主人公の災難が降りかかる系上司
アルバート・オリンズは常に寝不足でイライラしている。隈がくっきり浮き出た目元はもともと鋭い茜の瞳を更に人相悪く見せているし、むっつりと閉じられた口は不機嫌さの象徴のよう。忙しさのせいで、というか昨夜の徹夜のせいで手入れの怠られた茶髪は方々に跳ねて、組まれた腕の上では苛立たしげに指がトントンとリズムを取っていた。
「申し開きはそれだけか?」
地獄の底から這い出るような低い声音である。
アルバートの前で縮こまって報告をしていた背の低い男、ミュル・ソドワズは怖さのあまり失神しそうになる体を必死に抑えて肯定の声を上げた。
机を挟んで対話するどちらも揃いの黒い隊服を着ているが、アルバートの腕には上官の証である金色のバッジが付いて、この二人の関係が上司と部下だということを示している。
「そうです、すみません、全て本官の不注意ですっ」
「貴様、これで何度目だと思っている?いい加減学習することを覚えたらどうだ」
「はいぃぃっ!すみませんッ!!」
「謝罪はもういい。…………はぁ、何故貴様がこんなにも騒動を起こすのか甚だ理解に苦しむ。後は私が始末しておく、もう下がっていい」
アルバートが皺の寄った眉間を押さえ、軽く手を振るとミュルはバッと右手を頭の横に揃えて敬礼をひとつしてから「失礼します!」と大慌てで執務室から出て行った。
その冷静さのない所作もまたアルバートの神経を逆撫でする原因であるのだが、もうほとんど頭が働いていないミュルはそんなことは思いもよらず、ただアルバートの元を去れるということのみを考えていたのだった。
ミュル・ソドワズは問題児である。
普段通りの厳しい採用試験を突破してこの国立魔導軍に入隊してきたはずなのに、新人だということを差し置いてもミスは多いし訓練で備品を壊しまくるし(それだけならまだアルバートも許容範囲なのだが)、何故か入隊して一ヶ月も経たずに次々と厄介ごとを引き寄せてくるのだ。
アルバートは半ば本気でミュルを疫病神かもしれないと見なすようになっていた。
ミュルが入隊してからただでさえ少ない睡眠時間がゴリゴリと削られ、ただでさえ人相が悪い顔が更に悪鬼のようになってしまい、一ヶ月前ならまだ普通に接してもらえていた人達にも出会い頭に悲鳴をあげられそうになる始末である。泣きたい。
ミュルが悪い青年でないことはわかっている。それどころか普段は善良で明るく今の部署に向いている性格で、書類ミスは多いものの任務に足る能力があることもわかっているのだ。
しかし、しかしである。
入隊したその日に国の守りの要である精霊に気に入られて王族しか賜らないはずの加護を受けるし、初任務では負傷した隣国の皇子と遭遇し何故か隣国のお家騒動に巻き込まれるし、それが終わったかと思えば教会の暗部に潜んでいた魔王の手先の計略に嵌って生贄に捧げられそうになっていたなど、その他細かいトラブルをあげればアルバートがストレスで死にそうになる程トラブルメーカーなのである。
今呼び出したのも精霊に気に入られているミュルが軽々しく精霊と外に遊びに行こうとして結界が機能不全を起こしたことによるものである。
口の上手い精霊がミュルを言いくるめて自分を外に出そうとしたのだとは予想がつくが、ミュルが精霊に気に入られたとアルバートが気付いて直ぐにそこら辺の注意はしつこくしたはずであるし、精霊の口先に騙されるのも三回目である。アルバートはちょっと上司としての自信を無くした。
しかし気分は落ち込むものの手早くやるべきことは行い、的確な指示を出していくのがアルバートだ。その優秀さがトラブルから離されないことも示唆していることはその優秀さで努めて無視した。
日もとうに暮れて、茜の瞳が若干霞みながらもどうにか今日の仕事に一段落つけられそうだという頃、アルバートの仕事場である執務室のドアをノックする者が現れた。ゴンゴンという遠慮のない叩き方には覚えがあったので、アルバートは無視することにしたかった。
「アル〜、俺だよ俺、入ってもいい?」
この軽薄そうな緩い喋り方にも覚えはあったが、部屋に入る際に名乗ることもしない同僚は頭痛の種にしかならないのですげなく拒絶したかった。
「誰だか存じないので入るな」
「もう入っちゃいましたぁ」
「死んでくれ」
現れた鮮烈な赤髪に思わずそう投げつけると、その持ち主であるレオノール・カルヴは人目を惹きつける紫の瞳を細めてひひっと笑い声を上げた。今この瞬間は深い紫に見えるレオノールの瞳は、見る角度や光の角度によってピンクにも青にも見える不思議な色をしている。
「お疲れだろうアルバート隊長にお酒を持ってきたんだけど、いらないってことでいい?」
「お前が飲みたいだけだろうが」
「あっはっは、アル酒好きじゃないもんねぇ、本当はあまぁいお菓子だよ。食べたいって言ってたル・プセラの新作〜」
「…………あと少しで切り上げるから待ってろ」
「は〜い」
入隊した時から共に働き、互いの弱みも癖もとうに分かりきっている相手に毎度こうして軽口を叩き合うのは二人にとって挨拶のようなものだった。
アルバートが言った通りすぐに机の上を片付けている間に、レオノールがいつの間にか予備の椅子(ほぼレオノール専用となっている)を取り出して好き勝手に酒瓶を並べ出した。そのどれもがこの国では希少かつ高価なもので、見るものが見れば興奮するに違いない品揃えだったが酒に興味のないアルバートはさらっと見ただけでどうでも良さげに「おい、邪魔だ」と声を尖らせるだけだった。
「マジでイライラしてんねぇ。隈もヤバいし好きなもの食って気分転換しなよ〜。てか今日も俺が来なかったらまだ仕事する気だったぁ?睡眠時間やばいんでしょ〜?」
「……わかってるよ。お前が来なかったら寝るつもりだった」
「はいはい嘘、嘘、アルは本当に強情だね〜、優しいレオノール様に感謝してもいいんだけどねぇ」
「うるさい」
自分が意地を張るタイプなのをわかっているアルバートなので、こうして素直に文句を投げつけるのはレオノールへの分かりづらい甘え方で、それをどちらも分かっているのだった。
アルバートが言葉もなく手を伸ばすとレオノールが阿吽の呼吸でル・プセラの紙袋をその上に置いた。
白地に金のロゴが入ったそれは小洒落た雰囲気を持ち、取り出した丸いケーキも表面の赤いジュレが艶々と華やかで、優美な曲線を描くショコラがその上に載せられ、白いクリームは驚くほど滑らかに整えられた瀟洒なものだ。
ル・プセラは少し値段設定は高めなものの、それに見合う美味しさと見た目で若い少女たちのちょっとした贅沢として人気のある店なのである。
そこの新作といえば予約は必須。しかもこだわりの強い店なのでその予約も金を積んだからといって早められるものではない。アルバートは密かにレオノールがこうも簡単に手に入れてくるのを伝手の広い男だと感心しているのだった。
「ん、悪くない」
いつもは下がり気味の口角がほんの少し持ち上がり、厳しい茜の瞳が僅かに緩む。
その差は普通の人には判別がつかないほどで、レオノールは持ち込んだ酒をかぱかぱ飲みながら難儀な奴だなぁと思った。
「アル、君はさぁ一人で背負いすぎなんだって、もっと気楽に生きたら〜?」
「お前の生き方は能天気すぎる。もっと真面目にやってくれたら私の仕事ももう少し減るはずなんだが?」
「いやぁ、俺には向いてないみたいだよ〜」
「お前な……」
「ま、仕事面もほんのすこ〜〜し頑張ったげるからさ、今日は一緒に寝ようよ、アル?」
レオノールが紫の瞳を茜の瞳に合わせた。
真面目で自分にストイックすぎるアルバートとふざけた雰囲気ながらも要領のいいレオノールという正反対な二人だが、どうして今では一番親しいとも言える仲である。
それは互いの足りないところを補い合える性格面もそうだが、魔力の相性が合う、というのもある。
魔力は人の体に誰しも巡るものである。
それは人の生命活動を支える根幹でありながら、余剰部分を『魔法』としてこの世に顕現出来る超常の源でもある。
人類が魔獣や精霊といった人より遥かに力強い存在とどうにか渡り合えているのは、この魔力のお陰だった。
そんな魔力だが、血液にも相性があるように魔力にも相性があるのである。『合う』魔力の持ち主たちはそばにいると安らぎを覚えたり傷の快復が早くなったりといった効果がある。
それに当て嵌るのがアルバートとレオノールだ。こうしてそばで喋っている今もじわじわと心地よさが伝わり、アルバートは久々に気分を弛めることが出来る。
しかし、また、アルバートのストレスの元であるミュルはその中でも特殊体質であり、『合う』相手の範囲が大変に広い。そのため人だけでなく様々なモノから気に入られやすく騒動を起こしやすいという訳なのだった。
「私の家に来るつもりか?」
「どーせ最近帰れてないからごちゃってるでしょ〜?ついでに片付けたげるよ?」
「…………わかった。助かる」
何もかも見透かされているようなレオノールの瞳に、アルバートは自分のぼさついた頭を思い出して頷いた。
どうせ意地を張っても無駄なのだ、こいつには。
近頃は帰ってもただ寝るだけとなっていたアルバートの家(騒がしいところが嫌いなのでわざわざ庭付きの一軒家を買った)はレオノールの予測通り結構散らかっていた。
アルバートはそれなりに家事は出来る方だが、ここ最近(特にここ一ヶ月)の忙しさは尋常ではなく、そこかしこで服やタオルが中途半端に積み上がっていたり放り出されたりしている。
レオノールは「あーあー」なんてどこか楽しげに呟きながら家主より家主らしくそれを片し始め、アルバートには風呂に入るよう勧めた。物の置き場所なども粗方把握しているので出来る技である。
しかし勧めたは言いものの、家という安全地帯に入ったことで気が抜けたのか、ふらついたアルバートが棚の角に顔面をぶつけそうになっているのを見て思わず真顔になる。
「……風呂で溺れないようにね〜?一緒に入ろっか?」
「一人で入れるが」
アルバートは思わずむっと言うが、次の瞬間引き戸を押し開けようとして扉に衝突した自身が大分疲れていることに気付いたので、しぶしぶ、そして心の中ではありがたくその提案を受け入れた。
我慢しがちな自分をリラックスさせる為に、アルバートは予め風呂場や寝室などの空間を広く取っている。ゆったりと浸かれる湯船は大の男二人が少し狭くはあるが普通に入るサイズで、後ろにいるレオノールに凭れながらアルバートは気持ちよさにうつらうつらした。
ぴったりとくっついた肌から互いの魔力が滞りなくするすると循環して、指先にまで血が通う。頬が自然と赤らんで、ふっと気が抜けるのがわかった。
小さく後ろを見上げて、今は薄く青に見える瞳を捉えた。
「…………レオ、あー、いつも助かってる」
「ん、どーいたしまして。俺はアルに倒れられたら困るからね〜、軍が回らなくなっちゃう。そーしたら俺もちゃんと働かないとでしょ?」
「普段からやれ」
「あっはっはっ」
「誤魔化すんじゃない」
茶化すように笑うレオノールだが、実際のところ彼もまた仕事に忙殺されている幹部の一員である。生来の器用さで次々と仕事をこなし、いつも飄々とした態度でいるが、それでも仕事量は並の隊員とは比べ物にならない。しかしレオノールは自分が余裕を持っているようにすることで上手くいく仕事もあるためこのスタンスを崩さないのだ。アルバートもそれは勿論わかっているから、こうしたやり取りもまた彼らが親しいが故であるのだった。
「はぁ、私もそろそろ引退したいよ」
ほふ、と息を吐いてレオノールに体重をかける。
レオノールの体躯はチャラチャラとした言動とは裏腹に、軍に務める者として鍛えられ引き締まった肉体であり、がっしりとした安定感がある。
「そーだね〜、俺ら引退したらさぁ、二人で田舎に越してのんびり暮らそーよ」
「ふむ、それもいいかもしれんな」
「俺、海がある町がいいな〜」
「海鮮か。悪くない」
「ふふ、食べ物〜?それだったらアルの好きな甘味もないとだねぇ」
とろとろとした温かさに包まれて、暫くは縁遠い未来を語る。寝物語のような優しいそれにふっと意識が落ちかけるが、レオノールが緩くアルバートの頬を刺激した。
「アル、寝るんだったらベッド行こ〜?」
「あぁ、わかっている」
閉じそうになる瞼をこじ開けて浴室を出ると、手早く身支度を整える。体の水分を拭い、髪を互いに乾かし合う。普段なら魔法でぱっぱと終わらせるのだが、アルバートの髪の毛に優しく触れるレオノールの手にどこまでも安心してしまって、いつもより長い時間がかかってもむしろ名残惜しくなるほどだった。口に出すことはしなかったが、レオノールもそれを察しているのか暫く髪を丁寧に梳いてくれた。
「はい、終わり〜」
「ん……」
温風を出した後の余剰魔力までも余すことなく溶かし合うと、風呂に入っただけなのに自分の体の凝り固まった部分が全て解けていた。人を殺すような威圧感に満ちていた茜の瞳も、いつもの険しさに戻っている。アルバートは、レオノールと共に過ごす度に魔力の相性の良さというものを実感してしまう。いつもつっけんどんな、必要以上に強い態度を取ってしまうのも、この心地良さに慣らされたら自分がダメになってしまうという恐れの現れであった。まあそれとは別に純粋に腹が立つという部分もあるが。
ひとつ大きく息を吐くと、ただでさえ限界だった眠気がぐらぐらとアルバートの頭を揺らす。
「…………レオ、一緒に、寝るぞ」
「はいはい、俺が手ぇ引っ張るから転ばないようにね〜」
幅広のベッドに共に倒れ込む。アルバートはレオノールの背中に腕を回し、ギュッと抱きつくと数秒後にすぐ寝息を立てた。ほぼ気絶のような入眠である。
真正面から抱き合う形になり、互いの顔がよく見える。紫の目で相手を眺めると、忙しさでケアが追いついていない部分が如実にわかった。先程よりは薄まってはいるが、それでも色濃く残る眉間の皺をレオノールは伸ばしてやり、治癒効果のある魔力を込めた温かな指先で隈をなぞってやり、小さく安眠できる子守唄も歌ってやった。
レオノールはアルバートが困っているのを見るのは好きだが、命を削るような無理をさせたい訳では全くない。
鼓動の音が共鳴して、魔力が循環する。そばに居るだけでプラスになる関係を心地好く思いながら、次第にレオノールも眠気に誘われるようにして目を閉じた。
早朝に目を覚ます。アルバートは習慣としていつも同じ時刻に起床することを体に叩き込んでいたが、体の重さが無くなったかのようにスッキリとした今日の目覚めは爽快だった。
傍らで寝こける信頼出来る同期を起こさないようにそっと寝台を抜け出し、定期郵送してもらっている食材で手早く朝食を作る。ここ最近は料理配達サービスで賄っていたが、自分で栄養を考えながら調理をする時間がアルバートは好きだった。計画立てて食料を消費し、自律性を確認する簡単な儀式のようなものだ。
弱みを見せるのが苦手で意地を張りがちな自分のことをアルバートは承知している。そのため自分で自分の調子を取るのが彼の性分だったが、近年はそこにレオノールが介入することも多くなっていた。
己が弱くなったようで少し嫌になる気持ちと、他者を受け入れる器ができたことは成長なのではないかと客観視する気持ち、反発し合う感情が併存してある。まあ、端的に言えば嫌な変化ではない、ということだ。
上階から物音がした。アルバートと同じく軍属の男は、やはり習慣として早起きなのである。
自分のとは別に、同期の好む味付けをしたプレートを配膳し、匂い立つ珈琲を二杯分淹れる。
ここ最近のアルバートの髪よりも酷く、跳ねっ返る寝癖をした赤髪の男が、いつもよりも気の抜けた表情で居間に降りてきた。光によって色の変わる瞳は、今の時間だと薄桃のように見える。
「ふひひ、起きたらご飯が出てくるのっていいねぇ。もう俺アルの家の子になろっかな〜」
「こんなデカい子供は私の手に余る。戯れ言はいいから席に着け」
レオノールとは違って時間のあったアルバートの茶髪はきちんと撫で付けられ、元々険しい茜の瞳は昨日の魔力循環のおかげでそれでも幾分か和らいでいる。これなら出会い頭に悲鳴を上げられることはないだろう。
「うん、まぁそれは冗談なんだけど、流石に俺ら一緒に住んだ方がよくない〜?」
茶化しと真剣さが半分ずつ。
レオノールの提案にアルバートは流すようなため息を吐いた。
「…………追々な」
「うん、おっけー、前向きに検討ってことだよね?」
「ああ、前向きに検討する」
「ん、楽しみにしてるよ」
真面目なアルバートにとって、一度取り組むと決めたことを投げ出すことは殆ど無い。自らやると口に出したことは尚更である。
よって、前向きに検討するという言葉は正しく言葉通りであったし、アルバートの力が入ったのか少し険しくなった目許と、レオノールのいつもより軽やかな話しぶりはそれを如実に表していた。
二人は軍属の者らしく手早く食事を終え、常よりも動きやすい体で今日も今日とて激務に挑んでいく。
アルバートは出勤してすぐにミュルのトラブルに直面したが、それがいつもより軽いダメージで済んだのは、朝交わした約束のおかげだったかもしれない。
まあ、それはそれとしてミュルにはもっと考えて行動して欲しいとは常々思っているが。
「オリンズ隊長、第三番魔導訓練場に一夜にして巨大な木が生えた模様です!分析班によるとデネシュ族の聖木、ガナルガンドだと推定されます!」
「屋根を飛び越えた樹頭がデネシュ族の目に付き、今入口に詰め寄せています!勢いを抑えるのに増援願います!」
「あ、おい!潰れるぞ!落ち着いて!落ち着いてください!」
「む、我はこの殺風景な建物に緑を増やそうと思っただけだが?」
「精霊、シェウィード!?!?ただの観葉植物だって言ったよね!?!?」
「うむ、我にとっては観葉植物と同義であるぞ。ほら見ろ、ミュルのおかげでこんなにも立派に育ったではないか」
「うわぁぁぁぁまた怒られるぅぅぅぅぅ!!!!!」
伝声管から次々と流れ込む報告と、元凶たちの会話が嫌でも耳に入ってくる。己のストレス解消のためにも、早急に二人で住む手続きを進めるべきだな、とアルバートは改めて決意した。