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その3

 こんなはずじゃなかった、と朝起きてから何度も思っている。原因はセイアだが、セイアが悪い訳じゃない、とも思う。

 昨夜は、あまりよく眠れなかった。食事もとらずに早めにベッドに入ったのだが、ぐるぐるといろいろなことを考えてしまい、うとうとしてはすぐに起きることを繰り返していた。

 普段なら抜け出して『夜遊び』と称して町をふらふらしているところだ。だが、昨夜はどうしてもそんな気分になれなかった。シャワーは浴びたけれども、捕縛された感触が、立ち込めたムスクの香りまでが、体にまとわりつくように残っていてずっと気持ちが悪い。

 朝方になってようやく深く眠ることができた、のだが。

「……アリア。アリア、おはよ」

 遠慮がちに、肩を揺すって起こされた。男の声と、肩に触れた手のひらの厚みに驚き、一気に目が覚めた。

 誰でもそうだろうが、寝起きほど無防備なものはない。がばっと跳ね起きて毛布で身を隠すようにしながら、ベッドの上で体勢を整えた。そこで相手の顔を見たのだが、驚きと戸惑いで、すぐには何が起こっているのかよく分からなかった。

「え、……セ、セイア?」

「ごめん、せっかくよく寝てたのに。シルヴィアさんが、もう起こせって言うからさ」

 久しぶり、と少し困ったように微笑まれたが、とっさに言葉が出なかった。セイアはアリアのベッドの傍らに立ち、まだ外套も羽織ったままの状態で、いかにも今さっき到着したばかりという様子だった。セイアは魔術師ではあるが、まだワープでここまで来るだけの技量はない。船と電車を乗り継いで、時間をかけてここまで来たのだろう。寝ぐせなのか、柔らかな黒髪が微妙にはねている。記憶通りの穏やかな表情をしばし見つめ、やっと少しだけ落ち着いてきた。

「久しぶり、セイア。……あー、びっくりした。驚かすなよー」

 何とか、笑顔を作ることができた。着替えてから行くから先に降りて、と言うと、セイアは分かった、と素直に応じて階下へと向かった。

 ……セイアが悪い訳じゃない。でもこれって、どうなんだろう。

 すごくもやもやしたものを抱えながら着替えていると、軽い足取りで誰かが階段を上がってくる足音が聞こえた。振り返らなくても、寝室に入ってきたのが誰だか分かる。

「おはよ。びっくりしたでしょーアリア、あんた、昨夜早く寝たのにいつまでも起きてこないんだもん。セイアが思ったよりも早く来たから、せっかくだし本人に起こしてもらっちゃった。ふふっ、ドッキリ成功?」

 姿を現したのは、何やら浮かれた様子のシルヴィアだった。アリアはシャツのボタンを留めながら、わざとらしくため息をついた。どちらかと言えば、悪いのはこっちだよな、と恨みがましい気持ちが湧いてくる。

「シルヴァ、寝室に男入れるなよ。非常識だろ、いくらなんでも」

 演技ではなく、思い切り不機嫌な声が出た。シルヴィアの方を向くと、彼女は純粋に驚いたように、きょとんと目を丸くしてしてこちらを見ていた。

「いやー……それは、ごめん。でも、セイアよ?」

「分かってるよ。分かってるけどさあ!」

 つい声を荒げてしまったが、シルヴィアに当たるのも違う気がして黙り込んだ。

 シルヴィアには昨夜何があったのか話していない。そして彼女は、当たり前だがすでにきちんと着替え、ぱりっとした白いエプロンを身に着け、きれいな長い銀髪を背に垂らして、うっすらとメイクも施している。正直、アリアだってそれなりに身支度を整えているべき時間帯だ。それができていないのは、言い訳はあるにせよ、要するに怠惰だからだ。偉そうに何か言える立場ではない。

「ごめんっては。あんたがそこまで気にすると思わなかったのよ。……とにかく、早く着替えて降りてらっしゃい。セイアも待ってるから」

 それだけ言って、先に降りて行ってしまった。アリアは上着に袖を通しながら、ふとドレッサーの上に何か置いてあることに気付き、近付いた。

 白い薄紙の上に、緑と青、ピンクのビーズが色ごとに分けられて彩りよく乗せられている。昨日アリアがばらまいてしまったブレスレットの残骸だ。片付けなくていい、と言ったのに、できる限り拾い集めておいてくれたのだろう。後で必ず作り直そう、と思いながら、丁寧に薄紙に包み、自分用の小さな机の引き出しにしまった。

 とりあえず身支度ができたので階下へ降りると、そこにいたのはシルヴィアだけだった。カウンターの中のキッチンでお湯を沸かしながら、彼女はアリアに声を掛けた。

「セイア、外に行ったみたいね。すぐ戻るとは思うんだけど」

 『アルテミス』は今日から年末休みだ。がらんとした店内のテーブル席の椅子の一つに、セイアの物らしき大きめの旅行バッグが置かれていた。何となく、そのテーブルに近づき、荷物が置かれている前の席に座る。

(この席、前にセイアと向かい合って座ったのと同じテーブルだよな)

 ふとそんなことを思い出して、目の前のテーブルの木目をぼんやりと見つめた。

 ……この席で、セイアに髪を撫でてもらった。手も握ってもらった。あれだけ思わせぶりに甘えておいて、今更ちょっと肩を触られたくらいであんな態度を取ってしまうのはいかがなものか。だいたい今回だって、電話で『会いたい』とか誘ったのはアリアの方なのに。

 ため息をついて、目を閉じた。いろいろ言っても、結局、自分が一番気持ち悪い。

「すみません、戻りましたー」

 ふいに声がして、入口の扉が開いた。そちらへ目を向けると、セイアが何やら大きな紙袋を抱えて立っていた。

「おかえり。どうしたの、それ」

「二軒隣のパン屋さんで、パン買ってきました。さっき通り過ぎながら、おいしそうだなって思ってたので」

 機嫌よくにこにこ笑いながらシルヴィアに答え、セイアはアリアの座っている席のテーブルにその紙袋を置いた。ふわりと、バターと小麦のいいにおいがする。

「……どんだけ買ってきたんだよ」

「うーん、ちょっと買い過ぎた。でも、アリアも食べるだろ?」

 言いながら、セイアはテーブルに紙ナプキンを広げ、次々と袋の中のパンを取り出してその上に並べ始めた。クロワッサン、バターロールといったオーソドックスなパンの他に、ブリオッシュやマフィンなどの甘いパン、少し固いベーグルやプレッツェル、ずっしりと重いジャムパンやアップルパイなど。どれも表面がつやつやとこげ茶色に光り、香ばしい焼き立ての香りが辺りに広がる。昨日一日大したものを食べていないアリアは、ここにきてようやく空腹を覚え、ホッとした。これなら、食べることができそうだ。

「え、アリアだけ?私も食べたいんだけど」

「もちろんシルヴィアさんもどんどん食べてください。あ、そうだ、北国のお土産のお茶があるんですよ」

 そう言うと、セイアは今度は旅行鞄を開け、中から派手なパッケージの四角い紙箱を取り出した。箱には、鮮やかな赤や青の模様の織物のマントを羽織った少女が、茶葉のかごを持ってにっこり笑う姿が描かれている。

「あ、これ昔もらって飲んだことがあるわ。ちょっと不思議な香りがして、おいしいわよね」

 ありがとう、じゃあさっそく入れましょう、ちょうどお湯も沸いたし、とシルヴィアがキッチンに向かうと、セイアがふいにアリアに向けて小さく呼びかけた。

「それとアリア、これ、よかったら」

 え、と思ってその手元を見ると、青いきれいな包装紙に包まれた小さな何かが、ことりとテーブルの上に置かれるところだった。

「なに、俺に?もらっていいの?」

「うん。うちの近くに銀山があってその関係で昔から銀細工が盛んで……だからまあ、プレゼントっていうよりは、お土産って感じ。大したもんじゃないけど」

 言い訳するように早口でそう言って、テーブルの上を滑らせるようにして包みを手渡された。指先でそれを受け取り、さっそく包みを開けはじめると、セイアは「もう開けるのか」と少し困ったように片手で口元をおさえた。どうやら照れくさいらしい。申し訳ないが、何でもすぐに開けるのはアリアのポリシーだ。

「…………きれい」

 包みの中身は、雪の結晶をかたどった銀細工のピアスだった。

「その、電話でさ。ピアス開けたって言ってたから、ちょうどいいかなって」

 確かに、ピアス穴を開けたことは電話で話した。今もつけてはいるが、普段使いしているのは、シンプルで男子でも身に着けやすそうなものばかりだ。まさか自分が、こんな繊細で女の子らしいアクセサリーを手にするとは思わなかった。

「ありがと。すごく、嬉しい。……大事にする」

 くすぐったいような、変な気持ちだった。自分はこの手の贈り物をこれほど素直に喜べるタイプだったのか、と不思議に思うくらいだ。はたして自分にこの上品なピアスが似合うのかという疑問は、この際置いておくとして。

「何よあんたたち、こそこそして」

 そんなやり取りをしている間に、シルヴィアが三人分のマグカップに紅茶を入れて、テーブルに戻ってきてしまった。別に見せても良かったのだが、照れくささで思わずさっと手の中に隠してしまう。そのままこっそりと、上着のポケットに入れた。

「別に。セイアに、お土産もらっただけ」

「ふーん?」

 シルヴィアは意味ありげな含み笑いを浮かべてはいたものの、これ以上突っ込む気はないらしく、「そんなことより朝ごはん~」と楽しそうに言いながら紅茶を配り始めた。アリアはホッとして自分のマグカップを手前に引き寄せると、紙ナプキンの上に山盛りに置かれたパンの中からブリオッシュを手に取った。まだほんのりと温かく、割るとふんわり甘い香りが漂う。

「良かった。さっき起こしに行ったときは、何だか元気ないなって思ったけど……思ったより元気そうかな」

 もぐもぐと手の中のパンを咀嚼していると、軽く目を細めたセイアにそう言われた。

「あー、ねぇ。この子、昨夜帰ってきてからなんか様子が変なのよね」

「そうなんですか。え、何かあった?」

「別に、何もないよ。ちょっと仕事が長引いて疲れただけ」

 適当なことを答えながら、甘酸っぱい香りの紅茶を口に運んだ。元気そうに見えるのだとしたら、それはもしかしなくても、セイアのお陰だ。焼き立てのパンと珍しい紅茶、きれいなアクセサリーのプレゼント。これ以上何か望んだら、罰が当たる。

(俺も、何かお返しできればいいんだけど)

 『会えて嬉しい』とか、どんなタイミングで伝えればいいのだろう。ぼんやりとそんなことを考え、シルヴィアと談笑しているセイアに目を遣った。見ているだけで、伝わればいいのに。じっと見つめていると、ん?と言うような顔で見つめ返され、慌てて目を反らす。

 昨日の不愉快な出来事は、とりあえず頭から追い出すと心に決め、もう一つパンを手に取った。そうでなくても、前回はかなりボロボロな状態だったのだ。少しでも元気そうな様子と人並みの食欲を見せないと、また心配をかけてしまう。

 ―――――もう一つの、大きな心配事は、少しの間忘れたふりをしよう。

なかなか状況がそれを許してくれないということに、実はこの時のアリアはまだ気づいていなかった。


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