六話
白く沸き立つ藍色の液体。細かな気泡が弱い光源を乱反射し暗い色に不釣り合いな柔らかい乳白色の色を作り出している。
その色は僅かに白ばんだ藍色を湛える果てしない空を進み続ける人工物が創り出したものだった。
「あの方角は本当に西の方角なんですか?」
その男は目を何度も擦りながらその方向を凝視する。
そこは夜の闇が霞んで見えるほど、眩いばかりの光を放っていた。
「ああ...........まあまだ若い君には些か刺激が強すぎたかな?」男性にしては高く、女性にしては低い声が彼の疑問に答える。その声は男よりも気品があり、身分が高いことを窺わせる雰囲気を持っていた。
そして余裕ぶった、人を馬鹿にしたようなその声に彼は少し不機嫌な口調で返す。
「別にそんなことはありません。これでも副団長をやってるんです。これしきの事で怖気付いたりなど...........」
「おっと」だがその相手は唇に手を当て、小さく口を動かしながらこう言う。
「口は災いの元、安易にマイナスの発言をするのは良くないよ」
そう言うと右目を閉じて彼にウインクする。
すると男はなんだか微妙な表情をする。口角を引きつらせ、笑えばいいのか恐怖すればいいのか戸惑っているような感じだった。
「...........わかりました。以後気をつけます」彼は丁寧に頭を下げてそう言う。
実際彼は自分の顔をこれ以上見られたくないだけだったのかもしれないが。
「団長」すると木の板を叩く乾いた音と共に1人の男が階段を登ってくる。
「間も無く到着です。一応安全を確認しながら行きますが万が一を考え船内へ...........」
「コラ、万が一なんていうマイナス発言をしたらダメだろ。全くこれだから男って生き物は...........」
「は、はぁ」彼は上司に叱られ少し落ち込み気味に、しかし言ってることがよくわからなくて困惑気味に返事をする。
しかしその返事では気に入らないのか団員に詰め寄り顔を彼の鼻先まで近づける。
すると団員は顔を赤らめ思わず数歩後ろに下がってしまう。
「ダメだ、やり直しだ。マイナスの発言を使わずにプラスの言葉を使って」
息が髪にかかるほど近くで言葉を出す。
(ああ、こんなこと俺にもあったなーー)その光景を見つめる男は自分があれぐらいの団員の時に団長にからかわれた事を思い出す。
確かあれは地方に出現した魔物を駆除する時だった。
この時討伐隊になったのは自分とそして団長だった。二人だけで隊などという大それた名前をつけるのもどうかと思ったが当時の団長はそういう事に細かい人だったらしい。
ちなみにその時団長は副団長を務めていて当時から言葉には色んな力があると思っており口調や言葉はしっかりするように言われていた。
そして魔物の討伐の際、俺は団長にもしかしたら俺が足を引っ張ってしまってピンチになった時は副団長は逃げてください、そうなったら自分の責任なので、と言った。
まあ当時は血気盛んというかそういうのが普通だと思い込んでいた節があったようだ。
しかしそれを聞いた副団長の怒り方と言ったら、うまく形容できないが営巣中のドラゴンよりも怖い、とだけは言えた。
そして何故かポジティブな言い方で、自己犠牲無しで言え、と言われたのだ。
ちょうど今の状況と同じように。
「えーと、この後上陸を行うので団員を鼓舞する為に船内に入っていただけないでしょうか」
どうやら彼は答えを見つけて解答したらしい。団長はそれを聞くとニンマリと笑い、「初めからそう言えば良いんだよ」と言うと優雅な仕草で歩き船内へと消えていった。
「副団長」するとその団員が疲れたような顔で彼に話しかけてくる。
「団長って昔からああなんですか?」
「ああ、俺も最初の頃は君と同じようなことをやらされていたよ」そんな団員の様子に少々笑いをこぼしながら彼は返事をする。
「やっぱりそうですか」団員も笑いながら会話を続ける。
「それから、ちょっと失礼な質問なんですが」
彼は急に深刻そうな顔つきになる。副団長もそんな部下の顔を見て思わず背筋を伸ばしてしまう。
「あの人って男...........ですかそれともまさか...........」
「やめとけ」彼は部下が最後まで言い切る前に遮る。
「後悔するぞ」
思いのほか深刻な表情を浮かべながら話す副団長に何かを察したのか口を紡ぐ。
「...........はい。わかりました」団員はそう言うと一礼した後船内へと戻っていく。
「まあ、あの人の性別は、この第32代ベレビア教直属聖騎士団の七不思議の一つなんだがな」
誰もいない船外で彼は一人呟く。
背後の空は不気味なほど明るく紅く燃えていた。
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そこは別世界だった。
冷たく潮が香る海岸沿い特有の海風。夜の闇にまぎれて草原を舞台に歌う虫たちのコンクール。白銀の満月が白く冷たく地を照らし、海はそれに相反するように漆黒を広げる。
それがこの世界だったはずだった。少なくとも彼女はそう思っていた。
だが彼女の目の前に広がる光景がそれを強制的に否定へと導いていく。
熱風が島から吹き荒れ火の粉が赤く点滅しながら舞っている。そしてそれは灰となり地面に降り積もっていく。虫達は迫り来る炎に逃げ惑い、去った後には灰色に埋め尽くされた緑を称えた草原が残るだけだった。
空はまるで世界の終わりかと思うほどに赤く紅く朱く濁った色をしていた。
「嘘だろ...........ここがソレイム島?」彼はソフィアを背に乗せ周囲を滑空しながら呟く。
既に殆どの民家が焼け落ち紅炎が天高く上がっていた。
だがそんなことよりももっと気になること...........というよりそちらに目が行かざるを得ないことがある。
「あれは...........なんだ?」
島のほぼ中央。そこにある黒いものは黒煙だと思っていた。
しかし近づいてみたからこそわかる。それは生き物だった。巨大な生き物の巨大な影だった。
「あんな巨大な生き物...........ドラゴン以外に存在するのか...........」彼はそれを凝視しながら独り言を呟く。
「...........いや...........一度だけ...........だがあれは結局...........」
「ねえ小鳥さん」思考に入りかけた彼に対し面倒くさそうに声をかけるソフィア。
「あれが気になるのはわかるけど、さっさと降ろしてくれないかしら」
彼女の声には恐怖など微塵もない。
あるのは恐らく目的意識、ただそれだけなのかもしれない。
「お前はアレがなんなのか」
「わかるわけないじゃない」彼女は彼の言葉を予想したように続ける。
「でもそんなこと問題じゃない。問題なのはアレが私の邪魔をするか否かという事よ」
「...........わかった。だが」
「死んだりはしない、わかってるわよそんなこと」
彼女はまるで思春期の父親の忠告にイラつく女子高生のような口調で言う。
そんな彼女に対し彼は肯定も否定もしなかった。
ただ、小さく肯定の意を示し高度を下げていく。
すると少しずつ地上の音が聞こえてくる。恐怖、絶望、切望、諦め、そんな思いが含まれているであろう悲鳴や断末魔が鋭く耳を劈く。
「ここでいいか」彼は比較的火の粉が少ない平らな場所の周囲を飛ぶ。
「ええ。小鳥さんは降りなくていいよ。私が飛び降りるから」
かつてそこは商店街の中央にある広場だった。しかし今は人影など一切無くただ石畳のアーケードが続くだけの空虚の空間と化していた。
ソフィアはジッと石畳を見る。
降り立つのに邪魔になるものは無い...........。
彼はゆっくりと羽ばたきながら徐々に高度を落としていく。
「もういいわ、飛び降りる」ソフィアはそう言うと彼の返事も聞かず、素早く綺麗に彼の背から飛び降りる。
そして硬い石畳の上に最も衝撃が小さくなるように足の屈伸を使い着地する。
彼女は膝についた汚れを右手で軽く払うと上空を見上げる。
黒煙が赤い光を写し不気味に輝いている。
「小鳥さん、あんたはそこら辺を飛んでて。目的が終わったらここに戻ってくるから」彼女の言葉には暗に邪魔をするなという感情がこもっているようにも思える。
「一応聞いておくが」彼はそんな感情を感じ取りながらも心配そうに問いかける。
「目的というのはなんなんだ」
彼の言葉はストレートだった。
彼としては教会のベルの遺体のところに行くのを期待していた。そこならば少なくともあの影はいない。だから彼はベルを思う気持ちに期待したのだ。
だが彼女はそんな彼の想いなど意に返さないように島の中心に目を向ける。
「はあ、あんたまだなんか考えてんの?、いい加減にしてくれない?、私は私、自由に選択することができるの」
そう言うと彼女は何の迷いもなく島の中心に向かって走り出す。
銀色の髪が紅炎を写し紅蓮の焔を映し出す。薄汚れた白い修道服が灰色の地面など御構い無しに自分の色を主張する。
それは彼女の、本質を誰かに影響され続けているにも関わらず、表面は自分を主張する、硬くて脆いダイヤモンドのような心を表しているようだった。
そして彼はそんな彼女の背中を哀れなものでも見るような視線で見つめる。もう引き返せない。
だが彼は彼女に協力すると誓った。それがどんなに間違った道であろとも。
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《楽しい》
それが彼女の、ソフィア=パールボルトの感想だった。
もちろん今ではない。今の状況を鑑みてこのような感想を浮かべることが出来る者は恐らく狂者であろう。
彼女がこの感想を浮かべたのは過去のソレイム島。ベルと過ごしたこの島での感想だった。
自然溢れる心地いい海岸沿い、温もりが常にあった教会、たくさんの人が交流し言葉を交わす石畳の商店街。様々な色と音と感触、キャンパスに書ききれないほどの風景、オーケストラで表せられないほどの音色。
それはソフィアにとって宝であり財産でもあった。
だが今は違う。抱く感想は一言で言えば
《静寂》
音がしないわけではない。ただ生き物の音がしないのだ。先程までずっと悲しい人の叫びが耳を貫いてきていたのに今初めて全くと言っていいほど音がしない。
生気のない乾いた効果音、ただそれだけが響くだけだったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
そして彼女の必死の息遣いは紛れもなく前者のもの。だが一方で前者とはかけ離れたものとも言えた。
それでも彼女の声はこの生き物の気配がしない中では異端とも言えた。
彼女はアーケードを抜け住宅街に入る。元々火山の噴火でできたらしいこの島は中央に行けばいくほど標高が急に高くなっている。そのため彼女が走る道もかなり急こう配になており必然的に彼女の額には気温のせいもあるだろうが汗が浮かび、意気は上がっていた。
だがそれが疲れているということにはならない。目を爛々と輝かせ復讐のため彼女は走り続ける。
だがあまりに前ばかり見すぎたせいか上空から降ってくる火の粉がだんだんと多くなっていっているということに気付かなかった。
「あつっ!」突然さすような痛みが首の背中側に走る。思わず手で触れると少し熱く腫れていた。
上空をみると先ほどまで特に気にならなかった火の粉が大きくなっており所々に触れれば火傷してしまうであろう大きさのものもあった。
「対策しないとね」彼女はそう呟くと朱銀色のペンを取り出す。紅い光を受けてもその色は霞むことなく存在感を保ち続けていた。
「使う魔法は確か」彼女は独り言をぶつぶつと呟く。
そして頭の中で先ほど《理解》した魔法の中で今使えるのを探り出す。彼女の脳内にある引き出しに詰まる本を取り出し目的のページを見つけ出す。
「あった」
そしてペンを握る手に力を込め頭の中でその魔法の図形と効果、そして意味を解釈していく。
マイナスの放物線、その軸、頂点に接する直線、その線分と軸の交点から放物線の最大値に伸びる直線2本と軸が作り出す正方形。
思い浮かべるその形の通りにペンが自らの意思をくみ取っているかのようにそれらが描かれていく。
意味は、保護、優しく淡い力
〈93番目の魔法〉
するとその魔方陣から淡いライトブルーの霧のようなものがあふれ出る。それはやがて彼女の身体を覆っていき服や肌に吸い込まれるように消えていった。
「これで弱い熱は遮れるはず」そういうとペンを仕舞い再び走り出そうとする。
だが走り出そうとした直後、彼女の目にあるものが映し出される。
それが目に入った瞬間彼女は急ブレーキをかけたように足を止める。
それは紅く暗い周囲に擬態し全速力で走り続けていた彼女の目には地面と見分けがつかなかったもの。
黒く赤く大きく広がった気持ちの悪い匂いのする液体。
彼女は走り出すのをやめ、それに近づいていく。それはねずみ色の石畳の石と石の間の小さな溝をたどるように周囲に広がり、その元を辿れば水たまりのように溜まっていた。
右手の人差指と中指で地面にあるそれをふき取るようにして触れる。赤黒いそれは少しは硬くなっていたがまだほとんどが真紅の液体のままだった。
彼女は自分の指についたそれを目にできるだけ近づけて観察する。
「これは、血?」誰に聞くわけでもないのに彼女は疑問形で呟く。まだ固まり切っていないところを見るとそれほど時間はたっていないようだ。
彼女はそれをみつめながら立ち上がり周囲をよく観察する。すると大雨が降った後のように赤黒い大きな水たまりが点々とある。そのどれもがついさっきまで流れるように広がっていたことを示すように赤く限りなく水に近いものだった。
彼女は身震いする。自分の向かう場所には限り無く死に近い何かがあると今初めて実感する。百聞は一見にしかず、というが百思も一見にしかずだろう。
どれだけ頭で理解しても実際に見なければ本当の事は分からない。
大きく深呼吸する。体の震えを無くし緊張を解こうとする。
しかし彼女は冷静になったが故にあることに気づく。
これだけ血が散乱している。にもかかわらず、致死量の失血をした者もいるだろうと思われるほどの大きさの血だまりがあるにもかかわらず、存在しないもの。
それは肉片、骨片、体の一部、
つまるところ人の遺体だった。
そんな遺体だけ蒸発してしまったかのような不気味な光景。生きていた証拠、そして死んでいった証拠があるのに、それを証明するものだけか綺麗に拭い去られていた。
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「行ったか」彼は彼女が走り去るのを確認すると再び上空へと上昇していく。
彼女、ソフィアが彼に上空でとった行動、それは脅迫だった。
「私は別にベルさんに未練があるとか、故郷に帰りたいとかそんな事が目的じゃないの、わかってるわよね」彼女はペン先を彼の背中に向けてそう呟いた。
恐怖や緊張など一切無い純粋な脅し。自分がどういう点で優位に立ち、どういう行動を取ることができるのか完璧に理解した人間にしかできない行動だった。
「あそこに行けば十中八九彼らに出会える。大方あの為にこんな離島に来たと思うし」
彼女は淡々と続ける。
「というわけで、私は目的のためにあの島に行かなくちゃならない。だから背中に32番を打ち込まれたくなかったらさっさと島に飛んでね」
そう言うと彼女は小さく微笑む。彼にとっては不気味としか言いようがないものだったとは言うまでもない。
そして彼はそれに従うしかなかった。否、自ら従った。
彼はいろいろ言うが結局は彼女の意見を尊重していた。
それとも甘いだけなのかもしれないが。
彼はそんな事を思い出しながら、黒煙の中を見つめる。
今も巨影は見え続けている。
だがそれは動かない。生きているというのはわかったが、それが動くことはなかった。
「あれがもし、そうなら...........」
もしそうなら彼女は、また彼女の中に居候するものも、絶対に敵わない。
あれは生き物であり、生き物でないのだから。
彼は恐らく生まれて初めて自分の予感が外れて欲しいと願った。