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中学の同級生にはあまり会いたくない。会いたくなかったが、電車を一本ずらしたばかりにこうなった。
「おー、伊織ひさしぶりじゃーん」
「お、おう」
「その制服はあそこか。野球しかしてなかったのによく受かったな」
やっぱりその話か。特待生を辞退してから、死ぬ気で勉強したんだよ。
「仕方ないだろ。投げられないんだから。普通の学校受けるしかなかったんだよ」
「あ……悪い」
電車がホームに滑り込む。そいつは気まずさに負けたらしい。
「ま、あれだ! がんばれよ!」
ちゃっ、と手を上げると、逃げ込むように車両に乗っていった。
(何をだよ)
人の少なくなったホームで舌打ちをする。肘は治ったと言われている。でも、全力では投げられない。一試合投げ抜くこともできない。
(何をがんばれって言うんだよ)
学校に着いた。朝のHRまで時間がある。
校門を過ぎたところで、ごつい手が肩を掴んだ。
「やあイオリン! 今日は一際浮かない顔じゃないか!」
「まあ、例のあれよ」
「あ」
俺の進路の話題を「あれ」で察してくれる。さすがテリー。照井が訛ってテリー。伊達に小学生からバッテリー組んでない。
「まあいじけてないで元気出してよ。野球やろうぜ!」
こいつは軽いキャッチボールや遊び程度のノックでも、野球と言う。俺に「野球」から離れたと思わせたくないんだろう。でも、選手として戻ってこいと言うことは一度もなかった。
グランドの隅っこで、無言でキャッチボールをする。この時間は嫌いじゃなかったし、テリーもどこかほっとしているようだった。
フェンスの向こうから視線を感じた。球がすっぽ抜ける。暴投。
「――あ、悪い」
小走りでボールを拾いに行くテリーをすり抜けて、俺の目は一人の女子をとらえた。気のせいじゃない。ずっとこっちを見ている。
「ハロー!」
女子の肩が跳ねる。まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい。朝なのにハローだし。
「君も、野球に興味があるのかい?」
よく通るいい声だ。彼女は動けないでいる。俺でも驚いた。彼女もびびっているに違いない。
時計を見ると、もういい時間だった。
「テリー、彼女引いてるから。行くぞ」
「ちぇー」
靴を履き替え、教室に向かう。
「お前何やってんのよ。俺はびっくりしましたよ」
「なんでよ。いいじゃん。みんなで野球やればいいじゃん」
「そりゃそうだけど、ちょっと見境なさすぎるよ」
「……」
「どしたんよ」
「あの子」
「ああ、あの子」
「どっかで見たことない?」
「知らん」
女子なんて同級生くらいしか接したことない。
「俺のアーカイブに引っかかるってことは、絶対どこかで会ってる!」
「あー、もー。どっかのチームの応援にでも来てたんじゃないのか」
そうかなぁ、とテリーは不服そうに頭を掻いた。
転校生が来た。今朝の女子だった。
「――晶です。よろしくお願いします」
やっぱり思い当たるフシがない。彼女が頭を下げると、肩下の髪が素直に流れる。切れ長の目が伏せられるとマネキンみたいだった。
(こんな子、見たら絶対覚えてるって)
息を止めて彼女を見ている間、名字を聞き逃したことに気付いた。
「はい先生! 俺の隣に謎の机が出てるってことはアレでしょ! 彼女、ここに来なさいってことでしょ! ウェルカム!」
「そ、そうね。照井君。あー、まあ、仲良くしてあげてね」
先生、あまり仲良くさせたくなさそうに見えます。
半月経つ頃には、晶は馴染んでいた。女子の群れ社会に素早く順応している。それが俺には不自然に見えた。
「おもしろくねえ」
自分自身、淡々と体育の授業をこなしながらぼやいた。
「なんで? 女子の体操服がブルマじゃないから?」
「いや、あいつ」
女子の集団に目をやる。少し背の高い晶が目立つ。
「ああ、晶ちゃん。いい子だよ」
「おもしろくねえ」
何がおもしろくないのか、自分でもよくわからなかった。
「あいつ、たまに目が笑ってなくないか。妙に冷めてるっつうか」
「気のせいじゃない?」
テリーが首をひねる。
「ま、伊織がそう思うのも無理ないかもね」
「あ? さっきまであいつの肩持ってたのに?」
「晶ちゃん、手抜きしてる」
「手抜き?」
「あの体見てよ」
「女子にしちゃ背は高いけど、でも普通だろ。あんなの珍しくない」
晶くらいの体格の女子なら、中学にもいた。
「あれ、筋肉だよ。皮下脂肪があるからだまされるけど、相当絞ってる。胃のあたりがプニっとしてないでしょ」
「どうなってんだよ。お前の目は」
「それにあのケツと大腿筋。もっと瞬発力が出るはずなのに、ずっと軽く流しっぱなしだね」
「お前、そこまで見てたんか」
「本気出してないわけだから、伊織が気に入らないって思うのも無理ないかもね」
テリーの観察眼に戦慄しているうちに授業が終わった。
「で、あのケツはお前の記憶にはございましたか」
「ございませんね」
「でもあの顔は見覚えあるんだろ」
「ありますね」
晶が視界に入ると、なぜかイライラした。何か後ろめたい気分になった。俺は晶に何もしてない。
「でもいいよね。ああいう生意気なボディーライン。俺はああいう美人のいいケツを思い切りスパーンってひっぱたくのが夢なんだ。そして涙目で怒られたい」
唐突に夢を打ち明けられて「具体的過ぎて引くわ」と返すのが精一杯だった。
休日、自転車でCDを借りに行った帰りに気まぐれでバッティングセンターの前を通った。肘を故障してからあまり通りたくなかったけど、そういう気になった。硬球を真芯でとらえるいい音がしていた。音の間隔からして、一人が打っているらしい。
別に興味があるわけじゃない。自販機を使いたいだけだと、自分に言い訳しながら自転車を止めた。なんとなく気配を殺してケージに近づいた。硬球で、一番速球が打てるところだった。
打者は右打ち。こちらに背を向けている。リラックスした大きな構えに見覚えがあった。化け物じみたスイングの速さにも、見覚えがあった。馬鹿の一つ覚えみたいにフルスイングしかしないところにも、覚えがあった。
「すごいだろ、アキラちゃん」
店主らしいおじさんに声をかけられた。
「アキラ?」
「おじさんね、何度もスカウトしてるの。草野球のチーム。でも、いっつも振られちゃうんだよねえ」
「よく来るんですか?」
「うん。君みたいな歳の近い子がいれば、あの子も楽しいと思うんだけどねえ。どう? 君も」
「俺も遠慮しときます。実は去年故障しちゃって」
「ああ、それはつらいねえ」
一ゲーム終わったらしく、アキラがバットを置く。ヘルメットを脱ぐと、納められていた髪が重たく背中に落ちた。女だった。
彼女はトイレに行き、すぐベンチに戻ってきた。手を洗ったらしい。鞄をさぐって小さな裁縫セットとライターを出した。
(ああ、豆ができたのか)
うつむいていて顔が見えない。彼女に興味が湧いたけど、それを悟られるのは嫌だった。でも、誘惑に負けたので彼女がもう1ゲーム打つのを眺めていた。
(すげえなこいつ)
投げたい、と思ってしまう。なんて女だ、と口走りそうになるのを飲みこむ。
おじさんにはなんとなくお礼を言って帰った。