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番外編その8「雨の思い出の話」

■番外編その8「雨の思い出の話」


「わあ、空模様、雨になってますね」


 ある日の退勤直前、兎乃がデスクから窓の外を見て言った。

 その声に釣られて、三人が同様に外を眺めた。


 閉め切っているので雨音までは聞こえないが、外は暗く、確かに雨が降っていた。


「参ったな。帰るのが面倒なんだよね」


 守屋がぼやくのを聞きながら、兎乃が口を尖らせる。


「守屋さん、風情がないです。滅入ることじゃなくて雨のいいとこ探しましょうよ」


「ええ、雨の感想に駄目出しされるの……?」


 守屋にとって、雨自体に特別な思い入れはない。

 どちらかというと、服が濡れるとか傘が邪魔とか、そういう感想の方がどうしても先に出てしまう。


 子供の頃、学生時代、そして社会人になってからの、雨の思い出について振り返る。

 生憎、笑える話も、恋愛の話も、ためになる話も何も浮かばない。

 なかなか面白みのない人生を送っているな、と守屋は考えながら自嘲した。


「そうだなあ、突然雨降られて入った喫茶店で、お気持ち程度に頼んだドリンクが思いのほか美味しかったりとか」


 絞り出したような話は、幸いにも兎乃の興味を引いたようだった。


「あ、素敵ですね。そういう偶然の出会い好きです。店員さんのオススメとか聞いたり、自分からは買わない商品との出会いって楽しいですよね」


「蓮見君、店員にオススメとか聞けるタイプなんだ。意外と心が強いよね」


「別に悪いことしてないですし、全然気になりません」


「僕には、そういうのは月華の担当に見えるよ」


 兎乃は苦笑しながら手を横に振った。


「ユエはいつも同じやつしか買わないタイプですから」


「いいじゃねえか。いつも美味いんだから」


「まあ、それはそれで月華らしいか……」


 なんとなく納得する守屋を尻目に、頬杖付いてマウスをクリックしている波瑠に話の矛先を向ける兎乃。


「波瑠君から、雨の思い出の話!」


「え、俺も?」


「もちろん!」


 波瑠は露骨に「こうなるから事務室にいるべきじゃないんだ」というような顔をした。

 それでも兎乃が諦める気配がなかったため、観念したようにマウスから手を離すと話し始めた。


「……雨って、色んな音が聞こえなくなるじゃん。『雨の音にかき消されて』なんてよく言うし。昔、雨の降る深夜に散歩したことあるんだけど、違和感っていうか、知らない場所みたいな感覚がした」


 突然振られてよく分からない自分語りをした、と波瑠は気恥ずかしくなった。

 そもそも波瑠はあんまり自分の話をしたいと思わない。

 自分が他人にあまり興味がないのもあるが、興味本位で自分のことを探られるのは好きじゃない。


 一息に言うと、それだけ、とでもいう様子で黙る波瑠。


「ああ、分かる気がするな。最近は街灯が多いから結構明るいんだけど、ちょっと田舎だと一面真っ暗だし音もなくなるんだよね。非日常感に、どこか怖くてどこかワクワクするんだよ」


 波瑠の話に理解を示したのは守屋だった。

 体験談を語る守屋に、月華は呆れたような顔をしてみせる。


「なんじゃそりゃ。なに、男ってそういうの全員やるもんなの? 意味分かんね」


「男子は皆、非日常と冒険にどこか憧れてるんだよ」


 珍しく子供っぽいことを言う守屋。

 月華は納得したようなしてないような様子で、それを聞いている。


「そういうユエは、雨って言ったらどんな思い出があるの?」


 兎乃に聞かれた月華は、腕を組んで少しの間天井を見つめた。


「……いや別に、雨が降ったってあたしには何の影響もねえしなあ。あ、でもあれだ。街中に行くと売り上げが落ちて皆ピキってて面白え」


「売り上げ?」


「あたしのいた所は観光客から絞り取るのが主な産業だったもんでね。ミルクの出が悪いと農家は困るだろ。それと同じよ」


「……それはまた、怒られそうな例えだね」


 守屋がやや引き攣ったような顔で、何とも言えない返事をする。


「ま、どちらにしろ特別思い出す話でもねえな」


 事実、月華にとって、思い出とは自分が基準のもので、環境に左右されるものではなかった。


 もちろん細かい部分では、環境ゆえの思い出もあるだろう。

 例えば野球好きの父親が不機嫌になるとか、タバコが湿気て不快とか、そういうことだ。

 でも、それらは人にわざわざ話すほどのことではない。

 その結果、月華自身が何か変わったということはないからである。


 月華の価値観としては、思い出とは、自己を確立してきた積み重ねのことを言う。

 だから、過去についての執着は、ないつもりだった。

 その時間があるなら、今、やりたいことをやるべきだ。そう考えるのが藍月華だった。


「で、言い出しっぺのラビはどうなんだ?」


「私は、雨の日に読む本が好きだったなあ」


「雨の日専用の本でもあんのか?」


「そうじゃないよ。読書は元々好きだったから、読む本は何でもいい。でも、雨音を聞きながらだと、集中できていつもより面白く感じるんだよね」


 懐かしむような顔で語る兎乃。


「……よく考えると、読書だけじゃなくて、雨自体が好きだったのかもしれないな」


 兎乃は、静かな時間が好きだった。


 それは例えば、カフェで休憩している時や、美容院の予約で待っている時がそうだ。

 自分はやることもなく、時間の流れに身を任せるような感覚。

 大きな日常の流れの中から、流れそのものを眺めて、同じ時間を生きていることを感じる瞬間。


 本を読むのも、人を眺めるのも、本質は同じなのかもしれないと、兎乃は思った。

 自分が感じていることを、他の人はどう感じているのか。

 それに思いを馳せるのが、私は好きなんだ。


 雨が降ると、時間が不思議とゆっくりになったような錯覚を覚える。

 忙しない日常を過ごす人々に、神様が「一度足を止めてみたらどうか」と問いかけるように。


 だから、兎乃はこうして偶然集まった仲間と共に、雨を眺めて話していることが、ただ楽しかった。



 今日という日を、この四人のうちの誰かが、思い出す日が来るだろうか。


 もしかしたら兎乃自身だって、今日のこのなんということもない時間のことは、忘れてしまうかもしれない。


 それでも、今日が無駄な一日だとは、兎乃は少しも思わない。


 気が付くと、また四人とも無言で窓の外を眺めていた。


 兎乃は知っている。


 大切な時間は、永遠に続かないからこそ、大切に思えるということを。


「雨、早く止むといいですね」


 そう言った兎乃の表情は、とても穏やかで、確かに幸せそうだった。

本話は、4章と5章の間の、インターバルストーリーです。

本編とは関係のない、ある日の日常を描いた回になります。


毎日20:30に更新をしていく予定です。

明日からは、第5章本編を投稿させて頂きます。

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