第1話 春の光の下で
駅前の桜並木は、夕方の光を受けて淡く揺れていた。
風が吹くたび、花びらがひとひらずつ空気の層を滑り落ちていく。
その落下の軌跡だけが、時間の流れを目に見える形にしていた。
信号が青に変わる。
人々が歩き出す中で、彼女だけが立ち止まっていた。
桜の枝を見上げたまま、何かを探すように。
僕は歩みを緩めた。
彼女の視線の先には、ひとつだけ咲き遅れた蕾があった。
春の光に照らされながら、まだ開く準備をしている。
「咲かないまま終わるのかな」
独り言のような声だった。
けれど、僕の耳にははっきり届いた。
「きっと、明日には咲きますよ」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
彼女が振り向く。
目が合う。
その瞬間、風が吹き、桜が一斉に舞い上がった。
「どうして、そう思うんですか」
「今日の光が、そんな感じだったので」
答えになっていない答えだった。
けれど彼女は、小さく笑った。
「また会うかもしれませんね」
その言葉は、ただの挨拶のようにも聞こえた。
けれど、声の温度はどこか本気だった。
信号が赤に変わる。
街の音が一瞬だけ遠のく。
彼女は桜を見上げたまま、ぽつりと言った。
「咲くといいな。あの蕾」
「ええ。きっと」
彼女は頷き、歩き出した。
春の光が、彼女の髪に最後の一瞬だけ触れた。
その背中が人混みに紛れていく。
僕はしばらく動けなかった。
足元に落ちた花びらを拾うと、指先にかすかな温度が残った。
その温度が、胸の奥に長く留まった。
まるで、何かが始まる前の静けさのように。




