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思いの丈

羅生門と人と、私とマンドリン

作者: 月岡 結

 突然ですが、皆さんは芥川龍之介先生の『羅生門』ってお読みになったことはありますでしょうか。

私自身は、恥ずかしながら高校の現代文の授業で習うまでは、題名こそ知っているものの、中身については一切存じていませんでした。


 過去の私と同じように、内容をご存じでない方に向けてお話をさせて頂きますと、『羅生門』と言う作品は、災いが続き、人々が貧しさで飢えていた平安時代後期の京都が舞台になっておりまして、仕事を失って途方に暮れた下人が雨宿りの為に羅生門の楼上に登り、物語が進んでいきます。

 その楼上には、災いで亡くなった方の死体がゴロゴロと転がっているのですが、下人は、その中でゴソゴソと死体をあさっている老婆に出会うんですね。何をしているのかと尋ねてみれば、「死体から髪の毛を抜いて、カツラをつくっている」と。それに対して、下人はすごい怒りを感じる訳です。


物語には続きがあるのですが、ここで一度中断させて頂きまして。

皆さんは、この老婆に対して、どんな感情を抱きますでしょうか。老婆が「悪」だと思いますでしょうか。

世の中は、地震に火事に飢餓に、と様々な災いが起こっていて、明日食べるものがないどころか、次の瞬間に自分が生きることができるのかも分からないような状態です。

そんな中で、家族から放棄された人間の死骸を使って、カツラをつくり、金持ちに売りつけて、自分の命を繋ぐ。それって、何がおかしいのでしょうか。下人は何をもって「悪」の烙印を押すのでしょうか。


当時高校生だった私は、先生に投げかけられたこの問いに、答えることができませんでした。

文章中の、下人の心情表現を何度読み砕いたって、情景描写を何度読み返したって、答えは見つかりません。


「老婆は、必死になって生きている。それは間違いではない」

「だが、死人から髪の毛を抜いてカツラをつくることに対して『悪ではない』ということには違和感が残る」


そんな二つの考えに挟まれて、何も言えなくなった私達に、先生が答えを提示して下さいました。


「死人から髪を抜いてカツラをつくるのがダメな理由、それはね」








「それはね、私たちが人間だからです」


あの時の衝撃は、今でも忘れません。


今、日本では色々な○○論争が起こっていますが、それが解決できないのって、問題の根幹がここにあるからなんだろうなと、よく思います。


お客様だから、スタッフだから、母親だから、外国人だから。

それぞれの倫理観が交錯して、そしてSNSの普及によって、同調の声によって、さらに「自分が正しい」と言う見方から抜け出せなくなって。

でも、その根拠を示すことって、難しいから討論が泥沼化してしまいます。だって、「人間がどうあるべきか」決めるのは、自分の中の倫理観によるから、人によって違うから。


だから、私は分かち合うことができない『人間』と言う生き物があまり好きではなくて、生きるのが難しくて、人と関わらない道を選んで歩いてきました。


私は現在ホテルで清掃員をしておりまして、やっぱりそこには色々な人の成りが転がっている訳です。

トイレを掃除しているときに「すみません」と言って入って下さるお客様もいれば、窓を掃除しているところに、ケツを叩きに来るジジイだっている訳です。

清掃って、言葉を選ばずに言いますと見下されやすいといいますか、基本的に裏方で、人と関わると言うと、挨拶、叱責、嘲笑のどれかが大半です。

慣れてくると「私の仕事は掃除をすることです」という強い意志を持つことができるので、どんなことを言われてもされても「あ、はい」で済ませられるようになるのですが、こういう風に感受性を殺すことって、この社会を生き抜く上で正攻法と言いますか、多くの方が意識的、無意識的に関わらずやっていることだと思います。


 そんな感じで生きていて、ある日というか、この文章を書いている日なんですけど、エレベーターでばったりお客様に出くわしてしまいました。


基本的にお客様にエレベーターを譲るのが筋なのですが、その方は「良いんです、一緒に降りて下さい」とお声掛け下さり、一緒に降りて下さって。


「清掃の方ですか」


とお声がけ下さり、「はい」と応えますと、


「おかげさまで早くチェックインができました。部屋も綺麗で嬉しかったです。ありがとうございます」


と笑顔でお声がけ下さいました。私は


「ありがとうございます。いってらっしゃいませ」


という言葉をお返しさせて頂きました。


少し経ってから、自分が『嬉しい』と言う感情を持ち合わせていないことに気が付きました。

自分でもびっくりしました。「感謝されるのは嬉しいこと」頭では分かっているのに、経験も持ち合わせているのに。

自分の中には、嬉しさは愚か、どんな感情も生まれず、本当に「無」でした。


虚しさなのか何なのか、涙が溢れてしまいました。


大人になるって、そういうことだと思うんです。

この人間社会、ひとつひとつの事象に心を動かされていたら、どうやっても身体が持たないし、自分を守る上では必要なことです。


でも、同時に、それって人間としてどうなのかな。とも思います。


本を読んでも、何か具体的なものに心を動かされることが減って、ただ、訳もなく涙を流すだけのことが多いのも、きっと私が「大人になったから」です。


生き残る為に、必要なことだと分かっているけど、もっと大人になって社会に揉まれたら、全ての事象に「しゃらくせぇ」と構える人間になってしまうのかなと考えると、何とも言えない虚しさのような悲しみが溢れました。そして、どれだけ理想論であっても、自分が思う「人として」の生き方を、文章として残そう。と決めました。


私にとって、マンドリンは人生を変えてくれた大きなきっかけの一つです。

初めてマンドリンオーケストラに触れた時の衝撃が、初めて知った演奏をする楽しさが。

今でも私の生きる大きな理由になっていますし、もうきっと、人生全部を捧げたって得ることができない、このキラキラとした自分の中の気持ちは、ずっとずっと大切にしたいなと思っています。


大切過ぎて、そんな高貴な存在に、今の自分が言葉を使うことに悩みを抱くこともありますが、二度と取り戻すことのできない、「今」だからこそやりたい。

そんな思いで「夜明けとマンドリン」という作品を書き始めました。


このサイトに投稿をさせて頂いた理由は色々あるのですが、一番大きいのは「凝り性故に、期限を決めずに書いていると、一生同じところを書き直してループしてしまい、エンディングにたどりつかないから」です。

内容は割と思い付きでやっている部分が多いのですが、エンディングは登場人物が決まるよりも前から決めていました。


綺麗ごとかもしれないし、力の限りを尽くしてはいますが、力不足な部分もきっと多く、万人受けするものではないかもしれません。


ですが、普段、私と関わって下さる方たちも含め、「生きることに悩みを持つ人」の、一つの生きる道になり、あわよくば見えない未来への『希望』につながる物語になればとても嬉しいなと思っています。


きっと、厳しい道のりではありますが、私を含めた、勇気を持てない全ての方たちが、否定することではなく、自分の正義を貫くことを生きる術とする人間になることができるよう後押しする作品になることを願って、感情に寄り添いながら書き進めたいなと思っています。

もし良ければお付き合い頂けますとすごく嬉しいです。


連載においても、短編においても、アクセスいただけたり、ご評価やリアクションを下さることが、何よりも嬉しいです。

インターネットは不得手でどのような形でお礼をお伝えすればいいのか分からず、ここにも書き記させて頂きます。

私なんぞの文章に出会って下さり、本当にありがとうございます。


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