Izurairu
意識が戻ったとき、
私は「場所」と呼べない場所に立っていた。
光はない。
影もない。
上も、下もない。
あるのは――黒。
濃く、逃げ場のない、完全な黒だけだった。
私は立っていた。
俯く。
手がある。
足がある。
身体は欠けていない。
生きていた頃と、同じ形で。
一歩、踏み出す。
足は何かを踏んだ。
確かに、踏みしめた感触がある。
だが、床はない。
質感も、形も、存在しない。
あるのはただ、
「落ちない」という確信だけ。
私は歩いた。
そして、走った。
速く動くほど、
ひとつの事実がはっきりしてくる。
――何も、待っていない。
終わりはない。
方向もない。
変化もない。
黒。
どこまでも、黒。
やがて私は止まり、
見えない何かに膝を打ちつけ、崩れ落ちた。
胸が上下する。
だが、私は本当に呼吸しているのか、分からなかった。
場所がない。
目的がない。
標もない。
私は「見えない地面」に身体を横たえた。
虚無の上に寝転び、
無を見つめる。
これは、死なのか。
ここが、死後の世界なのか。
それとも――
苦痛すら与えない地獄か。
意識そのものが、罰として与えられる場所。
静けさが、噛みついてくる。
寂しいからではない。
私が、独りだと理解してしまったからだ。
吐き気。
苛立ち。
焦燥。
私は身体を起こし、叫んだ。
「神々よ!」
声は割れ、荒れ、制御できない。
「なぜ、こんな空虚の中で意識を残した!」
「これがお前たちの意思なら、姿を現せ!」
「いるのなら――答えろ!」
返事はない。
あるのは、反響だけだった。
私の声が、
私自身に打ち返され、
幾重にも重なり、震え、
そして、ゆっくりと消えていく。
まるで、この空間が
私を嘲笑うために、私の声を使っているかのように。
私は身を投げ出した。
これが死なら、
もう一度、死にたい。
消えたい。
無くなりたい。
何でもいい。
ただ――
ここにだけは、いたくない。
その瞬間――
声が、あった。
前ではない。
後ろでもない。
上でも、下でもない。
それは、
すべての場所から同時に響いた。
重く、
掠れ、
深い。
まるで、
岩が無理やり言葉を吐き出しているような声。
「どうだ、人間」
一語一語が、
意識そのものを押し潰してくる。
「この死は……
愉しめているか?」
私は凍りついた。
恐怖。
それは確かにある。
だが、その奥に、
認めたくない感情があった。
――安堵。
ようやく、
私以外の「何か」が、ここにいる。
私は身体を起こし、座る。
震える声で答えた。
「……いいえ」
「何の楽しみもありません」
「……ここには、
何も、ありません」
短い沈黙。
そして、再び声。
「自分が誰だか、分かるか。人間」
私は首を振った。
誰に向けた動作かも分からないまま。
「分かりません」
正直に答えた。
「神かもしれない」
「……あるいは、創造神か」
声が、低く笑った。
人の笑いではない。
生きたことのないものが、
“笑い”という概念を模倣した音。
「私は創造神ではない」
周囲の圧が、増す。
「私は――死神だ」
その言葉は、
宣告のように落ちた。
「死を司る者」
そして、
わずかな間を置き、
その名が、意識の奥に刻まれる。
「我が名は――
イズライル〈IZURAIRU〉」
_____
神崎新〈カンザキ・アラタ〉少尉は、静かに御簾〈みすず〉高宮〈タカノミヤ〉の邸宅を歩いていた。
その足取りは落ち着いていたが、空気には確かな緊張が張り付いている。
視線は部屋から部屋へと移り、殺人が起きた現場を丹念に追っていく。
すでに現場検証を終えた刑事たちが同行していた。
彼らはそれぞれの見解を提出済みであり、証拠はすべて写真と記録として整理されている。
警備員たちの証言。
事件当夜に目撃された二つの謎の人影。
壁に半ばまで突き刺さった針。
床に散らばっていた弾丸の破片。
そして、青い血を流して死んでいたシシキの遺体。
それらの断片が、神崎の脳内で一つの映像として組み上がっていく。
まるで、事件の瞬間をその場で見ているかのように。
だが――
その映像は、唐突に崩れ去った。
部下の一人が近づき、スマートフォンを差し出した。
画面では、一本の動画が再生されていた。
巨大なパンダの着ぐるみを身にまとった人物。
背中には一本の刀が背負われている。
背景は竹林。
パンダの生息地として知られる場所だ。
その人物は、カメラを正面から見据え、口を開いた。
「こんにちは、皆さん。」
着ぐるみの内側から響いた声は、
低く、掠れ、荒い。
そして、不気味なほど落ち着いていた。
聞いているだけで分かる。
それは、声そのものが人を威圧する類のものだった。
「俺はシガク。」
名乗りは短く、感情の揺れは一切ない。
「俺は、抑圧された人間たちの祈りに応える存在だ。」
「歪んだ運命の仕組みを、正すために在る。」
「これからも、迎えに行く強欲は数えきれない。」 「他人を踏みにじるのをやめろ。」 「さもなくば、一人ずつ始末する。」
背中の刀を掴み、ゆっくりと引き抜く。
そして、その刃をカメラに向かって振り下ろした。
動画は、そこで終わった。
部屋は沈黙に包まれた。
やがて、部下の一人が口を開く。
「この動画は、“運命の道・シガク”というアカウントから投稿されています。」 「高宮の死亡事件を受け、世論はすでに不安定な状態です。」 「投稿から一時間で、再生数はすでに百万人を超えています。」 「今も、増え続けています。」
神崎は、すぐには答えなかった。
目を閉じる。
深く息を吸う。
そして、静かに目を開いた。
「必ず捕まえる。」
低く、しかし断固とした声だった。
「動画の製作者も――」 「そして、真の殺人犯もだ。」
_____
「……つまり、あなたは本当に死んだことがあるの?」
花〈ハナ〉の声は、わずかに掠れていた。
腕の中では、凛〈リン〉を強く抱きしめている。
「じゃあ、今のあなたは何なの? 幽霊? それとも……人殺し?」
リオは花の目を、まっすぐに見つめた。
逸らさない。言い訳もしない。
「……俺は、確かに一度死んだ」
静かに、そう答える。
一拍、置いて。
「そして、そこで……死神に選択を与えられた」
「呪われた場所で」
「闇の社」
「死神の領域だ」




