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次の日の朝も、伊織と照井君はキャッチボールをしていた。転校初日に見かけたよりも、照井君が捕球したときの音が良い。伊織は調子を上げているらしい。照井君も捕球が上手い。伊織が良い球を投げたときは、良い音がする。
(いいな)
彼はそれで、伊織が調子に乗るのをよく理解してるんだろう。
(打ちたいな)
スピードはともかく、生きた球は良い。
(伊織、本気では投げないのかな。見たいな)
「ハロー! 晶ちゃあああん! やっぱり君も野球に興味があるんだねえええええ!」
でかい奴がでかい声でフェンスの向こうから駆け寄ってくる。伊織は棒立ちで照井君の暴走を見送っている。止めてほしい。眺めるだけなんだから、そっとしておいてほしい。
あたしは逃げた。逃げる必要なんてないけど、巻き込まれたらたまったもんじゃない。
(せっかく上手くやってるんだ。ボロは出せない)
伊織があたしのことを覚えていてくれたのは嬉しかったけど、それとこれとは別だ。二度と人前で打席に立たないって決めた。懐かしさに負けたら、あたしの積み上げてきたものは無駄になる。
教室に行ったら黒板に、鞄を置いて体育館に集合、と書いてあった。持ち物検査でもするんだろう。抜き打ちになってないけど、いいんだろうか。あたしは非行とは無縁だ。別にいい。タバコもドラッグもコンドームも持ってない。ポーチに入ってるのは色付きのリップクリームに日焼け止め、あぶらとり紙とかソックタッチとかそんなの。勉強に関係ないにしても、大体身だしなみ関係。あ、でもやっぱり、同性の教師でも生理用品見られるのは嫌だな。とにかく、見られて困るものは何一つ持ってない。
体育館での朝礼の後、生活指導の教師にこっそり呼び止められた。
「放課後、ちょっと来なさい」
「えっ……えっ?」
「自分でわかってるでしょう?」
反論は逆効果だと判断した。第一、どの持ち物に問題アリと思われたのか見当がつかない。視点が定まらない。ふらふらした視線の先に、伊織と照井君がいた。目が合ったような気がする。不思議そうな顔をされたような気がする。
たすけて、とは言えなかった。
放課後の生活指導室で、長机を挟んで教師と対面して座る。目の前の机にはライターが出されていた。何の問題があるのか、全然わからなかった。教師は妙に親身なふりをして、ニコチンの害がどうとか隠してもだめとか言っている。
(あれ、もしかしてあたし、煙草吸ってると思われてる?)
的外れもいいとこだ。そんな男受けの悪いものに手を出すわけがない。何をどこから説明したらいいかわからなくて黙っていた。
「黙っていても、何も変わりませんよ」
黙秘してるんじゃなくて、どう言ったらいいか考えてるだけだ。うんざりしていると乱暴にドアがノックされた。
「お、晶やっぱりここにいたのか」
返事を待たずに、通学鞄を持った伊織が入ってきた。
「ちょっと、今話してるのが見てわからないの」
あと少しで落ちるところだったのに、とでも言いたそうな口ぶりだ。
「ああ、そのライターのことですか」
伊織が机の上を指さす。
「やだなあ。それなら俺のですよ」
「それは聞き捨てならな――」
「マメ潰すのに使うんすよ」
「は?」
伊織は鞄を探って、安全ピンを出した。
「こう、水ぶくれになってるところを、あぶった針で刺すんです。皮が破れて赤身が出る前に潰した方が痛くないんで」
「そんなことは聞いてないです」
「いや、だから。この前、こいつをバッティングセンターに連れてったんですよ。そしたらはしゃぎすぎちゃって、マメ作ったからそれ貸して潰させたんです」
再び、伊織はライターを指す。
「あの、返してくれます? 普通の百円ライターですけど、一応探してたんで。あと、疑うなら晶の手を見てください。持ってない煙草は探しても出てこないけど、晶の手が証拠ですから」
いらいらした様子で一気に告げて、教師が何も言わないのを確認すると、
「ほら、晶行くぞ」
ライターをポケットに入れ、あたしの手を取って部屋を出た。訳がわからないままに助かったらしかった。
「ねえ、もう離して」
階段まで来て、やっと声を出せた。
「ああ、悪い」
「なんであんなことしたの」
(違う。そうじゃなくてお礼――)
「なんでって、お前何も悪いことしてねえだろ」
手を振りほどいて向き直った。
「助けてくれなんて言ってない」
「じゃあお前、あのまま指導室でだんまり決め込むつもりだったのかよ」
「それは――」
「そもそも朝の時点で説明してれば呼び出されることもなかったろうが」
人目のあるところで、それはしたくなかった。
「好き勝手言わないで!」
踵を返そうとしたところで、床がなくなった。
「あぶない!」
片足が完全に階段を踏み外していた。手すりをつかめていない。転落せずに済んだのは、伊織が抱きとめてくれたようだ。
「あ、ありがと」
今度は自然に口にしていた。片手で手すりをつかんで、片腕をあたしの体に回している。その手が胸をつかんでいた。気付いた途端、顔が熱くなった。
「あ、あの、離して」
「大丈夫かよ」
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
階段に尻をつける。体の力が抜けた。首を回して見ると彼は不思議そうな顔をしていた。
「さ、触ってるから」
「は?」
初めて認識したらしい。伊織は「すまん!」と大声で謝りながら飛び退き「う、うわあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と、なんだかよくわからない声を上げて走っていってしまった。
呆気にとられながら階段にへたりこんでいると、照井君が話しかけてきた。見られていたらしい。
「あーあ。忙しい奴ですな」
「き、気まずい……」
今の現場を押さえられたことも、伊織のことも。
「怒らないんだ」
「伊織のことは悪く思ってないから」
「その割にはえらく噛みついてたね」
何か言い返すと、そこからこじ開けてきそうだ。無言で睨んだ。
「口は割ってくれないわけね。情報は与えない。糸口は掴ませない。うん。頭いいね」
彼はあたしの手を取って立たせる。何も言わず、目に力を込め続けた。
「――下手くそ」
「え?」
非難してる風じゃない。馬鹿にしてる。
「何がよ」
「君はうまくやってるつもりだろうけど、作ってるのわかるよ」
怒りとも焦りともつかない感情が全身を一瞬で満たす。かっとなったはずなのに、妙に寒かった。
「ああ、晶ちゃんはそこが逆鱗か」
納得か、確信か。何だ。あたしの何を観察してる。
「普通の女の子はね、こういうとき怯えるか気持ち悪がる。そうでなきゃもっとわかりやすく怒る。こういうつつき方をされて、そんな静かで激しい怒り方をするのは普通じゃない」
「普通になろうとして、何が悪いっていうの」
「悪いことなんてないよぉ。晶ちゃん、ぜーんぜん悪くない」
照井君は笑って顔の前で手を振った。そして、首を振るといきなり真顔になって
「たださ、それってクソつまんねえだろ」
低い声ですごまれた。その程度であたしはひるまない。ああ、そこが普通じゃないって言うのか。あたしもまだまだってことか。
「そっとしておいて。あたしはこれで男子とも女子とも、うまくやってる。少なくとも今までよりは、ずっと楽なの」
激昂しそうになるのを抑えながら、それだけやっと言えた。
「そうか」
「そうよ。だから――」
「俺はね、晶ちゃん」
遮られた。
「俺は、自分でも捕手としては結構いい線いってると思ってる。その俺が、伊織は最高だって信じてる。伊織の球を受けるときが一番気分がいい。俺のリードで、伊織の一番いい球で三振取ったときなんか最高にしびれる。あいつは去年の故障から、やっと立ち直ろうとしてるんだ」
(故障?)
「偶然だけどね、この前の休みに伊織は打ってる君を見てる」
だから、さっきあんなことを言ったのか。見たままを喋っただけなのか。
「この一年、伊織は半分死んだみたいだったけど――今、立ち直ろうとしてる。いや、それ以上に進化しようとしてる。俺はまだ、あいつと組んでいたいし、最高のその上を見てみたい」
「ねえ、故障って――」
「だからさ」
いちいち途中で言葉をかぶせてくる。わざとやってるらしい。黙って聞けということか。
「かわいそうだけど、君を引きずり出すよ」
立場が危うくなりそうなのに、「やめて」だなんて言おうとも思わなかった。
(やれるもんならやってみなさいよ)
奥歯を噛んで聞きながら、心の中で挑発していた。
「……うん。言うことは言った。帰ろ。じゃあね~」
照井君はあたしの横をすり抜けて、階段を降りていった。