道具
目を覚ましてから二日目、リオはある違和感に気づき始めた。
腕が、もう痛くない。
彼はわざとベッドの縁に軽く腕をぶつけてみた。
本来なら走るはずの鋭い痛みはなかった。ただ、皮膚に何かが触れたという感覚だけが残る。
看護師は強く言っていた。
「包帯は一か月は外さないでください。傷は深いんです。」
そのときリオは素直にうなずいた。
だが、静まり返った病室で、廊下を歩く足音が遠ざかるのを確認すると、彼はゆっくりと上体を起こした。
片手で、もう片方の腕に巻かれた包帯をほどいていく。
白い布が、静かに床へ落ちた。
そこにあったのは、開いた傷口ではなかった。
皮膚はきれいに閉じている。
縫合の跡は確かに残っていたが、糸はまるで皮膚に溶け込んだかのように沈み、細い線となっている。腫れもなく、滲みもない。
彼は指でその部分を押してみた。
痛みは、ない。
リオはしばらく腕を見つめた。
――おかしい。
そう思っただけだった。
理由を探ろうとはしなかった。ただ静かに包帯を巻き直す。何事もなかったかのように。
医師たちは「驚異的な回復力」と表現した。
科学的な言葉の形をしていながら、その実、説明のつかない速さだった。
三日目、彼の状態は安定していると判断された。感染の兆候もなく、数値にも異常はない。
退院前に、精神科医との面談が設けられた。
明るすぎる診察室で、医師は穏やかな声で尋ねる。
なぜそんな行為に至ったのか。
どんな思考があったのか。
リオは淡々と答えた。
感情を大きく揺らすこともなく。
取り乱すこともなく。
まるで、あの夜に死の淵に立っていたのは、自分ではない誰かであるかのように。
三日目の夕方、彼は退院を許可された。
病院の自動ドアが静かに開く。
外の空気は冷たい。
歩き出す足取りは、不思議なほど軽かった。
完全に回復したからではない。
ただ――
彼の中の何かが、すでに「元に戻って」いたからだった。
その日の夕方、リオは自分の借りている部屋へ戻った。
玄関前の細い廊下は、いつもより静まり返っていた。隣室から聞こえるはずのテレビの音もない。階段を上り下りする足音もない。あるのは、薄暗い蛍光灯が発する微かな電気の唸りだけだった。
彼はドアの前で、数秒立ち止まる。
そのときだった。
違和感が、胸の奥に浮かぶ。
かすかに。だが確かに。
恐怖ではない。不安でもない。
ただ――何かが、正しい位置に収まっていないような感覚。
リオはゆっくりと廊下の左右を見渡した。誰もいない。剥がれかけた壁の塗装もいつも通りだ。動く影もない。変わったものは、何一つ見当たらない。
鍵を鍵穴に差し込む。
カチリ、という音が、やけに大きく響いた。
ノブを回し、扉がわずかに開く。
その瞬間、違和感はむしろ強くなった。まるで扉の向こうの空気だけが、わずかに重いかのように。
リオは無意識に息を止める。
扉をさらに押し開き、室内へ視線を向けた。
小さな居間は、最後に出ていったときと変わらない。隅の低いテーブル。折り畳み椅子。片付けきれずに積まれた本の束。椅子の背に掛けられたままのジャケット。
同じだ。
何も、変わっていない。
リオはゆっくりと息を吐いた。根拠のない緊張を自嘲する。薬の影響がまだ残っているのかもしれない。あるいは、精神が完全には安定していないだけか。
一歩、踏み入れる。
もう一歩。
その直後――
背後で、扉が静かに閉まった。
カチリ。
リオは振り向く。
そして、全身が凍りついた。
居間の中央に、男が立っていた。
背が高く、肩幅は広い。暗い金色の髪を後ろへ整え、彫りの深い顔立ちに高い鼻梁。顎の線は鋭く、その容貌は明らかに皇国〈コウコク〉の人間のものではない。
異邦人。
西洋の血を引く男。
明るい肌が、薄暗い室内で際立っている。質素でありながら仕立ての良い服を身にまとい、その佇まいは外交の場や交渉の席に立つ者のそれだった。新港〈シンコウ〉の労働者地区にある狭い賃貸部屋には、あまりにも不釣り合いだ。
男は、静かに立っている。
侵入者のような気配はない。
むしろ――
最初から、そこで待っていたかのように。
「お前は、誰だ。」
思っていたよりも強い声が出た。緊張が、かすかに滲む。
異邦の男は、薄く笑った。
友好的な笑みではない。長く探していたものを、ようやく見つけた者の表情。
「俺か?」
落ち着いた声だった。
「モタロウと呼べばいい。」
一歩だけ、距離を詰める。急ぐ様子はない。
「俺はコクメイだ。お前と同じ。」
リオは眉をひそめる。
「コクメイ……?」
その響きは初めて聞くはずなのに、どこかで知っている気がした。
闇。
古い社。
選択を迫る存在。
「……じゃあ、死神は本当にいるのか。」
ほとんど独り言だった。
モタロウは短く笑う。感情のない、乾いた音。
「当然だ。」
その瞳が、わずかに鋭くなる。
「死神は選ぶ。無作為に魂を拾うわけじゃない。道具として使える者を選ぶ。」
道具。
その言葉が、部屋の空気に重く沈む。
「俺の死神の名はナンキル。」
モタロウは続けた。
「お前のもとへ向かえと命じられた。」
「ナンキル……?」
リオは喉を鳴らす。
「命じられた? 何のために。」
「お前を管理するためだ。」
リオの肩がわずかに強張る。
「……病院に運んだのは、お前か?」
モタロウはわずかに首を傾けた。
「いや。別のコクメイだ。」
それだけ。
誇りも、補足もない。
「ナンキルは主にアメリカ大陸で姿を現す死神だ。俺はその配下にいる。」
上から下へ、値踏みするような視線がリオをなぞる。
「今日から、お前は俺の管轄だ。」
数秒の沈黙。
「これから三か月。」
平坦な声で告げる。
「道具として使える存在になる方法を教える。」
命令でも脅しでもない。
ただの事実の提示。
リオはその瞬間、はっきりと理解した。
自分の人生は、もう自分のものではない。




