表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

憎悪と羞悪

〈罪は、現代社会に残った唯一の鮮明な色彩である。〉

オスカー・ワイルド   




 離陸間近の午後8時5分。

 空を、見上げていた。


「いつかまた、会えるかな」

 そんな事を、私は心の中で思っていた。


 ……違うな、いつかまた、も、会えるかな、もなく、

「いつかこの時のように、また会うこともあるのかな」

 というのが、より正確な言い方だな、と私は思い直した。


 星の見えない、空港の真っ暗な夜空の下、8月の暮れの少しだけ涼しい風が心地よく吹いて、私の頬のそばを通り過ぎた。

 私はどこか泣きはらしたような、でも少しだけすがすがしいような、けれども胸のどこか奥ではまだ彼女への憎しみと祝福が入り混じったような、そんな複雑な心情を抱えていた。


『間もなく、当機は出発致します。シートベルトの着装を確実に行い、準備を行って下さい』

 飛行機の離陸のアナウンスと共にピンポーンと出発のチャイムが鳴り、飛行機の機体が僅かに前進して、スピードを少しずつ上げていった。

 羽田空港発、旭川空港着の最終便の飛行機の中で、私は最右列の窓側の席で頬杖をついて、機体の窓の外に流れる空港の滑走路と夜空を見送っていた。

 中学、高校と共に過ごした友達の結婚式で、私は旭川から東京へ赴き、しばらくの滞在をして、そしてその帰りのことだった。

 彼女の結婚式は祝福に満ち、微笑ましく、何も言うことのない素晴らしいものだった。 

 ただ、ある一点、彼女が取った一つの行動とその際に放った言葉のしこりに関して以外には。

 そして、私はその彼女が言った言葉によって感じたこの感情に名前を付けられないでいる。

 それは、憎悪なのか羞悪か、はたまた嫉妬か羨望なのか。

 いらだちと焦燥が胸から離れないこの見知らぬ感情に、憎しみという安直な感情の名前で言い表すのを、私はためらう。憎しみというのは、あまりにも愚かしく、そしてあまりにも軽々しいものだと私には思えたからだ。

 憎しみ、それを私はこれほどまでに感じたことは無かった。

 いらだち、焦燥、嫌悪、ごくたまに相手感じる怒り。そういったものを私はこれまでどんなことがあっても直視せず、そんな感情は自身を蝕むものだけなんだって、そうやって見ない振りをしてやり過ごして来た。今まで怒ってもいい沢山の事があったけれど、そもそも私は怒りや憎しみといった感情をどこかに落として来たまま生まれた人間なんだって、そんな諦めにも似た欠落感と諦観の感情の中で私はこれまで生きて来た。

 でも今は、何かが影のように執拗に纏わり付き、決して離れないように私を覆う。そうして私のその罪を糾弾するように、何度も反響してけたたましく鳴るサイレンのように、私を諌める。





 彼女の名前は、小野塚(おのづか)真奈美(まなみ)、といった。

 彼女は中学と高校を一緒に過ごした友達で、そうしておそらく私にとっては唯一の親友、と呼べる存在でもあった。

 彼女は少し変わった所はあったけれど、友達も多く社交的でクラスの輪の中心にいるようなタイプで、私とは対照的なタイプの人だった。私は教室の隅の方で、少し難しい小説を読みながら、そして、少しだけ世の中を憂いたり恨んでいるようなタイプの学生だった。

 そんな私と彼女が友達になったのは、一冊の本がきっかけだった。

「それ、フランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』?、ちょっと難しいけれど、考えさせられる小説だよね」と彼女はそう本を読んでいる私に声をかけて来た。

 中学生でサガンを読むのは、だいぶませた中学生に思えるけれど、私はその不思議な響きのタイトルに惹かれて、その本を手に取り、読んでいたのだった。

「そうだよ。この作者は初めてなんだけどね、タイトルが素敵だったから読んでみたんだ」

 そう私は言うと、彼女は目を細めて嬉しそうな顔をし、「そうなんだ。ねえ、いつも本を読んでいるけれど、どんな本が好きなの?」と訊いてきた。

 私はその彼女の問いに答えると、いくつかお互いに好きな作家が共通しているのが分かり、その作家の作品について話が広がり、私たちは気がつくと随分長い間話し込んでいた。

「小野塚さん、声を掛けてくれてありがとう。自分の好きな本についてこんな風に誰かとじっくり話すことができたのは初めてだったよ」

「いえいえ、こちらこそ。いつも教室で本を読んでいたり、図書室によく居たのが気になっていたんだ。……ねえ、片岡さん、できれば私のこと、真奈美って下の名前で呼んでくれない?」

「……真奈美さん?真奈美ちゃん?」

「あはは、いいよ、呼び捨てで」

 ほとんど話したことのなかった彼女のことを、いきなり下の名前で呼び捨てにすることは結構はばかれたし、恥ずかしかったけど、そう言ってくれた彼女に対して私はこう言った。

「じゃあ、私のことも下の名前で呼んでくれる?片岡理恵、理恵っていうのが私の下の名前なの」

中学2年生の春。ゴールデンウイークが明けた5月中旬のこと。クラス替えがあり新しいクラスとなってから、徐々にクラスの雰囲気や形が作られる頃、そんな風に私達は友達になった。

一人が好きで人嫌いな私と、社交的で人好きな彼女。

 どうしてだろうね、それぞれ全然違ったタイプで対照的な性格なのに、不思議と話が合って、私達はいつの間にか溶け合うように打ち解けていた。



 真奈美は、吹奏楽部に入っていて、二歳下に妹がいる二人姉妹。両親が国語の教師で、その影響で小さい頃から本が好きだったようだ。

 私は何か現実逃避をするように、本の世界に逃げるように読書をしていたのに対して、真奈美はもっと純粋に本を読むこと自体が好きな、生粋の読書好きだった。真奈美のその明るく社交的で広い交友関係の傍ら、常に本をどこかで凄まじい速さで読んでいて、私の読んでいた本の大半は既に同じように真奈美も読んでいた。

 私達の学校は東京の私立の中高一貫の女子校で、いわゆるお嬢様学校のような所だった。私はそういう学校の雰囲気が好きになれなくて、この学校に入って時から、ここは自分のいる居場所じゃないのだという疎外感を感じていた。生徒の親の多くは、医者や教師や大企業に務めているような人ばかりで、学歴や肩書を鼻に掛けるような人種の人間が娘にこぞって通わせたくなるような、そういう私立のお嬢様学校だった。

 かく言う私も、父親が大病院の医院長を務める医者であり、半ば強制的に小学校の3年生から中学受験予備校に通わされて、教育ママだった母親の望むままにこの学校に進学したのだった。

 私は、中学の入学当初は演劇部に少しだけ興味があって入部したのだが、ブサイクで高慢で横柄で生意気な部長とその取り巻きが仕切っているその部活がすぐ嫌になって一週間で辞め、その後はそのままめでたく帰宅部となり、授業のあとは誰も知り合いも友達もいない図書室の隅で本の海に沈むような学生生活を送っていた。

 私の両親である、大病院の医院長を務める父親と、元看護師で専業主婦の母親の仲は悪かった。私が物心付いた時から、両親は喧嘩の絶えない二人だった。高慢で横柄で、自分の思った通りに物事が運ばないと絶対に許せない父親と、神経質で自分の意見を曲げない母親はよく言い争っていた。本当に些細でくだらないことから、お互いの行動の一つに至るまで。

 なにせよ、物心付いた私の一番古い記憶は、真夜中の寝室の扉の向こうから漏れて来るリビングの明るい光と、けたたましく聞こえてくる両親の喧嘩の怒鳴り声だったのだから。

 私には三歳上に兄がいるのだが、そんな兄はそういう両親の姿を見て一切の感情を表に出さない寡黙な性格のまま育っていった。優秀で学歴の高い父親の血を継いで、兄は勉学に関してはずば抜けて成績がよく、兄は東京のトップの私立の中高一貫校に進学していった。兄は端正で顔立ちもよく、成績も優秀で、寡黙ではあるけどそれなりには人当たりもいい人ではあったが、どこか心の中では何かが歪んでいて、妹の私ですら兄は何を考えているのか分からず、少し怖いところがあった。私達は三歳差の兄妹ではあったけれど、兄と遊んだ記憶はほとんどなく、私の兄はいつも勉強をしているか、一人でゲームに興じているかしかなかった。

 高慢で高圧的な父と、神経質で意固地で虚栄心の強い母、優秀だけど無口で何かが歪んでいる兄。そして、そんな家族を見て育った人見知りで臆病で、けれど高慢で意固地で何かが歪んでいる私。

 私は、私のその家族が嫌いだった。もちろん、この、私の自身も含めて。


 そんな私の家族の中で、唯一、私が心を開くことができて、私に優しくしてくれたのは私の祖母だった。

 私のその祖母は母方の祖母であり、私の家の少し離れた所に一人で住んでいて、私はよくその祖母の家で小学校中学年までを過ごしていた。祖母と母の仲はそれほど良くはなかったが、祖母は私にはいつも優しくしてくれた。

 私の祖母は本が好きで、小さい頃はいつも私に絵本や物語を読み聞かせてくれた。時に怖い話や心が温まる話、何か教訓めいていて考えられる話、壮大でワクワクするような冒険と魔法の世界の話。本の物語の世界は、私を広くて色鮮やかな素敵な世界へといざなってくれた。

そして、その感想を、こぼれ溢れるような思いをいつも聞いてくれて、話してくれたのはいつも祖母だった。


 私が小学生6年生の頃に祖母は癌で亡くなった。中学受験をして、都内のその馴染めない中学校に進学したあと、私にとって心を開ける相手は誰もいなかった。私は、図書室の海の中で、物語の活字の世界に沈むように、または溺れるようにして、その物語の海の底に佇んでいた。

 中学2年生のその春、真奈美と私は友達になって、溶け合うように、心から何かを語り合うことができた時、私はその物語の暗い海の底から、光が輝いている海の水面へと手を引っ張られたような感じだった。

 青天の霹靂。

 暗い影のように歩く私を、あなたが照らしていた。

孤独な毎日が急に輝きだしたこと。あなたと友達になったその日から。

 そして、その後起こった私のどうすることもできない悲しみや悩みごとも、赤裸々に打ち明けることができ、相談に乗ってくれたこと。私の悲しみや辛さを自分のように感じてくれて、悲しみを少しにしてくれた時のこと。

 私にとって無二の親友と言える人であったこと。



 でも、もうそんな表現において当てはめていいものか、私には分からなかった。

 もしかしたら私達の関係は、まるで、最初からそもそもシャツのボタンを掛け違えていたかのように。





『謹啓

 早春の候 皆様には益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。

 この度 私たちは結婚式を挙げることとなりました

 つきましては日頃お世話になっている皆様にお集まり頂き ささやかな披露宴を催したいと存じます

 ご多用の中ではございますが ご来臨の栄を賜りたく 謹んでご案内申し上げます

 謹白

 令和3年4月吉日


 太田孝二 

 小野塚真奈美 』


 新年度となる4月の最初の週の月曜日の夜、仕事から帰宅すると、その結婚式の招待状は何の気配も前触れもなく、私のアパートのポストに投函されていた。招待状には更に8月下旬に結婚式が挙げられる旨が書かれており、5月末までに返報の旨が記されてあった。

 私にとって、それはまったく寝耳に水の便りだった。

 真奈美と同じ東京の中学と高校を卒業したあと、私はあるきっかけがあって、北海道の看護学部のある大学へと進学し、旭川の病院に務め働いていた。

 真奈美とは高校卒業後は、住んでいる所が遠く離れてしまったので、1年に1、2回ほどのペースでしか会ってはいなかったけれど、彼女とは頻繁にLINEや電話を交わしたりして、お互いの近況の細かいことや身も蓋もない愚痴や雑談を交わしたりしていた。

 そしてその中に、近々彼女が結婚することや、まして彼氏がいて付き合っていることすら、私達の会話の中にはこれっぽっちも出て来てはなかった。

 また、真奈美はツイッターやらフェイスブックで頻繁にというか、かなりSNS中毒者並に高頻度で投稿をしまくる人で、その近況については私がLINEや電話で話すことも含めそれ以上によくよく知っているものと思っていたから、私にとってこの真奈美からの結婚式の招待状の便りは驚き以外の何物でもなかった。


 その形式的な文章でしたためられた招待状と供に、新郎新婦姿の彼女とその彼の写真が添えられていた。

 招待状に添えられた写真を見るからには、その彼は30代中ほどのような、背が若干低めで髪が短く目が異様に細くてのっぺりとした顔付きの色黒な男性だった。

 太田孝二、とその名前は招待状に記されてあった。中学と高校を彼女と一緒に過ごし、その後もお互いの恋愛事情に至るまで、事細かにお互いの近況を話していたけれど、私にとってこの彼の名前や顔はまったく知らないものだった。

 私はいささか困惑した面持ちで、この便りに対してまずどうするべきかな、と目を細めて考えた。

 私が、この真奈美からの結婚式の招待状を目にした時の最初の感情は、驚き、戸惑い、そして困惑だったのだろう。親友が結婚することとなり、単純に友達を祝福する気持ちよりも、そんな戸惑いや困惑の気持ちがどうしても先に来てしまい、頭から離れなかった。

 どうして、彼女は〝友達の〟この私に結婚式の招待状を送る前に、結婚を考えて付き合っている彼の存在や、結婚し籍を入れることの連絡をしてくれなかったのか?


 そんなことを私は色々と考え続けていたが、やはり単純に私が取ればいい行動は一つだけだった。

 4月のまだ寒い初春の夜風がごうごうと吹く、夜の9時過ぎ、私は真奈美に直接電話をかけてみた。


 40秒ほど、20回くらいのコール音が鳴って、諦めかけていた時、遠くの場所で重たい門が開くかのように、その電話の呼び出しは繋がった。

「……もしもし?真奈美?」

「ああ、理恵。久し振り」

 私は、少し動揺してる今の気持ちを抑えながら、あくまでも冷静に言葉を発した。電話越しの彼女の声は少しかすれていて、どこか遠い場所にいるかのようだった。

「真奈美、夜中に急にごめんね。…ねえ、ついさっき私の家に真奈美からの手紙が届いたんだけど、真奈美、結婚するの?おめでとう…!」

「…ああ、結婚式の招待状、届いたんだね。……理恵、今までそういう連絡してなくて、ごめん。……ちょっと色々とバタバタしててさ」

「いいよ。そっちも多分色々忙しいでしょ?でも、かなり驚いたなあ。真奈美、今までそういう気配も感じも全然なかったじゃん」

「……うん、まあね。理恵とは離れていても、年末年始や夏の帰省の時とかには必ず会ってたし、頻りにLINEや電話でこんな風に連絡を取り合っていたけれど、なんて言うかさ……、このことはあまり話せなくて」

「いいよ。いいよ。気にしないで。でも、めでたいなあ。ほら、少し前にさ、今年で私達、30になるでしょ。結婚するなら、それまでにしたかったなぁ、って話してたじゃん」

「……うん、そうだね」

 電話越しの真奈美の声はどこか虚ろなかすれた声で、何か考えごとをするみたいなぼそぼそとした話し方だった。急に親友からの吉報を貰い、戸惑いや困惑気味になりながらも、彼女と話しているうちに徐々に嬉しさの気持ちが湧いてきてテンションが上がっている私とは対照的に、一貫して真奈美の声はどこか遠く、淡々として気持の抑揚を欠いた不自然なものだった。

「……真奈美?どうかした?なんか、あまり元気そうじゃないけど…?」

 私は電話越しの彼女の声や話しぶりを少し訝しげに思いながら、そう尋ねた。

「理恵、ごめん。やっぱり、なんとなく私の様子が変なの、分かるよね。…………、理恵にさあ、このことで相談したいことがあるんだけど、いい?」

 真奈美は少しずつ言葉を選ぶようにして、ぼそぼそとそう私に言った。

「もちろんだよ。いったいどうしたの?」

 そう私は、それがいったい何なのか、少し考えながら言った。


「私、離婚したいんだ」と、真奈美は唐突に告げた。


「…………、…………、…………はあ?」


 私はその言葉の意味を理解し反芻し、それがいったいどういうつもりでなのか、という疑問に変わるまで、しばらくのかなりの重い沈黙があったあと、思わず私はそう訊き返した。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ