三十五年と三日、どっちが重い?
翌朝、木更津の海を見に行く為に早起きをした。バックに地図を押し込み、ミワの寝顔を見つめているとキスをしたい衝動に駆られた。ここでキスをしたらミワを起こしてしまうかもしれないと思いつつ、欲望には勝てなかった。
ミワを起こさない様に、細心の注意を払いながらのキスをしてから、そっと部屋を出た。
外に出たところで早くも地図が必要になった。昨夜ミワに確認したアパートの位置が違っている様だ。電柱や住宅の塀に取り付けられた住居表示を確認し、アパートの位置を修正した。妻も地図が読めない女だったが、女性の脳と地図は相性が悪いのだろうか?
地図を確認して、海の方向へと歩き始めた。アパートの周辺は閑静な住宅街になっている。周囲を見回しても、近くに海が有る様には思えない。
しかし、住宅街を吹き抜ける風には、潮の香りが混ざっている。その香りが、間違いなく近くに海が有ることを示していた。
海までは木更津駅を通った方が近いようだが、少し遠回りの道を選んだ。
しばらく歩くと、川に突き当たった。川は右から左に向かって流れている様だ。けれど、山や平野を流れる川とは違って、海辺の川は、流れる方向で上流下流の判断をすることは危険だ。潮の満ち引きに依って下流から上流へと流れる場合もある。
地図を確認すると、左が上流で海は右側に有る筈だ。私は右に向かって川沿いの道を進む事にした。
海辺の町らしくない住宅街をぶらぶらと歩いていると、川沿いにスナックCPを発見した。一昨日の晩に私を招き入れた看板も、今は輝きを止めてひっそりと佇んでいる。
遠回りの経路を選択した理由は、スナックCPの位置を確かめておきたかったからでも有る。
ミワと暮らすならば、CPの位置を知っておく事は必要となる筈だ。
スナックCPを後にして歩き続けると、やがて海産物の店や市場の建物が見えてきた。
通りすがりのコンビニでパンと飲み物を買って港の方へと向かった。
「ここが木更津港か」
声に出して言ってみた。コンビニでは、何も言葉を交わさないまま買い物をしたので、今日初めての発声だ。
もしかしたら、独り暮らしの休日は、一日中声を出すことが無いまま終わってしまうことも有るのでは無いだろうか?
私は独り暮らしをしたことが無い。
独身時代は実家で家族と暮らしていた。結婚と同時に妻とのマンション暮らしを始めたのだ。
そのため、家には常に家族が居て、誰かしらが話し掛けて来る。返事をしない訳にはいかないから、必ず声を出す事になる。それは自然なことで疑問に思ったことも無かった。
港の前の島には公園が有るようだ。中の島公園と言うらしい。案内看板によると、大きな歩道橋を渡って行く様に出来ているようだが、橋は歩いて渡るにはあまりにも大き過ぎるので断念した。
私は手前の駐車場の海側に座り込み、海を眺めながらコンビニで購入したパンと飲み物で朝食をとった。二月の風は冷たかったが、海面に反射する日差しは眩しかった。
キラキラと輝くミワの瞳を連想していた。巨大なミワの瞳に見つめられている様で、私の心は何か温かいものに包まれている様な感覚だった。
おかげで二月の冷たい風も苦にならない。感情とは温度の感覚さえも変えてしまう物なのだ。
近くには数人の釣り人が海面に糸を垂らしている。二月の木更津港で何が釣れるのだろうか? 私には釣りの知識がほとんど無いので、まるで想像も出来なかった。
そんな釣り人とコミュニケーションをとるには、釣り人に近付き「釣れますか?」とか「何が釣れるんですか?」と声を掛ければ良いのだろう。しかし今は、他人とコミュニケーションをとる様な気分では無かった。
私はまるで公園の片隅に置かれたモニュメントの様な状態で、昼時までの時を過ごした。考えなければならない事は山ほどあるが、私の思考は身体同様にモニュメント化したままだった。
「そろそろ帰らないとミワが起きる時間になるな」
声に出して言ってから立ち上がった。
巨大な橋に背を向けて歩き出す。身体が動き出した途端に、思考も動き出した。
歩きながら昨夜のミワの様子を思い出していた。もうミワにあんな思いをさせてはいけない。いや、させない! 私の中に妙な決意が芽生えていた。
しかし、私の思考は現状の事だけを考えている訳にはいかなかった。
ずっとミワとの生活を続けるつもりなのか? 私は自殺をする為に家を出たのではないか! 自殺をやめるならば、妻の元に帰るのが筋だろう。
妻との間にトラブルが有った訳では無い。妻に対して不満が有る訳でもない。結婚生活を三十年以上も続けていたのだから、口喧嘩くらいはしたことが有る。
しかし、離婚を考える様なトラブルは一度もない。それどころか、三十年以上経つのに今でも妻を愛しているし、妻も私のことを愛してくれているはずだ。それなのに、なぜ妻の元に帰ろうとしないのか?
自殺で死体の身元が判明した場合、夫死亡と言うことで、遺産だとか生命保険だとかも手に出来る。再婚だって出来る訳だ。
しかし、私は身分を証明する物は、携帯電話意外の全てを自宅に置いて来てしまった。いざ実行の際には、携帯電話も処分するつもりでいた。
だから、遺体が発見されてもそれが私である事が判明しづらい状況になる。
夫が失踪となると遺産も保険も停止されるのだろう。確か失踪者の死亡認定は七年位かかるのではなかったか?
七年後の妻は六十歳に成ってしまう。その間、妻は夫に逃げられた女として生きて行くのだろうか?
妻は今でも仕事を持っているから、経済的な問題は無いだろう。しかし、未亡人でも無く、バツイチでも無い中途半端な位置に置かれるのだ。そんな妻の精神的ダメージは計り知れない。
妻と過ごした時間は、結婚前の付き合いも含めれば三十五年にも成る。ミワと出会ってからは、まだ三日目だ。
時間の重みを考えれば、ミワの事よりも妻の方を心配するべきだろう。そんな事は解っている。解っているけれど、人間の思考は論理で計れるものでは無いらしい。




