ラオダメイア——手紙が語るギリシャ神話。トロイア戦争によって引き裂かれた夫婦の絆
「ラオダメイアさま、どうか王妃としてふさわしい服を身につけてはくれませんか?」
街の婦人たちからそう話しかけられて、ラオダメイアは若干の不機嫌と共に振り返った。館の庭先でせっかく夫と楽しく話をしていたというのに。
ラオダメイアは、テッサリア地方ピュラケーの王・プロテシラオスの妃である。当然今までは、身分にふさわしい服装をするよう心がけてきた。それは王妃としての義務でもある。
そんな彼女がなぜ最低限の身支度すらやめてしまったのか、婦人たちも心配しているのだろう
たしかに今の彼女の服は質素なものだった。年ごろの女性なら決して選ばないであろう、実用一辺倒の布の服。何の刺繍も装飾も施されていない、地味な服。だがそんなことに構ってなどいられなかった。なぜなら——。
「夫がこれからトロイアに攻め込もうとしているのです、私だけが着飾るわけにはまいりません」
婦人たちは心配そうに顔を寄せ合った。それもそうだろう。なにしろラオダメイアが今まで話していた相手は、夫プロテシラオスではない。彼によく似た姿に作らせた蝋人形なのだから。
王妃の頭がおかしくなってしまったのではないか——と気が気ではないのだろう。
「では髪をとかしましょう。そんなボサボサ頭では、王が帰ってきたときにびっくりしてしまいますよ」
「夫の髪は兜の下で乱れているのです、私だけが髪に櫛を入れるわけにはまいりません」
婦人たちは嘆いていた。しかしラオダメイアは心の中では誰よりも嘆いているのだ。どうか夫が無事に帰ってきますように、と。
「せめて服は新しいものに着替えませんか? そんな同じものを着っぱなしで……汚れもほつれも目立っています」
「夫の服は固い防具の下ですり切れていくというのに、私だけまっさらな服を着るわけにはまいりません」
婦人たちは困惑の表情で話し合っていた。やがてその中のひとりが進み出る。
「なぜ……なぜそこまでするのですか」
それ以上は聞かずともラオダメイアは理解できる。こんなことには意味がないのだと。故郷で妻が苦行にまみれていても、戦場の夫には何にも届かないのだと。
「あなた方の言いたいことは理解できます。ですが私はこうせずにはいられないのです」
ラオダメイアはその美しい顔を伏せた。
「——夫が戦場で命を懸けて戦っているというのに、私だけが安全な館で贅沢な生活を送るというのは……せめて夫と似たような苦難を味わっていなければ、心が落ち着かないのです」
婦人たちはラオダメイアの手を握ってきた。肩に手を置く者もいる。その誰もが悲しみに包まれていた。
「お可哀想な王妃さま……ですがアカイア(ギリシャ)随一の勇士たるプロテシラオスさまなら、きっと戦で大手柄を上げて帰ってきてくださいます」
「もちろんそうなることは間違いありません……ですが」
不安が心から離れてくれなかったのだ。しかし婦人たちは憐れな王妃を元気づけようと話しかけてくれる。
「以前こちらに来たというトロイアの王子パリスなど、戦いとは無縁の優男らしいじゃありませんか。そんな輩に我らの国王が後れを取るはずなどありません」
「ええ、そうですね。パリスなど我が夫の敵ではありません。問題はその兄——トロイア軍総大将ヘクトールなのです」
アカイア中の勇者たちが出征してからというもの、街の女たちの話題は敵国トロイアについてが中心を占めた。アジアという土地、神々が築いたという堅牢な城壁、武勇を誇る王族たち、周辺部族の猛者ども。その中でもひときわ輝く猛将——ヘクトールが話題に上らぬ日などなかった。
婦人たちはラオダメイアを元気づけてくれる。だがそれが空元気であることは容易に察せられた。
「……プロテシラオスさまが敵総大将と一騎打ちになることなどあり得ません。だって我らの軍勢は総勢1000隻を超えるのですから。きっと他の誰かが相手をしてくれますよ」
「そうなのですが……」
ラオダメイアの気分はどうしても晴れなかった。論理的に考えれば、こんなところでウジウジしていても意味はない。しかしいくら神殿で神に祈りを捧げようと、不安の闇は振り払えないのだ。
婦人のひとりがポンと手を叩いた。
「そうだ王妃さま、手紙を書かれてはいかがでしょう」
「手紙?」
それは意外な提案だった。たしかに妻からの手紙を受け取った夫は、身の安全を最優先に考えてくれるだろう。敵将との一騎打ちで手柄をあげるよりも、無事帰国することを選んでくれるだろう。
だが果てなる荒波を乗り越えて、遙かなるトロイアまで手紙が届くのだろうか——ラオダメイアはふと考えてしまう。
「心配しないでください王妃さま!」
婦人はラオダメイアの手を強く握ってきた。その刺激に、彼女の人間らしい感覚が呼び起こされる。
「——こちらとアジアでは貿易も盛んです。多くの商人が行き来しています。手紙なんて普通に届いちゃうんですから!」
その必死の形相を見ていたら、ラオダメイアも従わないわけにはいかなかった。民を安心させるのも王族の務めなのだ。彼女の美貌にわずかばかりの笑顔が戻ってくる。
「そうですね……じゃあちょっと書いてみようかしら」
◆ ◆ ◆
こうしてラオダメイアは手紙を書き始めた。
遠く戦地にある夫へ愛を語り、無事を願い、神に祈り、少しばかりの愚痴を混ぜて。敵将ヘクトールには特に気をつけるよう、注意を促すことも忘れない。
そしてこの手紙を見るはずもない、敵に向けての言葉も記した。
『トロイアの将兵たちよ、どうかひとりだけは見逃してください。私の夫にだけは槍を突き立てないでください。そこから流れる血は、私の血でもあるのです』
と。
結婚の翌日に旅立ってしまった夫へと、彼女は初めて手紙を書いた。蝋でしっかりと封をして、それが夫へ届くように願った。
だが、その手紙は受取人に届くことなく戻ってきた。テッサリア地方ピュラケーの王、ラオダメイアの愛する夫——プロテシラオス戦死の報告と共に。
◆ ◆ ◆
「なんで?」
王妃ラオダメイアは水夫を詰問した。周囲では男たちがざわめいている。
それもそのはず。王妃という身分ある女性が、男臭く汗臭い船着き場に乗り込んできたのだから。周囲では半裸の男たちが荷物を担ぎ、木材を加工し、船に積み込むためのワイン樽を転がしている。
女っ気など全くないところに国1番の美女が訪れてきたのだ。海の男たちはラオダメイアを目にした途端に仕事の手を止め、ただその美貌に見入ってしまう。
だがラオダメイアは、男たちからの物欲しそうな視線など意に介さない。ただひとりの水夫に不機嫌を向けていた。
「——なんで私の夫が戦死したなどと嘘をつくの? 正直に答えなさい」
「……王妃さま、どうか落ち着いてください。ゼウスに誓ってオレは嘘なんてついていません」
水夫は地面に両膝をつき、懇願してきた。至高の神ゼウスに誓っておきながら虚偽を述べる人間などこの世に存在しない。
ラオダメイアは少しばかりの冷静さを取り戻した。上から目線で民にものを言うのは、夫であるプロテシラオスの流儀に反する。彼女は手近な岩場を指さした。
「あそこで話を聞きます」
「そんな……! 王妃さまをあんな場所へ……」
ラオダメイアは構わず歩き、薄汚れた岩の上へ腰掛けた。臀部が泥で汚れることなど、気にしてはいられない。
あきらめ顔の水夫も彼女に続き、並んで座る。やがて尋問が始まった。
「私の夫はどうなったの?」
「ゼウスに誓って真実のみを語ります……オレぁプロテシラオスさまの船に乗っていました。そして我が王が戦場への一番乗りを果たし、そして討ち取られたのをこの目で見たのです」
ラオダメイアは深く息を吸って、それをゆっくりを吐き出した。
「…………敵は?」
「敵は……我が王をその手にかけたのは……敵軍総大将ヘクトールです」
王妃はその言葉に衝撃を受けた。なぜよりにもよって敵軍最強の将が、愛する夫と開戦早々まみえることになるのか。あまりにもできすぎた話ではないか。
「なんで?」
ラオダメイアは再度問うた。それは相手への質問ではなく、運命の女神への恨み言というニュアンスに近かった。
「——なんで敵軍の総大将が最前線に出ているの?」
「わかりません……ただ、こちらの上陸地点が敵にバレていたんじゃないかと……」
「なんで私の夫が、戦場への一番乗りなんて最も危険なことをしたの?」
手紙に書いたことの正反対ばかりが起こるではないか——ラオダメイアは運命を呪った。
水夫は苦悶の歯ぎしり音をたてる。だが徐々に言葉が紡ぎ出されてきた。
「……女神の予言があったのです。『トロイアへ最初に上陸した者は必ず死ぬ』と」
「予言……」
ラオダメイアは絶句した。女神の予言は絶対だ。この戦争にそんな物騒な予言が下されたのなら、もはやどのような勇士でも戦場への一番乗りを躊躇しただろう。
「——夫はその予言を知っていたの?」
「知っていたもなにも……」
水夫は拳を強く握りしめた。
「——知っていたからこそ、プロテシラオスさまは戦場への一番乗りに志願したのです」
「……なんですって?」
ラオダメイアは我が耳を疑った。どうしてそのようなことが起こるのか。よもや夫が自分のことを愛していないなどとは思いたくなかった。妻の身を案じ、必ず生きて帰ってくれると信じていたのだ。
水夫は歯を食いしばりながら悔し涙を流していた。
「アカイア(ギリシャ)全軍のためなのです! 我らの王は全軍が勝利を収めるために、あえてその礎になろうとなさったのです!」
「……」
水夫は拳を握り、腕を振り上げた。
「皆が女神の死の予言に怖じ気付いていては、戦争が始まらない! ならこのまま戦いもせず逃げ帰るのか! そうしたら我々は歴史に残る軟弱者扱いだ! 詩人によってその無様は永遠に語り継がれるだろう! ならば私がトロイアへの一番乗りを果たし、この脚で死の運命を置き去りにしてくれよう! 皆は予言のことなど気にせずトロイアに上陸してくれ……そう全軍に檄を飛ばしたのです!」
水夫はそこでひとつ息をつき、興奮を抑え込んでいた。
王妃は言葉を返せなかった。だが夫ならそういう役割を引き受けてしまいそうだとは思っていた。戦いよりも平和を愛する、仲間思いのプロテシラオスなら。
「——オデュッセウスもアキレウスも怖じ気付いていたってのに、彼は死の予言に敢然と立ち向かった。我が王プロテシラオスは最も勇気ある男です。オレはあんな男になりたい」
水夫は男泣きしていた。
ラオダメイアも気付いたら涙を流していた。
男の生き様、戦士の意地、そして王としての大局観。その全てを兼ね備えた夫は、遠いアジアの地で息絶えてしまったのだ。
◆ ◆ ◆
その日の夕方、ラオダメイアひとり神殿で祈りを捧げていた。
一国の王妃が床に膝をつき、両手を合わせ、天に住まうオリュンポスの神々に慈悲を請うているのだ。
「どうかもう一度だけでも、夫と会わせてください。1日……半日……いえ、せめて3時間だけでも」
香を焚き、供物を捧げ、ラオダメイアは一心に願った。
だが神殿内には何の変化も見られない。天から夫が降り立つときの音も、夫が外から神殿に入ってくるときの音も聞こえてこない。地響きと共に大地が割れ、冥界から夫が蘇るような様子も感じられなかった。
気付いてみればもはや夜になっていた。神は祈りを聞き届けてはくれなかったのだ。ラオダメイアは涙をぬぐって立ち上がり、振り返った。
そこに夫が立っていた。
「……えっ?」
遙か内国で名誉の戦死を遂げたピュラケーの王。死の予言をその身に引き受けた最高の勇者。鍛え上げられた肉体をもつ逞しい男。そしてなにより愛する夫。心優しき美青年プロテシラオスが目の前に立っていたのだ。
「やあ、久しぶりだね」
朗らかに笑う夫を、妻は抱きしめた。
だが王妃としての立場を忘れたわけではない。取り乱すことなく、彼女はただ黙したまま腕に力を込め続けた。
「——本当に申し訳ない、長らく留守にしたね」
胸板の振動を通して、優しい声が感じられた。
「ええ本当に……」
ラオダメイアはなにも考えられず、ただ神に感謝した。
「本当はずっとここでこうしていたいんだけど、そうもいかなくてね」
「私の願いが神に通じたのだとしたら……」
彼女は神殿で神に願ったばかりだ。
『せめて3時間だけでも夫に会わせてください』
と。
その約束を違えることは神への裏切りとなる。
「神ヘルメスが、3時間だけ地上へ出ることを許してくれたんだ」
「ああ……なんということでしょう! 旅の神に感謝を!」
ラオダメイアは心からの感謝と、わずかばかりの恨み言を込めてそう叫んだ。
——夫を完全に蘇らせてくれてもいいじゃない!
だがそれは過ぎた贅沢だ。死者がひととき現世に帰ってくるだけでも充分な奇跡なのだから。
その後、神殿を出て寝室に戻った妻と夫は、人生の中で最も楽しい時間を過ごした。
語り、笑い、抱擁し、口づけを交わし、そして泣いた。
だが、楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。約束の3時間が来てしまったのだ。
「お別れだね、我が妻ラオダメイア」
プロテシラオスは沈鬱な表情のまま寝台から立ち上がる。
「お別れ? なにを仰るのでしょうか、我が夫は」
立ち上がったラオダメイアは、晴れ晴れとした表情で夫を見上げた。
「——あなたが冥界に帰るというのなら、私も一緒にハデスの元へとまいりましょう」
その手には未開封の手紙が握られていた。かつて受取人死亡により戻ってきた手紙と共に、今度は夫婦揃って死出の旅へと赴くのだ。
ラオダメイアは冥界での新生活に思いを馳せ、微笑を浮かべながらこの世に別れを告げた。
◆ ◆ ◆
こうして愛し合うふたりはこの世を去った。
だがこの後も、プロテシラオスとラオダメイアの目撃情報は相次いだ。
冥界へと旅立った夫婦は、地上と地下を行き来しながら気ままな生活を送っているのだろう……そんな噂が各地を巡った。
トロイア戦争によって引き裂かれた夫婦の絆——それは冥界の神ハデスによって再結合され、二度と断ち切れないほど強固になっているのだと。
夫婦がどのようにして現世に復活を果たし、あの世とこの世を行き来できるようになったのか——その秘密は運命の女神だけが知っているという。
本作の参考文献
オウィディウス:著 高橋宏幸:訳『ヘーローイデス 女性たちのギリシャ神話』平凡社ライブラリー
ブルフィンチ:著 野上弥生子:訳『ギリシア・ローマ神話』岩波文庫