事実の改竄
午前三時。
高級住宅街の静寂が、ほぼ同時に到着した数台の車によって破られた。濡れたアスファルトの上で、タイヤが低く軋む。エンジンは素早く切られ、合図もなくドアが開く。
最初の車には、警察監察本部長・斬保勝郎の妻と、彼の専属運転手が乗っていた。女の顔色は蒼白で、目は赤く腫れている。身体は今にも崩れ落ちそうで、運転手の肩に支えられながら、二人は屋敷の中へ入っていった。
室内には、すでに三人の警察官がいた。斬保の身辺警護を務めていた者たちだ。
警部補の毛利氷山と、警部の森田氷河は、一階のリビングに立っていた。その足元には、同じく警部である松壁浩人の遺体が横たわっている。
遺体は整えられていた。拳銃の位置、倒れ方、視線の向き。すべてが、事態が制御不能になる前に、斬保自身が想定していた“最初のシナリオ”に合わせて配置されていた。
部屋の隅では、氷結健一が椅子に座り込んでいた。警察官一等、まだ若い男だ。彼は虚ろな目で床を見つめている。
警察監察本部長の側近として配属されて、まだ二か月。自分が引き金を引き、兄のように慕っていた人間を撃ち殺すことになるなど、想像したこともなかった。
ほどなくして、サイレンを鳴らした警察車両が到着する。赤と青の回転灯が、屋敷の壁、鉄製の門、夜露に濡れた木々を照らした。
車から降りてきたのは、神港市警副本部長、警視総監・四道間匠だった。
斬保の右腕。公式記録には決して残らない仕事を、長年処理してきた男。
毛利と森田が簡潔に状況を報告する。四道間は無言で屋敷に入り、健一を一瞥しただけで通り過ぎた。
泣き崩れる斬保の妻にも、特別な反応は示さない。
四道間はそのまま二階へ向かった。毛利と森田が後に続く。
「監察本部長が、少しCCTVを整理すると言っていました」 毛利が言う。
「三十分経っても戻られなかったので、様子を見に行きました」 森田が続けた。
二階の書斎で、斬保勝郎の遺体が発見された。
拳銃は、まだ彼の手に握られていた。しかし、血は後頭部――うなじの辺りから流れていた。
四道間は、しばらくその光景を見つめた後、静かに振り返った。
「昨日の昼からのCCTV映像をすべて複製しろ」 淡々と命じる。 「終わったら、システムから完全に削除だ」
間もなく、さらに二台の警察車両が到着した。
警察庁警備局長、警視監・桐生将。 警察庁監察官、警視総監・北条礼司。
二人とも、斬保の“内側”にいた人間だ。一目見ただけで理解した。今夜起きたことは、絶対に制御下から外れてはならない。
午前三時三十分。
「安全」と判断された者たちだけが、リビングに集められた。
健一は俯いたまま座っている。斬保の妻はショック状態で、ほとんど言葉を発さない。運転手も沈黙したままだ。
毛利と森田は壁際に立ち、四道間、桐生、北条の三人が中央で小さな輪を作った。
そこで、新しいシナリオが作られた。
旧案は破棄。現場の事実は、あまりにも危険だった。
最終的に決まったのは、単純で、清潔で、世間が飲み込みやすい物語。
斬保勝郎は、油断した松壁浩人を射殺した。 その後、二階に上がり、自ら命を絶った。
被害者は二人。 物語は一つ。 疑問の入り込む余地はない。
全員が無言で頷いた後、四道間が口を開いた。
「自殺という筋書きなら」 低い声で言う。 「引き金を引くのは、誰だ?」
沈黙。
毛利は目を伏せ、森田は視線を逸らす。桐生と北条は、微動だにしない。
誰も、自分の手を汚す気はなかった。
やがて、全員の視線が、一人の若者に集まった。
氷結健一。
四道間は小さく息を吐き、彼に近づいた。 スーツのポケットから、ラテックス手袋を取り出し、健一の足元に投げ落とす。
「お前だ」
健一の肩が跳ねる。 「自分は……指揮官では――」
「拒否は認めない」 四道間は腰の拳銃を抜き、健一に向けた。 「さもなければ、死者が三人になる」
選択肢はなかった。
健一は数秒、手袋を見つめた。震える手。 最年少。巡査一等。 最も切り捨てやすい存在。
「従えば、昇進は約束する」 四道間が付け加えた。
健一は手袋を拾い、ぎこちなく装着した。
無言のまま、二階の書斎へ向かう。四道間が後ろにつく。
斬保の遺体がそこにあった。 うなじの血は乾き、金属の匂いが、高級な木材とカーペットの香りに混じっている。 拳銃は、まだ固く握られていた。
健一は、斬保の横に立つ。 穏やかな顔。まるで眠っているようだった。
唾を飲み込み、ゆっくりと屈む。
冷たく、重い手。 拳銃を握る斬保の手を掴む。
銃口を頭部へ向ける。 角度を調整し、距離を整える。 まだ存在しない報告書の通りに。
健一は目を閉じた。
――ドン。
銃声が部屋を震わせた。
斬保の身体がわずかに動き、完全に静止する。 銃口から薄い煙が立ち上り、火薬の匂いが広がった。
健一は一歩後ずさる。激しく上下する胸。震えが止まらない。
背後で、四道間が小さく頷いた。
「終わりだ」
シナリオは完成した。
その夜、死んだのは斬保勝郎だけではない。 氷結健一という若い警察官も、同時に葬られた。
肉体ではない。 “清白な未来”が、だ。
四道間は初動報告書に署名した。 それが、すべての報道と捜査の基盤となる。
数分後、さらに警察車両が集まり、救急隊が到着し、規制線が張られた。
門の外では、報道陣が集まり始める。 カメラとマイクが、悲劇の屋敷へ向けられた。
その家の中で、真実はすでに封印されていた。
残されたのは、 信じられるために作られた物語だけだった。
____
午前六時四十五分。
リオは仕事へ向かうため、家を出る準備をしていた。玄関先で、彼は一瞬立ち止まる。妻の額にそっと口づけをし、続いて、まだ眠そうに目をこする娘の頬に唇を触れた。
赤ん坊は小さく声を漏らし、まだ世界に完全には目覚めていない。
「行ってくるよ。父さん、仕事に行ってくるからな」
リオは小さく囁いた。
「いってらっしゃい」
妻は微笑みながら、娘の代わりにそう答える。
「気をつけて。今日も、頑張って」
リオは薄く笑い、扉を閉めた。
外に出ると、朝の空気は驚くほど軽かった。足取りは自然で、無駄な力が入っていない。彼の意識は、腕時計へと向かう。針が示す時間は、彼が嫌というほど知っている刻だった。
午前七時。
リオは、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
彼は命令を待っているわけではない。
言葉を待っているわけでもない。
待っているのは――兆しだった。
右の掌から這い上がってくる、あの焼けるような熱。
慣れきってしまった痛み。
そして、ほんのわずかな間だけ現れる、あの文字。
だが――何も起こらない。
掌は冷たいまま。
皮膚は静かで、異変はない。
空白だった。
秒針が進む。
七時一分。
リオは、ゆっくりと息を吐いた。
気づかぬうちに、息を止めていた自分に気づく。
今日は……使命はない。
まだ、新しい名は刻まれていない。
今夜は、
花と凛と一緒に眠れる。
口元が、わずかに緩む。
小さな家。
規則正しい寝息を立てる娘。
朝の光の中で微笑む妻。
その光景が、胸の奥に広がる。
ほんの一瞬だけ。
リオは本気で信じてしまった。
――今夜、自分は
夫として、父として、
何事もなく家に帰れるのだと。




