水上リオ(みずのえ・リオ)
晴れ渡った朝、ひとりの男が二階にある書斎を後にし、階段を下りてきた。
階下からは、朝食の香りが家中に広がっている。
小さな家の台所では妻が忙しそうに立ち働き、すぐそばの小さなベッドでは、赤ん坊が穏やかな寝息を立てて眠っていた。規則正しい呼吸、安らかな顔。
男は静かに近づき、ベビーベッドの縁に片手を置き、身を屈めてその小さな顔を覗き込む。
いつの間にか、微笑みが浮かんでいた。それほど自然で、自分でも気づかないほどに。
「おはよう、凛」
彼は小さく囁いた。
「今日も、きれいだね」
ほんの一瞬、外の世界が消えたように感じられた。
ゆっくりと流れる時間と、自分の人生を満たしてくれる小さな存在だけがそこにあった。
「リオ」
台所から妻の声がする。
「着替えてきて。朝ごはん、もうすぐできるわ」
リオは顔を上げ、立ち上がった。
その笑顔はまだ消えないまま、軽い調子で答える。
「わかったよ、愛しい妻」
足音を忍ばせて歩み寄り、後ろからそっと抱きしめる。
「会えなくて、すごく寂しかった」
突然のことに、妻は小さく悲鳴を上げ、すぐにくすりと笑った。
水ノ江リオ、二十八歳。
皇国の首都・新京の外縁に位置する衛星都市、**暁**で暮らしている。
新京中心部にあるオフィスビルの一つで、彼はごく普通の会社員として働いていた。
職場の窓からは、高層ビル群、林立する塔、夜ごとに輝く新京の光景が一望できる。
進歩と繁栄の象徴。
手が届きそうで、決して掴めない場所。
リオは流れ者だった。
東の彼方、**極東島**で生まれ育った。
資源に恵まれ、金鉱さえ眠る島。
しかしその富は住民の生活とは無縁だった。
資源の恩恵は支配者たちの手にのみ流れ、島に残されたのは貧困と疲弊。
極東島は「取り残された土地」と呼ばれ、生きるに値しない場所として扱われていた。
リオはその島を去った。
理由は単純だった。
もっと良い人生を、もっと公平な世界を信じたかった。
新京は、その答えだった。
少なくとも、かつてはそう信じていた。
妻の名は時雨いはな(ハナ・シグレイ)、二十四歳。
聡明で、飾り気のない女性だ。
結婚前は仕事を持ち、自分自身の世界を生きていた。
だが結婚し、妊娠し、娘――**凛(水ノ江 凛)**を出産してからは、仕事を辞め、この小さな家庭に人生を注ぐことを選んだ。
それは後悔を伴う犠牲ではなかった。
彼女にとって、それが最も自然で、正しい選択だったのだ。
二人が暮らすのは、街の片隅にある簡素な家。
広くもなく、豪華でもない。
それでも温かな朝食と、小さな笑い声、声に出されることのない希望を抱くには十分だった。
外から見れば、彼らはほとんど理想的な家族だった。
多くの人が密かに憧れる、ごく静かな幸福。
ダイニングで、リオはゆっくりと朝食を口に運ぶ。
時折、窓辺で凛を抱くハナに視線を向ける。
朝の光が妻の頬を柔らかく照らし、腕の中の小さな命は静かに眠っていた。
リオは微笑む。
穏やかで、あまりにも完全な笑み。
まるでこの日々に、影が入り込む余地などないかのように。
部屋の隅で、テレビがついていた。
誰も気に留めていなかったその画面に、朝のニュースが映し出される。
――警察幹部、死亡。
皇国警察より衝撃的な知らせが入った。
国家警察監察局長、**残暮勝郎**が、自宅で死亡しているのが発見された。
同じ現場で、彼の護衛を務めていた警察官、**松壁博人**も死亡していた。
初期報告によれば、残暮の遺体は自宅二階の私室で発見され、頭部に銃創があった。
彼の手元には拳銃が残されていた。
一方、松壁は一階、階段付近で倒れており、同じく致命的な銃創を負っていた。
二人の遺体が異なる階で発見されたことから、事件は単純な自殺として片付けられてはいない。
警察は、殺人、あるいは別の可能性も含め、慎重に捜査を進めている。
内部では関係者への厳格な事情聴取が始まり、この事件は警察組織全体を揺るがしていた。
さらに、事件と時を同じくして、残暮勝郎が全国規模のオンライン賭博ネットワークの後ろ盾であったという噂が、証拠めいた情報と共に流れ始めている。
だが警察当局はこれを全面的に否定し、公式な捜査結果を待つよう呼びかけている。
ハナの動きが止まった。
視線はテレビ画面に釘付けになる。
「ねえ……」
リオは顔を上げた。
「最近、こういう話ばかりよね」
「亡くなる人、みんな……どこかおかしい過去を持ってる」
リオは小さく頷いた。
「会社でも話題になってる」
少し間を置いて、ハナはためらいがちに言った。
「もし噂が本当なら……」
「罰が当たった、ってことなのかしら」
リオは箸を止め、視線を落とした。
「人を裁くのは、得意じゃない」
静かにそう言ってから続ける。
「でも……どんな行いも、いつか自分に返ってくる。良くても、悪くても」
再び食事を口に運ぶ。
その笑顔は、先ほどよりもわずかに薄かった。
そのとき、彼の脳裏に――昨日の記憶がよぎる。
前日。
午前六時五十分。
リオは駅へ向かう道を歩いていた。
ほぼ毎朝通る、同じルート。
二十分ほどの道のりで、街が目覚めていく様子を眺めることができる。
小さな家並みが、半分シャッターの降りた商店街へと変わる。
街灯はまだ消えきらず、朝の空気は冷たく澄んでいた。
淡い灰色のシャツ、濃色のスラックス、黒の革靴。
背中のリュックにはノートパソコンと数冊の本。
目立つものは何もない。
彼はただの通勤者の一人にしか見えなかった。
午前七時、ちょうどその瞬間。
リオの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
右手の掌に、灼けるような熱が走った。
呼吸を止めるのは一拍だけ。
表情はほとんど変わらない。
歩きながら、彼はそっと手を開く。
掌に、ひとつの文字が浮かび上がっていた。
――刻命。
一瞥で十分だった。
幻ではない。
数秒後、文字は消え、熱も跡形なく消え去る。
リオは拳を握り、再び歩き出した。
駅に近づくにつれ、人の流れが増えていく。
スーツ姿の会社員、制服の学生、子どもの手を引く母親。
会話と足音、車の音が混ざり合う。
リオはその流れに溶け込む。
何事もなかったかのように。
駅構内はすでに混雑していた。
電子掲示板が淡く点滅し、改札機が規則的な音を立てる。
カードをかざす。
短い電子音。
午前七時三十分。
首都行きの列車が滑り込んでくる。
リオは扉の近くに立ち、列車は定刻通りに発車した。
外から見れば、それはただの平凡な一日だった。
だが誰も知らない――
水ノ江リオは、すでに今夜に備えている。




