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膝枕大戦  作者: 長田佳陣
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第二話 港町

朝の港は男達でごった返していた。

木箱の上で一際大声を張り上げているのは荷降ろしをさせるために男達を雇う手配師だ。

男達の半数は黒髪に黒目で額には入れ墨をしていた。

それは何世代も前に失われた一族特有の角が生えていた場所を示していた。

彼らは辺境からの移民だ。

残り半分は人族の貧民だが、彼らの背景はより複雑で様々だ。


手配師が体格の良い男から順に指名して仕事場に連れてゆく。

その僅かな賃金は今夜の酒代に消え、明朝にはまた無一文になった男たちがここに集まってくるだろう。


やがて桟橋は木箱を抱えた男達が慌ただしく行き交うようになった。

そんな中ににフラフラと覚束ない足取りで船から降りてく男の姿があった。

二メートルを超える長身痩躯の壮年はゼェゼェと苦しそうな息をしている。

荷物を抱えた男達は、まだ始まったばかりの仕事に付いてこれない奴がいては邪魔だと怒鳴り倒した。

「まてまて、そいつは客人だよ」

甲板で指示を出していた船員が、今にも桟橋から突き飛ばされそうな長身の男を庇う為に声を上げる。

海を隔てた辺境からしっかり船代を貰って乗せたという。


荷役人の中から肩をかそうとする者が現れた。

面識のないはずの荷役人が長身の男に同情したのは共に額に入れ墨が施されていたからだ。

それでも、長身の男はその覚束ない足取りながらも荷役人を押しのけて歩くのを止めない。

彼らも放っておくしか無かった。


長身の男は焦点の合わない目で周囲の男達を見渡す。

荷役人、水夫、衛兵。

駄目だ、どれも闘争をもたらすには足り得ない。

闘争を!俺に戦いを!強者を!

ようやく桟橋を渡りきった頃には、ついに意識を手放してしまう。

人界侵攻の第一歩を踏み出した直後、薄れゆく意識の中、視界の隅に駆け寄ってくる修道女の姿が見えた。

そして、辺境の支配者たる悪魔大公は二歩目を踏み出すことなくイドの枯渇により気を失った。


***


【イド】


精神分析の用語で、超自我、自我とともに人格を構成する三つの領域の一つとされ、ドイツ語でエスEsともいう。

イドは性衝動(リビドー)と攻撃衝動の貯水池で、完全に無意識であり、遺伝的要素を主としているが、いったん意識化され、のちに抑圧されて再び無意識となった後天的要素も含む。


善悪や損得の認識を欠き、時間や空間のカテゴリーもなく、矛盾を知らず、ひたすら満足を求める盲目的衝動から成っている。


したがって、イドはいっさいの構造を欠いた混沌の世界と言えるが、それは自我の観点から見てのことで、イドにはイドなりの構造があり、一次過程、快楽原則に支配されている。


世界大百科事典 第二版より抜粋


***


海からの風。

海鳥の鳴く声。

荷役人たちの喧騒。

太陽を遮る軒の陰。

額に添えられた女の冷たい手。


大公は通りに面した小屋の軒下で目を覚ました。

風通しの良い軒下で長椅子に寝かされていた。

極限まで失われた生命力。

死との闘争は大公のイドを僅かながらも回復させた。

イドは細胞を活性化し大公は体の火照りを感じる。

額に手を添えていたのは横に座る修道服を着た女だ。

空いた左手を自身の胸元に添えて祈りを捧げている。

額に添えられた修道女の冷たい手が心地よかった。

辺境大公ワンダは静かに問いかけた。


「何を祈っている?」

「貴方が無事目を覚ますようにと」


大公が目覚めていることに気がついていたのだろう、修道女は別段驚くこともなく額から手を離すと両の手を胸元で組み、修道女らしからぬ妖艶な声で応えた。

「女神様に祈っていました」


大公とその民が祈るべき辺境の獣は死んだ。

黒い瞳の修道女が祈るべき存在は死んだ。


「それは辛い思いをさせたな」

心地の良い手が離れ仇敵たる女神への祈りに変わった事に、大公は年甲斐もなく修道女に嫌味を言ってしまう。長い魔族の寿命でみても自身はすでに初老の域だ。その特徴である黒髪にも白髪が混じり、老人らしい立派な眉をしている。

若者に嫌味だなどは大人げのないことだと大公は自らを恥じた。


しかし、不意に話しかけた際に身じろぎ一つしなかった修道女はその言葉にピクリと反応した。

明らかに動揺をしている。


改めて見てみれば修道女の額には角を模した刺青は無かった。

何世代も聖都で暮らす移民となれば、子の出生時に刺青を施さない親もいる。

ここでの暮らしを良くするには辺境の民としての矜持は役に立たないからだ。


「・・・助けてもらったというのに失礼な物言いをしてしまった。手間を掛けさせてしまったね」

ゆっくりと身を起こそうとした大公を修道女が支える。


しかし、まだ覚束ない体で身を起こすだけでなく、さらに立ち上がるとは思いもしなかったので、修道女は大公を支えきれずふらついてしまった。

ゴツンと頭を大公の顔にぶつけてしまう。

しかもフードに隠れた角でぶつかってしまった。

「ああ、ごめんなさい」

慌てた修道女が大公の頬に手を添える。

見えあげてくる修道女の顔は先程までの妖艶な雰囲気とは打って変わって純朴なものだったが、大公の意識はそんな変化を気にしているどころでは無い。


「角!?」


精神の奥底にあるイドを効率よく発現させるための器官であり、辺境の民が失った『本当の呼び名』とその誇りの証。


「お前は魔族か!?」


角の生えた先祖返りなど、もう長い間生まれては居ないと思っていた。

大公である自分ですら入れ墨なのだ。

もう一族から永遠に失われたとばかり思っていた。

しかし、その失われた教示を持つこの娘は。


「魔族が女神に祈るのか?」

一瞬の怒気に修道女が萎縮した。


いや違う、この娘が生まれたときすでに獣は居なかっただろう。

それは獣を失った大人の罪だ。

大公の悲しみは直ぐに女神への怒りへと代わり、大公のイドをゆっくりと満たし始めた。


人界と戦いでさらなる力を得て天に挑む為に聖都に来た。

その頃には自分にも・・・。


あるいは角を持ち魔族たりえるこの娘であれば、辺境の民に開放をもたらすかもしれない。

しかしそれは、この娘の人生であり大公には全く関係がない。


「ありがとう娘さん、心配をかけたがもう大丈夫だ。私はやる事があるので行かなくてはならない」

満ちてゆくイドを感じながら、大公は修道女の手をやさしく振りほどいて踵をかえし立ち去ろうとした。


立ち去ろうとしたのだが。


「まだ休まれていたほうが良いですよ」

修道女が心配げに見上げてくる。

その頬に触れた手を払いのける事が叶わなかった。

その長身は変わらず修道女に支えられ、頬に手が触れる距離で修道女を見下ろしている。


大公はその体を起こすことも出来ない。

周囲からは、ふらつく大公がゆっくりと屈む修道女に身を任せているように見えるだろう。


だがしかし、大公の両の足には大地も割れよとばかりに力が込められていた。

ぐっと大公の口から息が漏れる。

上から抑え込まれているわけではない、修道女は大公を右の脇の下から支えている。

その手もそっと頬に触れているだけだというのに、凄まじい重圧を感じる。


100を超える年月をかけてイドを拡張してきた。

その身がこうも容易く抑えられる。


人界においてこれ程の力を持つ存在など限られている。

歯を食いしばったまま唇だけを動かし声を出して問いかける。

「貴様、聖女か?」

「左様でございます。大公様」

淫魔は眉を下げ困ったような表情で応えた。

この娘はこちらが大公であると知っていた。


その間も淫魔は大公を抱えた体を屈め続ける。

大公の服の下では全身の筋肉は盛り上がり血管が浮き出ている。


これまで経験したことのない最大の闘争に、大公のイドは膨れ上がり、その身の奥底にある器に注がれ続ける。

やがて器は完全に満たされ、大公の器をジワリジワリと広げだした。


大公の本質は闘争であり、闘争は大公にイドをもたらす。

困難な闘争であるほどに、その身にさらなる力を与える。


「天上の神々よ。全ての地に祝福を与えたもう神々の母たる女神よ」

淫魔の口から祈りの言葉が紡がれると共に雰囲気が妖艶な美貌へと変わりだした。


「これほど、これほどの力を女神に与えられたというのか?」

今もなお大きくなっている大公のイド。

それは、闘うべき淫魔に大公が及ばない為に起きている。


しかし、これほどの力に贖うには。

「100年や200年では遠く及ばぬか。神々の力、これほどか」

ついには地に片膝がついた。

淫魔の祈る神々の名。

大公の眼前に地面が迫る。

その名の中に辺境の獣の名はない。


大公はこのまま屈辱的に地を舐めさせられる事になるのか。


カモメの鳴く声。

風に揺られる木々の葉。

通りを行き交う荷車の車輪。


大公は遂に大地に伏し天を仰いだ。

それを見下ろすは妖艶な淫魔。


しかし、大公の予想に反してその顔に土が付いては居なかった。

大公は淫魔に膝枕をされていた。

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