機神再び
江柳稀沙羅は交通事故で死ぬ予定だった。
帰宅中に送迎のクルマが別のクルマと正面衝突。運転手と江柳稀沙羅が死亡。
という筋書きだが、その前に薬剤で心不全を起こしてもらう。交通事故で死ななかった場合を考えて、確実を期す為だ。
交通事故の際にクルマは炎上。心不全だけなら10代という若さが不信とされ、検死解剖される事もあるだろう。しかし、焼け爛れた死体ならば検死どころではあるまい。しかも薬の成分は血中からは検出されない。正確には検出されないワケではないが、司法解剖によって見つかる事はない筈だった。
その予定は、闖入者の乱入によって全て丸ごと引っ繰り返される。
それは前触れ無く、誘拐犯達のど真ん中に落ちて来た。
「ぅお――――!!?」
コンクリートの床を陥没させて着地したソレは、注射器を持っていた男の腰を掴むと、大根でも引っこ抜くようにして放り投げる。
注射器の男は放物線を描いてドラム缶に激突。だがその前には、急激な縦Gによって失神していた。
「お、おいなんだコイツ!!?」
「どこから来たんだコイツは!!?」
「―――――!?」
誘拐犯も殺人(未遂)犯も、何が起こっているのかを正確に把握している者はいない。
事実だけ見るならば、今までいた仲間が遠くでコンクリートの床に転がり、その場所には紙袋を被った怪しすぎる人間(?)が立っている。
あまりにも突然で理解不能な出現に、誰もがどうするべきかを見失っている。
江柳稀沙羅は死の恐怖も忘れ、この奇妙な登場人物に意識を囚われていた。
頭には茶色い紙袋。服は学生服で、しかも稀沙羅と同じ学校の男子用制服。
そして、あまりにも劇的な登場シーンには、何かを連想せずにはいられない。
「…………」
「……何だお前? 今何やった?」
後から来た3人のリーダー格らしき男は、稀沙羅との間に紙袋を挟んでジリジリと回り込もうとする。今は紙袋が稀沙羅を男から庇う位置だ。そして紙袋も、男の動きに合わせて常に稀沙羅を背後にする。
「学生、か? まさか……そのお嬢様を助けに来たか?」
誘拐犯と殺人未遂犯が揃って紙袋と稀沙羅へ距離を詰める。皆、顔には明らかな動揺と戸惑いが浮かんでいた。
一方の、紙袋の下の千尋は動揺どころの騒ぎではなかったが。
(ヤベェ……、こっからどうしよう……?)
クルマを追っかけて来たはよかったが、犯罪が現在進行形で行われているのに尻込みしているうちに、同じ学校の女子生徒がヤバイ事になってしまった。
とりあえず飛び出して来てしまったが、ここからどうするかは全く考えていない。注射器をどうにかする事しか頭になく、勢い余って持ち主ごとブン投げた後で、我に返ったというワケだ。
「……逃げたいなら、逃げなよ。……手加減の仕方なんて、分からないからな……」
「この人数相手に大した余裕だ」
余裕じゃなくて本当に逃げて欲しい千尋。何が悲しくて人生で何度もこんな修羅場に立たねばならんのか。
しかし、事なかれ主義者を自称する千尋も、今度ばかりはダッシュで逃げる、というワケにもいかなかった。
自分の後ろには、今まさに理不尽に殺されそうとする少女がいるのだから。
そんな事を、二度も許す事は出来なかった。
「こいつは好きにしていい。時間が無い。早く片付けろ」
「あーもー……どうなっても知らん――――――――ゾごッッ!!?」
リーダー格の男が言うが早いか、千尋は紙袋の頭を鉄パイプで殴られた。手加減無しの、頭骸骨を陥没させる勢いの一撃だ。
「グッ―――――……ッてぇええぇぇえぇ!!?」
だが、紙袋マン千尋の頭蓋骨は凹まなかった。少なくともカルシウムで形成されているのではないらしい。
殴った瞬間の音は重く、大きく、殴った男の全力を知らしめていた。鉄パイプでヒトの頭を殴ればどうなるか、裏の世界に身を置く男達はよく知っている。
なのに、紙袋男は殴られた所を抑えるだけ。致命のダメージを感じさせない。
酷く違和感のある光景だった。
「お、オラッ!!」
「―――――――ッア!?」
もう一発、千尋の背後から鉄パイプが来るが、今度は千尋も受け止めた。腕でガードし、ゴンッと鈍いが鳴る。
「ッ~~~~~~~ゥ! このバカッ!?」
「ごフッッ―――――――――――!!?」
腕の痛みで頭に血が昇り、一瞬千尋の自制心が弛んだ。
打ち据えて来た鉄パイプに腕を絡み付かせて捕らえると、鉄パイプごと男を引き寄せ、マトも定めず殴りつける。
胸部を正面から打たれた男は、胸骨を砕かれ後方3回転宙返した後、頭からコンクリートの床に落ちた。
パンチ一発で人が空を飛んだ場面を見た所で、ようやく誘拐犯らも、紙袋男がただの子供でない事に気付く。
落ちていた鉄パイプだけではなく、それよりも痛そうな金属の角材や、どこから持ってきたのか大型の金槌やレンチ、懐からはナイフを、それぞれ手にして千尋へ向かってくる。
「死ねやオラぁ!!」
「おッ? おおぁッッ!!?」
銃を向けられた事はあるが、陽光を照り返す鋼の凶器はまた違う恐ろしさがあった。
紙袋男が身を竦ませる。相手の怯えを感じ取った男が口の端を吊り上げ、腰だめにナイフを構えて真横から突っ込んで来た。
千尋は躱わす事も止める事も出来ず、ナイフは脇腹に吸い込まれた、ように見えた。
不幸だったのは、ナイフが折り畳み式で、男が柄をしっかり握っていた事。千尋の皮膚を貫通出来なかったナイフの刃は、最も力学的抵抗の少ない方向へ進み、折り畳まれる形へ収まろうとした。
結果、刃は男の指の骨へ中程まで斬り込む。
「ギャァアあ嗚呼ぁァァァア!!!」
「ウッ!!」
「オオオオ!!!」
指から血を流す男の悲鳴に、千尋の方が恐怖を誘われた。だが、他の男達の攻撃は止まらない。
ゴキンッ、と金属バット並みに巨大なトルクレンチが、性懲りもなく千尋の紙袋頭に直撃。そろそろ受け止めるなり避けるなりしたい。
よろめいた紙袋男へ、今度は体勢を崩す狙いの膝裏への蹴り。だがこれは全く効果を上げない。
「そーらッ!!」
「つァッ!?」
金属の角材が振り下ろされ、狙いが逸れて千尋の肩を殴りつける。
鉄パイプ、角材、素手や脚での打撃。6人もの屈強な男達から滅多打ちにされる紙袋男。
そして、その全てに効果が見られない事に男達が気付き始めたその時。
「痛ッ――――――てぇよクソどもがァ!!」
怒声と共に紙袋男が両腕を振り回し、凶器と男達を纏めて薙ぎ払った。
爆発にも似た威力を叩き付けられ、木の葉か何かのように吹っ飛ばされる何人もの男。
殺人目的のリーダー格の男は、もはや手段は選ばぬと懐から新たな武器を取り出す。
子供相手には必要ないと思っていたが、子供だからと言って情けもかけず、躊躇もなく引き金を引いた。
銃口が自分に向くのを、千尋は紙袋に空けた覗き穴から見た。銃弾でも大丈夫。痛いから喰らいたくない。本当に大丈夫か。一瞬の内に様々な思いが、痛みでフラつく頭に去来する。その最後に、
(後ろに―――――!!?)
思い出した瞬間、千尋は銃口に背を向け、そこで腰を抜かしていた少女に覆い被さった。
バウンッ! と湿った銃声が2発、僅か3メートルの近距離から千尋の背に着弾する。
続けて4発、容赦なく千尋と稀沙羅へ向けた発砲は続いた。中国製59式〝赤星〟自動拳銃。9ミリマカロフ拳銃弾は、至近ならばヒトひとりを貫通して、二人諸共に殺める威力がある。
しかし銃弾は制服を貫通できても、千尋の皮膚で弾き返された。
「どうなってる………、防弾チョッキか!!?」
直後にリーダー格の男は千尋の脚に2発、1発を後頭部に撃ち込んだが、
「痛ッたいって……!!?」
紙袋男のリアクションには絶句せざるを得なかった。弾も切れた。
銃が通用しない事実を受け入れられないリーダー格の男は、乱暴にジャケットのポケットへ手を突っ込むと、替えの弾倉を取り出す。銃本体のリリースボタンを押し空弾倉を落とし、8発装填の弾倉を握りの下から差し込み、遊底を引いて薬室に弾丸を送り込んで、
「痛いから……止めろって言ってんだろうがッッ!!」
紙袋男に向けた銃を掴まれた。
男は構わず引き金を引こうとする。それよりも僅かに早く、
「あ〝ッ!」
「フん―――グッ!?」
紙袋男の一撃が、銃を持つ男の顔面を打ち抜いていた。銃を向けられていては、千尋としても手加減する余裕もない。
殴られてコンクリートの床を延々と転がされた男は、鼻骨周辺の粉砕骨折という罰を受ける事となった。
もし千尋が全力で殴ったならば、そんなものでは済まなかった事考えると、殺人未遂犯の男は幸運だったと言えた。
「バケモノがぁッ! 轢き殺してやる!!」
銃を片づけホッとしたのも束の間。紙袋の表面が、一気に回転数を上げたエンジンサウンドに震わされる。
千尋のダブルラリアット(?)に巻き込まれた男達の内、他の男がクッションになって大ダメージを免れた奴が、いつの間にかバンに乗り込んでいたのだ。
(クルマ!? ヤバ――――避け―――――女の子―――――移動―――――怪我させる―――――!!?)
ドライバーはアクセルをベタ踏みし、エンジンのタコメーターがレッドゾーンにまで振り切った。タイヤが白煙を上げ、キュルキュルと甲高い音を立てる。
千尋とクルマの距離は僅かに10メートル。クルマが突っ込んでくるまで10秒もかからないが、千尋なら回避は難しくない。
だが千尋は迷った。後ろで腰を抜かしている同じ学校の女子。千尋が無理やり引っ張ったら、腕が抜けたり骨折したりするかも。 ましてや相手はゴツイ男ではない、触れれば折れそうな華奢な女の子。
そして、千尋の力は人体を容易に破壊する。
命と秤にかければ考えるまでもなかったが、それでも千尋は迷いで動きを止めてしまう。
その数秒が致命的。千尋と稀沙羅目がけ、圧倒的速度で大質量体が迫まり、
[衝突警報]
[戦闘システム緊急起動]
[認識補正システム起動]
[ジェネレイト・コア検出……コンタクト]
[機関……戦闘出力へ移行]
ドゴンッ!! と紙袋男はバンに激突された、かに見えた。
白いバンは確かに千尋に激突したが、そこからは先へは全く動かなかった。クルマは未だに後輪から白煙を撒き散らし、タイヤを空回りさせている。なのに、全く前進しない。
「なんだ!? どうなった!!?」
衝突の際に開いたエアバックで、前方視界を塞がれていたドライバーは、エアバックを押し遣りそれを見た。
あとほんの数メートルの所には、殺す予定になっている江柳稀沙羅がいる。
そして、ウィンドウを挟んですぐ目の前にあった、目の部分から赤光を溢れさせる紙袋。
「ヒィ!? ――――――な、なんで死んでないんだ!!?
人間なんかではなく、地面深くまでに突き刺さった杭の様だと、運転していた男は思った。
走り始めで初速を得られなかったとはいえ、人間がクルマを押し留めるという事実。それも、頭に紙袋を被った、全く力がありそうには見えない学生服の子供に。
「なんなんだ!? 何なんだよ!? チクショウ潰れろぉおオォぉ!!」
「んぬぅッ――――――――――――――――ッ!!」
衝突のショック弛んでいたアクセルが再び踏み込まれる。
千尋へ強烈な圧力が圧し掛かってくる。
質量差は圧倒的だ。千尋の体重がいくら見た目不相応だとは言え、2トンに近いバンとは比べ物にならない。
にも関わらず、クルマが全く千尋を押し返せないのは、両者の出力に差があり過ぎた為だ。
バンの前方、運転席側が、ガクンと揺れる。
「――――――――――――――――――ぅ……んぐぅうぅうううぅうぅぅううううう!!!」
白煙に飲まれる紙袋男の、真っ赤な眼光がその中で輝きを増した。
ウォオオン……と、千尋の内部で何かが低い動作音を放ち、その身体は今まで以上の力を叩き出す。
全身の筋肉組織が膨張し、制服の上から分かるほどに紙袋男の体躯は一回り大きくなり、フロントグリルにかかる手が車体に指を喰い込ませ、
「ッ――――ゥオラぁああァあァあ!!!」
瞬間的に全ての力を爆発させた紙袋男は、真正面から大型のバンを、卓袱台か何かのように引っ繰り返して見せた。
バンは空中で4分の3回転し、頭からコンクリートの床面に突っ込んだ後、背中から倒れた。
慌てていたから仕方がなかったとはいえ、ドライバーはシートベルトをしておくべきだっただろう。
「―――――――フぉッ……!?」
勢い余って自分も飛んでいた紙袋男が、地響きを立てて着地。膝立ちのまま静止する。
何かおかしなモノが見えていた気がしたが、今見えているのは、ひっくり返った亀のようなバンそれだけだった。これなら最早、どう頑張っても動き出す事はなさそうだ。
立ち上がって周囲を見回すが、もはや動けそうな人間は存在していない。分かりやすく呻いたりしてくれていると安心なのだが、倒れたままピクリともしていないと、千尋としては死んでいやしないかが心配になる。
クルマはあと2台あったが、とりあえず運転出来そうな人間がいないので問題はないだろう。轢かれそうになるのは、もう御免である。2度ある事は3度ある、というが。
嵐が去り、布地の解れたキャンプ用の折り畳みイスに座り込んでいた稀沙羅は、紙袋男が自分に近づいて来るのを呆然と見ていた。
紙袋に赤く光る二つの光は、徐々に薄らいできている。
稀沙羅は動けなかった。興奮と恐怖。受け止めきれる容量を遥かに超えた事態に、指先まで固まっていた。
自分を誘拐し、殺そうとした人間達を、災害にも似た力で木っ端のように蹴散らした人物。
紙袋男は稀沙羅の前に立つと、前ボタンが取れ、短時間でヨレヨレになってしまった制服の上着を脱ぎ、
「あの……これ……」
自信の無い声で、稀沙羅の方へ差し出してきた。
「…………ぇ?」
上着を脱いだワイシャツ姿は、とても大型車を押し返す力があるようには見えない。声も大人しい少年を連想させる。
制服の上着を肩から掛けられて、稀沙羅は初めて自分が震えているのに気がついた。羽織った制服から、着ていた少年の体温が伝わってくる。
そして我に返った所で、太腿を濡らす生温さにも気が付いてしまった。
「へ……? ぁ!? い、イヤッ! 見ないでください!!」
「ぉ……あ?」
取り乱した少女の悲鳴に、紙袋の千尋が気押された。
一生のうちにヒトが死の恐怖を味わう事などそうそう無く、お嬢様育ちの少女がそうなってしまったのも仕方がない。とはいえ、どんな理由があろうと、人前で失禁した姿を見られるのは、稀沙羅にとっては死に等しい恥辱だった。それなりに自尊心も高かったのに、ご愁傷様な事である。
借り物の上着で恥を覆い隠し、その上からグイグイ手を押しつけていた稀沙羅は、羞恥で真っ赤に染まった顔を恐る恐る上げる。嘲笑や呆れ顔などされていたら生きていけない。
「…………?」
だが、そこに紙袋の少年はいなかった。いたとしても、紙袋で表情なんか見えなかっただろうが。
慌てて稀沙羅は、今まで目の前にいた紙袋を探した。見回した範囲に姿は無い。
「あ、あの……待って―――――――――!」
腰が抜けていたのも忘れて、稀沙羅は衝動的に駆けだした。足下はまだ頼りなかった。
虫食いだらけでどこからでも出られそうな倉庫だったが、稀沙羅は素直に半分しか扉の残っていない出入り口へと向かう。
稀沙羅が倉庫を出るのと、制服警官が倉庫に駆けつけたのが同時だった。
◇
江柳稀沙羅誘拐殺人未遂事件から3日経ち、その日は朝から季節外れに冷え込んでいた。12月並みの気温である。
「……ッグシッ!!」
背中を丸めた少年は、家を一歩出ただけで、その寒さにやられていた。
(この身体って、もしかして胸とか腹の中身は生のまんまなのか?)
生身のままならそれでもいいが、もし違うのなら、ヒーターくらい内蔵しておいて欲しい、と千尋は思う。
3日前、稀沙羅が視線を外した瞬間に、千尋は犯行現場となった廃倉庫から逃げ出した。
突然稀沙羅の目の前から消えて見せたのは、実は天井にまで飛び上がっていたからである。高さは約15メートル。鉄骨に乗って身を隠し、誘拐された少女が保護されるのを見届けた上で、廃倉庫を離れた。
ちなみに、警察を呼んだのは千尋だった。通報したのは警察に直接ではなく、先の事件でお世話になった検事さんに、だが。
事件は既に情報メディアにも流れ、『黄竜グループ御令嬢誘拐未遂』、『グループ企業内の同族骨肉の争い』、『冤罪少年と同じ学校でまたもや』等のタイトルが大きく書かれていた。学校側にしてみれば悪夢だろう。
ひと月を経て起きた大事件に、学校内は再び騒がしくなり、千尋は内心ビクビクしながら3日間を過ごしていた。まだ木曜日。週末までは長い。
小耳に挟んだ所によると、誘拐された2年生の女子、江柳稀沙羅は誘拐翌日から学校に来ていないらしい。それも当然だろう。理屈の全く通じない理不尽な事件に巻き込まれれば、誰だって引き籠りたくなる。
千尋には、ヒトよりもその気持ちがわかる気がした。
「やー……、おー金持ちは大変やーねー……」
「……金持ちに限った話じゃないと思うけどね」
「おお……、実感がこもってますな、牧菜先生」
千尋の友人である藍川仁は、歌詞でも口ずさむように韻を踏んで言う。勿論、他人事ではない。何せ千尋は現場にいたのだから。
不安材料は山積みだった。と言うか、知り合いの検事に話を持っていった時点で、千尋が犯人を半殺しにしたのはバレバレだっただろう。あれだけ暴れれば、皮膚や髪の毛といったDNAサンプルも山ほど出るだろうし、やり口が以前の事件と同じである。
連絡した検事さんに、過剰防衛とか暴行傷害で訴えられたら洒落にならない。そもそもアレは、『防衛』と言えるだろうか。
加えて、被害者の江柳稀沙羅先輩にも姿を見られている。紙袋は被っていたが、正直それで正体を隠し切れたという自信は無い。
何が知られたくないって、自分がサイボーグ(もはや9割がた確実)である事は、親兄弟知人友人級友教師に幼馴染まで、誰ひとりとして知られなくなかった。
おかげでこの3日胃が痛い。どうなってるんだこの身体。
だが今日まで、知り合いの検事さんからは何の連絡も無く、江柳先輩は学校に来ていない。元々千尋とは違う世界の住人であるからして接点などなかったが、遠目にでも良いから様子を見ておきたい気持ちはあった。
(遠目にでも…………、遠目か)
自分の目なら、最大望遠なら1キロくらい先からでも顔が判別できる、とか余計な事を思い出した。なんかそんな事にこの目を使うと歯止めが利かなくなる気がして怖い。
最近は何かと、この身体を利用する事を考えてしまう。己を強く縛める千尋は、後はもう出来る事もなく、そのまま何事もなく平穏な日常に戻るのを祈るばかりだった。
あまりにも儚い願いではあった。
時刻は昼休みとなり、生徒達は各々が若い欲求を満たすべく動き出す。緊張から解き放たれた生徒達で、全校にざわめきが立つ。それは、いつもの事。
ところがこの日に限って、そのざわめきの質が少し違う。
「ねーねー見た?」
「ネイル? 朝見せたジャン」
「ちーがーうー! ホラ、あの、センパイ来てるって……」
「………」
箸を銜えたままの千尋が渋面を作った。弁当に手を付けた直後なのだが、何やら凄く嫌な予感が、ヒシヒシと迫ってくる。
「どうしたねちーちゃん。自分で作った弁当は不味いか」
「まぁ……美味くはないね。てか『ちーちゃん』言うな」
月に一度、送られてくる仕送り金額に限度がある少年には、毎食を外食や弁当にするとか贅沢は許されない。前日の夕食の残りを弁当にするのは基本である。
しかし、世の中にはそんな贅沢を贅沢と思わない人種も存在するのだ。例えば、先日誘拐された良家のお嬢様とか。
「牧菜、千尋さん、ですか?」
「………はい?」
千尋が弁当を広げる教室内こそが、ざわめきの中心地だった。より正確に言うならば、向かい合う千尋と藍川の真横に立った女子が、その中心だった。
予想もしなかった人物の出現に藍川が目を丸くし、何となくこんな事になるんじゃないかと予想してい
た千尋は、油の切れたロボットの動きで首を回す。
クラス中の視線の先で、一輪の百合の花を思わせる佇まいの、今噂の女子生徒。
「あの……先日、お会いしましたよね? あの時はご挨拶する暇がなくて……。改めまして、江柳稀沙羅です」
和やかな笑みと口調のクセに、千尋がそうであると、自分の予想を全く疑わない科白。
何故ピンポイントで自分の所に来てしまったのか、千尋としてはその理由を考えたくなかった。
◇
その廃倉庫は、浜崎市内より西に向かった山裾にあった。
元は建材や石材の一時集積所として機能していた物だったが、浜崎市や周辺都市の開発が一段落し、近年の建築不況もあって必要性を減じ、所有していた会社も潰れたことで、こうして取り壊される事もなく放置されているのだ。
既に10年単位で時間が経過し、外壁の薄い波板は風雨による腐食でボロボロの虫食いになっている。そこから内部の鉄骨が覗き、廃倉庫は朽ち逝く巨大生物の様相を見せていた。
周囲は木々に囲まれ、倉庫の他には何もない。時折、倉庫前の道路をクルマが走って行く音だけが聞こえていた。
ここは、江柳稀沙羅が連れ去られてきた廃倉庫だ。
事件から3日。警察の調査も現場検証も終わり、警備の警官もとうに引き上げている。
「Keep Out」と印字された黄色のテープで囲まれてこそいたが、入り込むのは難しくなかった。
倉庫内には何も無かった。
3日前までは鉄パイプや金属の角材、捨て置かれた巨大レンチや金槌が転がっていたが、今は本当に何も無い。コンクリートの床と鉄骨、それに錆びの浮いた壁だけだ。
コンクリートの床はジャリジャリと砂っぽく、天井から落ちた赤錆びや、紛れ込んだ枯葉の色が移って斑に色が付いている。新しいモノとしては、赤黒く酸化した飛沫血痕があった。
その男は、特に最近の痕跡を眺めて回っていた。
誰かが殴られ、広範囲に飛び散った血飛沫。叩き落とされ、顔から墜落したのが見て取れる血混じりの顔型。そして、何か強力な力で押し付けたような、周囲がヒビ割れているクツの痕。
「………なかなかのパワーだ」
その男が見ているのは、3日前の事件だ。
ひとりの少年が、自分の脚だけで走り去ろうとするクルマを追尾し、誘拐犯達を容易く蹴散らし、2トンクラスの大型車を力尽くで縦転させる。
驚くには値しなかった。
(でもAWGの試作躯体というにはお粗末すぎるな。第一、何故学生だ? 潜伏任務でも想定しているのか? ならどうして学校だ?)
情報によると、標的はサイバネティックス技術の粋を極めた最新鋭サイボーグ。それも、既存の義肢制御技術や人工臓器技術よりも遥かに高度なテクノロジーの塊。
と、いう触れ込みだったのだが、蓋を開けてみると妙な事が多過ぎた。
人体の機械化。サイボーグ技術は現在では珍しいものではない。身近な所では、心臓のペースメーカーや人工心臓も広義においてサイボーグ技術と言える。
そして今日に至り、義手や義足は電子制御、機械制御により装着者の思う通りに動き、脳と生殖器以外のほとんどの臓器は、機械による代替が可能となった。
とはいえ、どれを取っても元の身体以上の性能を持つ事はない。義肢、人工臓器、義眼。形だけのものではなくなったとはいえ、元々の身体の一部と同等とするには、まだまだ技術の発展を待たねばならない。
と、思われていた。
だがもし、人間本来の身体どころか、それ以上の性能を与える人体の機械化技術があったならば。それは、単に医療や技術的な事以上の問題を発生させる。
技術はそれ自体に特別な要素を必要としない。理論さえ確立されていれば、誰にでも使う事が出来る。それが科学であり技術である。
つまり、誰でも身体を機械化して、強力な力を得る事が可能となるのだ。
そんな物が実在するならば、その技術には莫大な価値がある。真っ先に思い付くのが人類の18番、軍事転用だろう。
単に、自分達が手に入れて主導権を取る、という事以上に、敵対勢力が手に入れば致命的な事態となる。誰もが我先にと手に入れようとするのは自明の理。
あるいは、既に同様の技術を開発している勢力が、独占優位性を守る為に相手の技術を手に入れるか、または潰しに来るか。
標的、〝牧菜千尋〟の性能は、明らかに人間のそれを上回っている。だが、予想されたほどのモノではない。
と言ってしまえばそれまでだが、まるで性能を活かしきれていないのも見ていて分かる。身体の持ち主が、どう見ても素人の子供なのだ。戦い方も、お世辞にも手際が良いとは言えない。これでは、本当の性能を計る事など出来はしない。
観察者は、千尋の力にはまだまだ先があると考えている。では、その力を発揮させるにはどうすればいいか。
「……なかなか正義感に溢れる少年らしいじゃないか。嫌いじゃないな」
観察者の男は獣性を滲ませる笑みを作り、コートの裾を翻してその場を去ろうと、した。
「おいおいキミ、そこで何をしている!?」
「ここは立ち入り禁止です! 速やかに建物から出てください」
「おッと……」
予想外の出来事にその足を止められた観察者。偶然にも、廃倉庫を出ようとして警邏中の警察官と出くわしてしまったのだ。
「こんな所で何やってるの? 外国人? 言葉わかる?」
「あー、きゃんゆーすぴーくじゃぱにーす?」
「ハハッ……」
至極真面目に職務に臨む警官の姿が、観察者には滑稽に映った。法の通用しない世界に身を置く観察者の視点からすると、警官たちが酷く場違いな存在に思えたのだ。大人の世界に、背伸びした子供が紛れ込んだかのような。
当然、不審者に小馬鹿にされた警察官は気分が良くない。
「言葉は通じてないか……。いいだろう、ちょっとパトカーの中で話聞かせてもらおうか、お兄さん」
「ですね。はいちょっとこっち来て」
不審者の両脇に回り、腕を取って強引に連れて行こうとする警察官。
ところが、その不審者はピクリとも動かなかった。
「うッ……お、重い!?」
「こ、こら歩け! ゴー!」
単純な重さだけではない。警官二人が満身の力を込め動かそうとしても、不審者の肘も肩も脚も固定されたかのように動かなかった。
「さて、すまないが警察官諸君。私はこれで失礼する。ヒトと会う約束があるんでね」
「え……日本語――――?」
そこで警察官二人の意識は途絶える。
連絡が途絶えた二人の警官を、車両位置から場所を割り出した別の警官が捜索に来たのが1時間後の事。
廃倉庫に来た捜索の警官達は、そこに停めてあったパトカー内で昏倒している警官二人を見つけた。
不審者に警官二人が暴行を受け逃走を許した。それだけでも十分問題だったが、目を覚ました警官二人は、更に重大な問題が発生している事に間もなく気がつく。
不審者に襲われた警官のひとり、その腰のホルスターから、拳銃が無くなっていた。