余分な時間を生きている
私は携帯電話から友人達にメールを送信した後、携帯電話のバッテリーを外してバッグの底に押し込んだ。
白い優しさにつつまれて
赤い哀しみが凍りつく
停滞を受け入れることを避け
消え行く進化を求め
闇に溶けて行く
これが送信したメールの内容だった。気付く友人が何人いるかわからないけれど、これはまぎれもなく遺書なのである。
雪国で降り積もった雪につつまれて、ゆっくりと死んで行くつもりなのだ。
これが遺書だと気付いた友人が居たならば、きっと思うだろう。
『なぜ自殺をするのか? そんなに悩んでいる様には見えなかった』と……。
私が自殺するほどの悩みを抱えている事を感じ取っている友人はたぶん居ないだろう。
夫婦仲はすこぶる良好だ。さすがに手を繋いで歩く事はもう無いが、週末はふたりで一緒にスーパーマーケットに買い物にも行く。時には近場の観光スポットを訪れたりもしていた。
子供は娘が二人いるが、すでに二人とも嫁いでいる。長女は、月に一回くらいは孫を連れて遊びに来る。私も妻も孫を可愛がり過ぎて娘に叱られていた。次女にはまだ子供が居ないが、よく婿と一緒に遊びに来てくれる。私生活にはなんら悩みは存在しない。
思い当たる事が有るとすれば、一ヶ月前に突然会社を辞めた事だろう。
仕事は上手く行っていた。中途入社では有るが、この会社には中途入社の社員が多い。十年程前からは新卒者の入社が増えているが、それ以前から居る社員のほとんどが中途入社だった。だから、中途入社によるハンディキャップはない。社内での評価も良い方だった。
退社理由は、『一身上の都合』という意味の解らない便利な言葉を使用した。本当の理由は……。
それを語るには相当な時間と労力を必要とするわりに、ほとんどの人には理解されないだろうと思われる内容なので誰にも語ってはいない。実は、その理由こそが今回の自殺の理由なのだ。
他人には『その程度の理由で?』と言われるだろうが、少なくとも私には仕事を辞め、そして自殺する理由としては充分だった。
誰でも同じだろうと思うが、五十代半ばにもなると、死んで行く人を見送ったり、介護を必要とする人に出会ったりする機会が増えるものだ。
巷には様々な死が転がっている。交通事故や突然死、または殺人などの事件にからんだ死亡。しかし、そんなセンセーショナルな死にはなかなかお目にかかる機会は無い。
ほとんどの場合は病気による死だ。長期間にわたって入院し、いろいろなチューブやコードを身体に付けられ、次第に衰弱していく。食事もままならずに点滴だけで生命を維持している状況に陥る。意識も低下し、意思表示さえままならない状況に追い込まれて行く。
そんな状況で何を考え、何を望んで生きているのだろうか? だいたい、本人は生きる事を望んでいるのだろうか?
また、高齢になると認知症になる者も多くなってくる。自分が置かれている立場や状況が認識出来なくなる。今言った事、今考えた事さえも記憶できなくなるのだ。家族の顔すら認識出来なくなった場合、その者はどんな世界で生きて行くのだろうか?
周囲にいる全ての人が知らない人なのだ。たとえそれが何十年も連れ添った配偶者や息子・娘であったとしても、本人にとっては今日初めて会った人としか認識できない。そんな初対面の人にオムツを取り替えてもらわなければならないのだ。
きっと死ぬまでの間、ずっと孤独に生きて行かなければならないのだろう。
そのような人達を見る度に、あんな風には成りたく無いと思う。確かに元気で長生きをしている人も数多く居るだろう。しかし、自分が元気なままで長生き出来る確率がどのくらい有るのだろうか?
私は元々くじ運が悪い方だ。商店街の福引でさえ、当たりくじを引いた事は無い。そんな私が元気で長生きをするという『人生の当たりくじ』を引く確率は、限りなくゼロに近いだろう。
だいたい、ヒトは生物的寿命を大きく上回って生き過ぎているのではないのか? 本来、生物として生きる事を許された寿命はどのくらいなのだろうか?
以前読んだ本の中に書かれていたことが頭の中に浮かんできた。本のタイトルは『ゾウの時間 ネズミの時間』だったと思う。
動物はそのサイズによってそれぞれの時間を持っているそうだ。巨大なゾウは長生きで、百年近い寿命を持っている。しかし身体の小さいネズミは数年の寿命しか持っていない。だが、不思議な事に、ゾウもネズミも一生の間に脈打つ鼓動の数は同じだそうだ。哺乳類ならば一生に脈打つ鼓動は二十億回と決まっているらしい。
ゾウの時間よりもネズミの時間の方が早く進んでいるらしいのだ。その為、ゾウでもネズミでも一生を生き切った時間感覚は同じだそうだ。ゾウが長寿を喜びネズミが短命を嘆く事は無いらしい。
では、人間はどうなのだろう? この論理でいくと、ヒトの寿命はどのくらいになるのだろうか? 脈拍を一分間に八十回とすると、約四十七年半で二十億回に達する。この辺がヒトの寿命なのだろうか?
ヒトの寿命が四十七年半だとしても、人間は八十年以上も生き続けているではないか。人に依っては百歳を超える者までいる。本来の寿命から三十年以上も余分に生きることになる訳だ。三十年以上も生き過ぎていると考えれば、高齢者達が様々な病に苦しめられているのも納得できる。五十代の私でさえ、既に余分な時間を生きている事になるのだ。
それならばどうするべきか? 私の考えは一点に集束した。
『そうなる前に死を選択する』という事だ。
八年前に父を亡くし、三年前に母を亡くした。昨年母の三回忌も済ませた。ふたりの娘も嫁に行き、そろそろ良い頃合いではないだろうか?
そんなわけで、私は自殺旅行に出発したのだ。妻に知られていない銀行口座には百万くらいの金が貯まっていた。いわゆるヘソクリというやつだ。その預金を全額引き出してきた。
これだけ有れば、ホテルに泊まったりしても一ヶ月位ならもつだろう。人生最後の一ヶ月を楽しんでから死ぬつもりだった。