第一の死
その日、私たちは巨大な鯨の亡骸を舟の底に結びつけ、海から戻ってきた。
櫂は一斉に水を打ち、漕ぎ手たちは高揚を隠そうともしなかった。
あまりにも大きな獲物だった。
その日、私は初めてランマとして認められた。
私の投げた銛が、あの巨体を確かに貫いたのだ。
歓声が海に響く中、私は父の方を見た。
見えた。
感じた。
父の胸に、確かな誇りがあった。
その一瞬、ひとつの問いが心に浮かんだ。
これが、私の生きる目的なのか。
父の望む姿になることが。
違う。
これは違う。
私は確信していた。
舟は最初に浜へと辿り着いた。
船腹が砂に触れる直前、父は立ち上がり、朝から待っていた村人たちに向かって叫んだ。
「水上〈ミズノエ〉の一族が、大鯨を仕留めたぞ!」
歓声が沸き起こる。
人々は私たちではなく、獲物へと駆け寄ってきた。
いつも通りの手順が始まる。
鯨は浜へ引き上げられ、整然と解体され、肉は村中に分け与えられた。
数日分の食糧が確保され、人々の顔には安堵と喜びが浮かんでいた。
だが、その中心にいるはずの私の心は、奇妙なほど空っぽだった。
時は流れ、ゆっくりと、しかし確実に、運命は私の人生の舵を切った。
初めての鯨狩りとその成功以降、村の人々の目は変わった。
彼らは私を、優れた漁師、屈強なランマ、やがては一族を率いる存在として語った。
それは父の期待の延長線上にある未来だった。
私が生まれた日から、父が周囲に語り続けてきた夢。
そんなある日、ごく平凡な日に、一通の手紙が家に届いた。
公式文書だった。
東の人間には馴染みのない名の印が押されていた。
国立・希望大学。
最初にそれを受け取ったのは母だった。
私が学校から帰ると、封はすでに切られ、机の上に置かれていた。
中には、東部地域から選ばれた十名に与えられる奨学金の正式通知が入っていた。
姉と妹は私に怒りを向けた。
自分たちの方が選ばれるべきだったと。
だが、私にとってそれは生涯の夢だった。
首都・新京〈シンコウ〉で生きること。
国の進歩を、肌で感じる場所へ行くこと。
私は政治学を選んだ。
新京から、いつか東部を、故郷を変えられると信じていた。
卒業の時期が近づき、避けられない決断の時が来た。
父は首を縦に振らなかった。
怒鳴り声も、暴力もなかった。
それが、なおさら重かった。
祈りでは動かない岩のような、冷たい拒絶。
私は母にすがった。
生まれて初めて、弱さを隠さずさらけ出した。
父の前で、頭を地につけて願った。
父は、感情のない声で一言だけ言った。
「この家を出るなら、お前はもう俺の子ではない」
それは脅しではなかった。
決別だった。
それでも私は家を出た。
勇気があったからではない。
覚悟が、恐怖を越えてしまっただけだ。
外では大学の使者が待っていた。
私を本土へ運ぶ小舟は、振り返ることなく出航した。
あの日以来、私は本当の意味で帰る場所を失った。
時は流れる。
新京での生活は、愚かな少年が思い描いた「都会の夢」とは程遠かった。
授業料は免除されても、食事は無料ではない。
住まいも、本も、生活費も、何ひとつ理想を待ってはくれない。
私はアルバイトをした。
時には二つ掛け持ちした。
昼は学生。
夜は安価な労働力。
空腹を抱えた勉強は、通過点ではなかった。
日常だった。
その頃、家からの知らせが増え始めた。
父は海を前に、黙り込むことが多くなった。
意味を与えてくれた海は、ただの背景になった。
身体は衰え、病は静かに忍び寄った。
最初は報告だった。
次に小さな頼み。
やがて、小さくない要求。
私はできる限り金を送った。
消えることのない罪悪感と共に。
父からの言葉は、最後までなかった。
卒業の日、母は一人で新京に来た。
後になって知った。
家の小舟はすでに売られていた。
父が病で海に出られなくなって久しい舟だ。
その金は、ただ一つのために使われた。
私に会うため。
母は、誇らしげに子を抱く親たちの中に立っていた。
泣きもしなかった。
喜びを表にも出さなかった。
ただ、私をじっと見つめていた。
これが本当に現実なのか、確かめるように。
長い祝辞はなかった。
花もなかった。
母が持ってきたのは、家の現実だった。
父はさらに弱っている。
姉は怠け者の男と暮らしている。
妹はまだ学費が必要だ。
そして私は、卒業した。
母は、謝るような声で言った。
もう、私が家族を支える番だと。
他に何ができただろう。
私は黙ってうなずいた。
その日、私は大学を卒業し、同時に、家族の人生を背負う存在になった。
新京は、もはや夢の都ではなかった。
生き延びるための場所だった。
数週間後、送った履歴書の一つが実を結んだ。
新京市の政府機関に採用された。
大きな建物ではない。
重要な役職でもない。
名も知られぬ小さな部署の、事務職だった。
それでも、私は信じていた。
これは始まりだと。
だが現実は早かった。
データの改ざんを命じられた。
報告書は整えられ、
数字は美しくされ、
真実は削られた。
長時間労働。
周囲の視線は冷たく、
正直さは欠陥のように扱われた。
私は耐えた。
信念のためではない。
仕送りを待つ家族のためだ。
この街は、融通の利かない人間には優しくない。
求められているのは誠実さではない。
ましてや、正義でもない。
私は妥協が下手だった。
取り繕うこともできなかった。
二年が過ぎた。
そして一通の封書が机に置かれた。
解雇通知。
説明はない。
後悔もない。
ほどなく、別の知らせが届いた。
父が亡くなった。
和解はなかった。
謝罪もなかった。
私の選択が正しかったかどうかを語る言葉も。
父は、息子への夢を失ったまま死んだ。
私は、帰る場所を失ったまま生き残った。
そしてその時、私は決めた。
すべてを捨てる。
この重荷も、
この苦しみも。
私は下宿にたどり着いた。
脚はもはや、身体を支えるだけの力を失いかけていた。
一歩一歩が重い。
それは単なる疲労ではない。
私はもう、生き延びるつもりがなかった。
今回は、この場所で生きるために帰ってきたのではない。
すべてを終わらせるために、戻ってきたのだ。
私は台所に入った。
手を伸ばし、コップを床に落とす。
割れる音が短く響き、すぐに消えた。
しゃがみ込み、最も鋭い破片を選ぶ。
先端は冷たく、硬い。
私は、それをゆっくりと引いた。
皮膚が裂ける。
血が流れ出す。
身体が揺れた。
視界が震え、崩れ落ちる。
脚から力が抜け、床に倒れ込んだ。
背中に伝わるタイルの冷たさも、すぐに感覚から消えていく。
意識がほどけていく中で、私は最後の祈りを思い浮かべた。
――神々よ……私は、この世界に疲れた。
もし、これで十分なら、
私の魂を連れて行ってほしい。
行き先は、どこでもいい。
視界が滲む。
光は弱まり、色は溶け合い、音は水に沈むように遠ざかっていく。
消えかけた視界の端に、私はそれを見た。
一人の女が、私の前に立っていた。
彼女は着物を纏っている。
静かで、動かず、
今まさに私の知覚を奪おうとしている混乱とは、切り離された存在のようだった。
それが現実なのか、幻覚なのか、
それとも死にゆく意識が最後に生み出した影なのか、分からない。
私は、問いかけることもできなかった。
恐れることすら、できなかった。
その姿は薄れ、
そして――
私の意識は、完全に沈んだ。




