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その夜、珍しくテリーから電話があった。
「イオリン、やっぱ俺って天才! すげえ! ジーニアスっていうかマーベラス!!」
「なんだよ。わざわざ電話してくるってことは余程アレなんだろうな」
「そりゃもうアレですよ!」
「だから何よ」
「俺、思い出しちゃったもんね! 晶ちゃん、小学生のとき対戦してた!」
アキラなんて名前の奴はどこにでもいる。明に晃に彰に亮。
「あれは女子だろ」
「だから、あのアキラが晶ちゃんなんだって!」
「だからどのアキラよ」
「練習試合のとき審判に怒られたじゃん!」
練習試合、代打で出てきた打つ気満々だった奴を思い出す。当時の俺より背が高かった。
「正直思い出したくないわ……」
「一番いい球をホームランにされちゃったもんね」
テリーの頭の中では、悔しいはずの失点シーンが再生されているはずなのに楽しそうだった。
「うるせえ」
――逃げんな! ちゃんと勝負しろ!
「あのときはさ、外に続けて外れちゃったからアキラ怒ってんの」
「あー、思い出してきたかも」
「で、俺がちょっとのけぞらそうと思ってインハイに構えたらもってかれたの」
「あー……あいつ、女だったんか……きれいな顔してるとは思ってたけどさ……」
「まあ、髪も短かったしね。日にも焼けてたし」
「あいつすぐ引っ越したよな」
「そこからはもう、伊織の記憶と一致するはず」
悔しかった当時の俺とテリーは、忘れないために名前を聞いておこうと思って話しかけた。話してみたら案外気が合ってしまった。
――なんでそんな打てるのに補欠なの?
――守備がアレだからね!
――胸を張って言うことか。
――大丈夫。練習する。
――じゃあ、次は上手くなってこいよ。
――それは無理かな。
――なんでよ。
――今度引っ越すんだ。県外。
――そっか。でも野球やめんなよ。勝てば上の大会でやれる。
――うん。
――またやろう。勝ち逃げは許さん。
「え、ちょっと待って。俺が中学の間追い続けてきたのは、男の背中じゃなくて女のケツだったの?」
「そう。いいケツ」
頭を抱えた。急に自分が軟派になったように錯覚した。
「お、俺、別にあいつのこと好きだったとかそんなんじゃねえぞ!」
「男だと思ってたしね」
「それも当り前のようにな」
「で、どうするよ。治ってるんでしょ、肘」
夏。故障からもう一年が経っていた。
「やるに決まってんだろ。再戦だ」
「それでこそ君だ!」
奴は歓声をあげると、そのまま電話を切ってしまった。
ああ、君はそういう奴だ。
翌朝、いつもより体を温めて肩を回してから、動きを確かめるようにキャッチボールをしていた。今現在は自分のことが嫌いじゃなかった。
まともに投げられるようになる保証がないとわかったときは、毎朝死にたくなった。受験勉強に必死こいて逃避した。
「そうそう。始めはゆっくりね!」
テリーからの返球こそ、力が入っている。お前こそ落ち着けって。
「ブランクの割に安定してるじゃーん。俺に隠れて走ってたな!」
合格発表の後、トレーニングだけは再開した。力が衰えて、本当に投げられなくなったら、今度こそ終わりだと思った。まともに野球をする生活に戻る気はなかった。進んだ高校にある野球部は弱かった。勝つことだけ考えて野球をしてきた俺には、適応できる自信がなかった。
「あれ、フォーム変えた?」
髪型変えた? くらいのノリだ。変わったのは体型。腰回りから下半身全体が大きくなったせいで、制服のズボンが身長のわりに太い。女子に言わせれば、スタイルが惜しいそうだ。
受験勉強に逃げ込んで、その次はトレーニングに逃げた。何から逃げていたのかわからない。
「わかるか」
「何年受けてると、思ってんの!」
肩や肘に負担のかからないフォームを模索した。横回転を使った方がいいとわかった。上体を大きくひねるため、軸足を鍛える必要があった。運動エネルギーを発生させるため、軸足は強く蹴らなければならなかった。
「晶にイライラしたのってさ」
テリーは黙って受ける。ゆったりとした返球。
「全国大会まで行けなかった引け目かもな」
「結局、あれから会えなかったからね」
地方大会の決勝戦。
試合は終盤。一点差で勝ち越していた。肘に違和感はあった。控え投手は、言っちゃ悪いが俺より一段劣る。
「俺、やっぱりあの試合勝ちたかったんだわ」
違和感がフォームに出ていたのかもしれない。監督に交代を薦められた。俺は頑なに拒否した。それから何球目かの投球途中、腕を振ろうと上半身を倒した瞬間激痛が襲った。
「しょうがないよ」
「そうは言うがな」
試合は逆転負け。上の大会に行けば、アキラと対戦できていたかもしれなかった。いや、あいつのことだ。きっと勝ち上がっていた。会いにいけなかったのは俺の方だった。俺が約束を反故にした。
「でも、やれるんだな」
「伊織が追ってきた女の子だもんね」
「誤解を招くからやめれ」
「ほら、晶ちゃん来たよ」
テリーはボールを持ったまま、フェンスの向こうを指差す。晶と目が合った。
「ハロー!」
またそれか。晶は呆れたように頭を振って、こっちに歩いてきた。
「よ、よう」
この晶が、ずっと追いかけてきたアキラか。
「えっと。来てみたのはいいけど、あたしどうすればいいの?」
「さあ?」
「晶ちゃん! 君も野球に興味があるんだろう!」
「なに? いつもキャッチボールしてるの?」
「あ、ああ、うん」
うまく言えなかった。何を言いたかったのかもどっかの球場のスタンドに飛んで行った。
「お前、なんで言ってくれなかったんだよ。どの大会にもいねえしよ。地方大会の決勝まで行ってしまいましたよ、俺は」
「俺たちは!」
すかさずテリーの抗議が入った。
「ああ、すまん。俺たちは」
晶はすこし考えて、目を大きく開いた。
「あ、あのときの! 伊織と照井君?」
「そうあのときの! 君の内側をいやらしく攻めようとした俺!」
「ねえ伊織。セクハラされた気がするんだけど」
晶の目が助けを求める。このリアクションは女子だ。なんで当時、こいつを何の疑いもなく男だと認識したのかわからない。
「ごめんね。なんか身長追い抜かれちゃってるし、わかんなかった」
(俺だってテリーに言われるまでわかりませんでしたよ)
「思い出してくれたならいいんだ」
「うん。思い出した」
どう切り出したものか。俺はこいつと戦いたいだけなんだけどな。
「ま、いろいろあったけどさ! それはさておき野球しようぜ!」
いつもテリーにかけられていた言葉が出ていた。俺はそんなこと言わない。もっとクールに持ちかける。でも言っちゃった。
「しないよ」
「えっ」
晶は目を伏せて首を振った。長い髪が揺れる。
「ごめんね。辞めたの」
なんだそれは。
「ほんとごめん。あたし行くから」
晶は例の流した走り方で行ってしまった。妙に速いのがカンに障る。
それよりも。
「なんだよ」
「あの、伊織――」
「なんだあれ。ほんとにあのアキラか」
俺が昨日、バッティングセンターで会ったあの女は、間違いなく晶だった。その晶が、あの口で野球を辞めたと言った。そんなはずがない。そんな奴に、あの打撃はできない。
「残念だけど、確かに彼女がアキラだよ」
「なんだよ。ふざけんなよ――」
「ほら伊織、教室行くならクールダウンしないと」
「お、おう」
釈然としない。苛立ちは一層ひどくなった。