それは、彼がすでに去った世界と、今まさに踏み入れようとしている領域との境界を示す標だった。
リオは足を止めない。
鳥居を、そのまま通り過ぎる。
やがて、社の扉が目前に現れた。
扉の左右には、二体の巨大な像が立っている。
一体は顔のない人の姿をし、六本の腕を持ち、仏僧の装束をまとっていた。
もう一体は人の体に梟の頭を持ち、両手に長い剣を携えている。
社の扉には、黄色い札が貼られていた。
赤い墨で長い呪文が書かれた封印符。
だが、その札はすでに裂け、扉の隙間を覆いきれていなかった。
リオは十段の石段を上る。
その足取りは揺るがない。
そして、社の中へ入った。
社の中心には、広大な空間が広がっていた。
その奥、リオの正面に、一人の女が玉座に座している。
息を呑むほどに美しい女だった。
白と黒の着物を優雅にまとい、その佇まいは静謐そのもの。
感情の読めない表情は、風ひとつ立たない水面のようだった。
彼女の左右には、二つの高い影が立っている。
柱のように動かず、ただそこに在る。
玉座の前には、低い机が一つ置かれていた。
その上には、一巻の巻物が整然と置かれている。
リオはさらに奥へと進む。
距離が縮まるにつれ、女の傍らに立つ影の輪郭がはっきりしていく。
それは、影ではなかった。
社の外で見た、あの守護像と同じ姿だった。
リオは机の前で足を止める。
彼は、玉座の女をしばらく見つめる。
沈黙が、空間そのものを圧迫する。
そのとき、守護者の一体が半歩前に出た。
「おい」
低く、重い声が社全体に響き渡る。
「偉大なる死神の御前だ。
頭を垂れよ――儚き人の子よ」




