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時間が取れるのは朝しかないと言われ、早く来た。テリーと一緒にウォーミングアップをする。風が涼しい。晶の首筋を思い出した。
一年ぶりにグラブとスパイクの入った鞄を持ちだした。復帰するつもりはないくせに手入れだけは欠かさなかった。クラブハウスの前には、既に野球部が集まっていた。野球部にしては少ない。何人か欠けたらまともに試合もできそうにない。三年生が引退して、新キャプテンになったという二年生が話しかけてきた。姿勢を正して挨拶をした。
「事情は照井や一年から聞いたよ。でも、俺らも本気でいく」
「はい」
「お願いします」と二人で一礼した。
マウンドのプレートから踏み出す足の着地点に印をつける。投球練習はワインドアップでゆっくりさせてもらう。いつの間にか、周りはざわつき、それから静かになっていた。
「いいですよ。始めましょう」
もう気まずいとか後ろめたいとかそんなことは言ってられない。乗った以上、やるしかない。そしてやるからには抑える。
そうと決めてここに立った。
内容は良かった。この打者で一巡する。今日はスリーアウトでも交代はない。短い休憩を挟んで挑み続けるだけだ。
フェンスの向こうにはギャラリーができていた。晶の姿もある。
(いいとこ見せないとな)
誰でもいいから、彼女を引っ張り出してくれ。テリーは三振を取るより打たせるようにしているけど、それでも球数が気がかりになってくる。最後の打者は外角低めの球でセカンドゴロに打ち取れた。
「まだ打ってない奴いるかー」
さっきの二年が守備についている部員に声をかける。みんな一度は打席に立ったことは知った上でのことだ。
「誰か……! 誰かこいつを打てる奴は……!」
(先輩、芝居がオーバーです)
「この際誰でもいい! 君、打ちたそうにしてるから来て!」
ギャラリーの最前列にいた晶の腕を取って、バッターボックスまで連れてきた。無理やりすぎるけど、もう何でもいい。
「えっ、あの、ちょっと! あたしは!」
俺やテリーが相手じゃないので、強く抵抗できないらしい。あっけないと言えばあっけなかった。
晶はよくわからないうちにバットを持たされ、打席に立たされてしまった。テリーはど真ん中の直球を要求してくる。思わず首を振った。
「大丈夫だって! どうせ手が出ねえよ!」
テリーはわざと舐めたことを叫んだ。晶のスタンスに少し力が入ったように見えた。
要求されたとおり、真ん中へ投げる。晶は途中でスイングをやめてしまった。
ファール。
(なんだよ。絶好球だろうが)
釈然としない。
晶はその後もカットし続けた。何球も何球も。途中から、気のない構えから例の構えに戻ったけど、カットは続く。
今何球目だ。なんだこれ。俺が望んだものって、こんなものだったのか。
球数が気になっていることもあってイライラしてきた。
「やる気あんのかコラァ!」
俺が切れる方が早かった。
「それはこっちの台詞だ!」
晶が詰め寄ってくる。今日も髪をアップにしている。あごの先に汗がたまっていた。
「なに手加減してんのよ! 本気で来い! あたしが打ちたいのはあんなのじゃない!」
図星だった。
「メットくらい被れ! ぶつけたらどうするんだ! 女だからって手ェ抜いてるわけじゃねえぞ!」
しばらくにらみ合って、晶は編み込みを解いて髪をおろした。一部分、編んでいた髪にゆるくウェーブの癖がついている。
ヘルメットをかぶった晶が打席に入り直す。やっと勝負ができる。テリーが上体を起こして大きく構える。
あのときホームランにされたインハイへ、一番いい球を――
「う、うわああああああ伊織いいいいい!」
テリーが涙声で雄たけびを上げながら飛びついてくる。プロテクターがぶつかって痛い。
「お、お前なあ、優勝したんじゃねえんだから」
「だって、だって俺ええええ」
「泣くなよ」
俺もちょっと鼻がつんとした。空振りした晶は、バットとメットを置いてその場で立ちつくしていた。今までの普通の振りが台無しになったことなんかを考えているかもしれない。単純に、俺に負けたことを悔しがっているのかもしれない。
「君すごいな、才能あるよ」
誰かが掛けた言葉に晶が悲鳴を上げた。
「それが何だって言うの!」
自制心が弱っていたのかもしれない。俺につかみかかって訴えてきた。
「ねえ伊織、何考えてるの! あたし、こんなんだから好きになった人に嫌われた!」
くだらないとは言えなかった。晶が俺の三年を知らないように、俺も晶の三年を知らない。
「お前、それで辞めたなんて――」
晶は半分笑いながら泣いていた。普通の振りが台無しになったことへの悔いか。でも憑き物が落ちたようだ。混乱しているのかもしれない。
「女捨ててるって言われて、平気でいられるわけないよ! 才能だか何だか知らないけど、あたしの邪魔をするならそんなの要らない!」
俺も晶の肩をつかむ。
「ゴチャゴチャぬかしてんじゃねえ! そんなことでお前の価値を捨てるな!」
「価値なんてどうでもいい! 選ばれなきゃ意味ないの! 好かれないと、受け入れられないと――」
「その為の『最大公約数』な振る舞いか? クソつまんねえ奴の為に、クソつまんねえ奴に成り下がるな!」
何か言おうとして言えないらしく、晶は俺の肩に頭を預けた。意地と体面を放り出して泣く晶は、正直言って可愛かった。
「俺はお前を相手にできてよかったよ」
思ったより細い肩が俺の腕の中にあった。ギャラリーの存在は完全に頭から抜け落ちていた。
「何度も辞めようとしたけど、本当に投げられなくなると考えたら怖かった。そのへんは一緒なんだろうよ。俺も、お前も」
視界の端に野次馬が映ったような気がしたけど気のせいだろう。
「所詮俺たちが普通であろうとしたって、無理な話なんだ。お前だって、よくできた擬態でしかなかっただろうが。どこの普通の女子高生がバッセン通いの為にバイトするんだよ。諦めろよ。お前十分打撃バカだよ」
「そのままでいてくれ」と言うと、晶が顔を上げた。
濡れたまつ毛が束になっている。目のふちが赤い。
「打ちたきゃいつでも投げてやる。どこまで行けるかわからないけど、行けるとこまで行く。お前が好きだ。だからついてきてくれ」
「え」
その瞬間、テリーと、クラスが同じ野球部員が俺を囲んだ。はしゃぎながら俺の頭や背中を叩く。
「痛い、痛いって!」
「さあ、晶ちゃん! 返事! 返事!」
「お前ッ! せっかく人がいい感じに元気づけようとしてるところを!」
「そんな悠長なことやってちゃダメダメ! 晶ちゃん! 返事! ナウ!」
「えっ? ああ、う、うん……」
晶は顔を真っ赤にするとうなずき、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。いい返事をもらって、俺はもっと有頂天でいいはずだ。でも、有頂天になりきれないのはテリーのせいだ。いや、こいつのおかげなんだけど、こいつのせいだ。テリーは満面の笑みで小突いてくる。
「で? 二人は幸せなキスをするんですよね?」
「しません」
「キース! キース!」
手拍子を入れるな。
「キース! キース!」
乗ってきたのはたまにテリーとつるんでる部員だ。お前も乗ってんじゃねえ。
「しねえって! 見世物じゃねえぞ!」
晶は「うわあああああ」とふにゃふにゃした声を上げて走って逃げてしまった。もっと甘い余韻みたいなのがあってもいいと思うんだけどな。テリーと、一緒に茶化してきた部員の頭をはたいて黙らせる。主将に頭を下げた。
「今更かもしれないけど、入部させてください」
やっぱり勝負がしたかった。勝ちたいと思ったら、やっとくすぶったものに火がついた。
「勝てる! 勝てるんだ!」
そんな声が聞こえる。歓迎はしてくれるらしい。
「何? 『勝てるんだ』って」
テリーに聞く。
「あれ、言ってなかったっけ。この夏で三年生引退して、ピッチャー一人だけになるから大変だって」
それでこの喜びようか。
「で、その引退した先輩、エースだったって」
「ほう。で、俺を引きいれようと?」
「まあね! 俺も一緒に入るし? 頑張って二人でレギュラー取ろうね!」
(取るよ。取るけどさ……)
「お前、俺をはめたな」
「なんのことだかねー」
テリーは笑いながら俺を引っ張る。
「さあフレンズ達! 走ろう! クールダウンをして教室に戻ろう! で、放課後は野球をしよう! 野球っていうか、ベースボールをしよう!」
俺は俺で、さっきの言動を思い出して
「うわああああああぁぁぁぁぁぁ」
と、情けない声を上げながら走った。
その日の夜、親子三人で夕食を取るけど言葉は少なかった。でも言っておかないと。
「あの、父さん、母さん」
テーブルの向いの両親が顔を上げる。
「俺、野球部入る。心配かけてごめん。もう少し続けさせてほしい」
それだけ言った。言ったら涙が出てきた。本当は春に言いたかったんだろう。
父は眼鏡を取って目頭を押さえている。母は水をくんで、俺の手元に置いて背中をさすった。
こんなのは恥ずかしい。親の前で泣くなんて勘弁してほしい。でも、今日だけだ。
翌日。いつもどおりテリーとウォーミングアップをしてキャッチボールをしていた。
「晶ちゃん、今日は見ないね」
確かに、フェンスの向こうに彼女の姿はなかった。前まで、この時間なら俺たちをあそこで眺めていた。
「まあ、昨日あんなことがあったんだし。気まずいんじゃないか」
「それは伊織の方じゃーん」
そのまま話しながら、ボールは往復を続ける。
クラブハウスから、バットを携えたショートカットの女子が歩いてきた。背の高さと体つきは見慣れていた。
「あ、晶、その髪――」
「切った」
晶は照れくさそうに笑う。首をかしげると髪が頬で揺れた。はっきりした目鼻立ちに合っている。すごくいいと思った。
「変?」
「変じゃないけど――に、似合ってる。似合ってるんじゃない?」
「いいよいいよー。晶ちゃーん! すごくいいよー!」
お前はエロカメラマンか。
「お前、お前――」
自分でも何を言いたいのかわからない。
「無理して話さなくても」と彼女は唇をとがらせる。「先は長いんだからさ」
そんなこと言われたって、俺は空白を埋めたいのだ。話したいことがいっぱいあったはずなのに、俺の意識は晶のいる「今ここ」に捕まってしまう。埋めるったって、何をどうすればいいかわからない。
晶はしばらく俺の言葉を待っていたけど、いい加減じれてしまったようで
「そんなことより野球しようぜ!」
と、俺の胸を叩いてバッターボックスへ走って行った。