第三話 膝枕大戦
心地の良い海風の中、通りに面した小屋の日陰で大男が修道女の膝に頭を預けて寝そべっている。
「あれは、先ほど倒れた辺境人だよ」と、あるものは微笑ましく、またあるものは妬ましく眺めていた。
大公はピクリとも動けなかった。
表情は牙をむき出しの狂犬、いまにも淫魔の喉笛に食らい付こうと睨みつけた。
淫魔は益々その妖艶さを増している。
その角から溢れでるイドは淫魔の容姿を変貌させた。
「・・・まるで獣のよう」
「ふざけるな!獣はもう居ない、その獣を奪ったお前たちが俺に獣を語りその影をみるのか!」
大公は怒声を浴びせたいが絞り出すような声しか出せなかった。
淫魔は自分の言った言葉に怒り狂い、憎しみを向けられて簡単に委縮してしまう。
だから勇気を振り絞るかの様に胸に手を当てて祈りを捧げた。
大公としては、まさに眼前で仇敵たる女神に祈られる屈辱に黙ってはいられない。
死力を振り絞って暴れる大公の肩が僅かに揺れる。
「なぜ女神に与する?あれは獣を殺し、辺境にあった祝福を奪った盗人だ。女神の祝福など獣から奪ったものを人界に横流ししただけではないか!」
怒りを受けて淫魔のイドが増大した、大公を拘束する力が増す。
怯えは消え去り、冷静さを取り戻した。
「お前は聖都で生まれたのか?辺境と蔑まれ祝福を奪われたあの地を知らないのか!?」
淫魔の妖艶さが増す。
このとき既に大公は己の敗北を確信していた。
それほどの力の差。
比較にならないであろうイドの保有量。
ここに至るまで辺境で何千何万という数の同胞を屠ってきた。
全ては神々に挑みうるイドの為。
その命の数々が無駄になるというのか。
自身もまたその無駄に散った命の一つでしかないか。
「神は辺境の敵だ!」
「私は神を殺す!」
淫魔は悲しげに大公を見つめた。
「お前は辺境の敵だ!」
「お前を殺し、神に挑む!」
「お前は私の敵だ!」
淫魔の美しさが増した。
もしも、いま淫魔がその顔を上げたなら、その美貌を波止場の男たちが見てしまったならば。
大公が必死に呪いの言葉を吐き続けるのは、その魂まで魅了されないための抵抗。
「俺はお前が憎い」
これまでとは比較にならないイドの高まり。
淫魔の奥底にあるイドには降りしきる雨のようにイドがもたらされている。
もはや淫魔の瞬き一つで大公の存在すら消し飛ぶと思われた。
「俺は、お前が嫌いだ」
淫魔の頬を涙がつたう。
「あふれちゃった」
それは、涙の事だけではなくイドのことでもあった。
「今日、貴方に会ってよかった。貴方の言葉は祈りより私に力をもたらしました」
なんの事だと大公は困惑した。
「辺境の英雄にして大公、ワンダ様。今から貴方に酷いことをします。ごめんなさい、先に謝っておきます」
「きっと貴方を泣かせてしまうから」
「この身が砕けようとも、心までは屈しぬ。貴様に泣いて詫びる事などありはしない」
「魔族の本質、力の源、魂の衝動、あなたのイドは闘争。それを貴方から奪うことになります」
「なるほど、貴様ならそれも可能だろう。だが例え虫けらほどまで力を奪われようとも、俺は自分が泣いて詫びるなど想像ができない。虫けらは虫けららしく神と貴様に挑むまでよ。俺は俺がその矜持を持っていると信じている」
膝の上の大公の顔、その頬に両の手で優しく触れる。
「許してとは言わない、こんなに酷い事をするのだから」
そして、淫魔は大公に口づけをした。