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ペーパーバッグ


 浜崎市立泰阿(たいあ)高校は、海外留学への門戸が用意されている為に良家の子息が集まりやすい、というのは前述の通り。

 某社長の子、重役の子、政治家の子――は何か千尋としては腹立たしいような申し訳ないような複雑な気持ち――と社会的地位があり経済的にも裕福な生徒が何人もいるが、2年生の江柳稀沙羅こうりゅうきさらはその中でも屈指のお嬢様である。

 〝黄龍グループ〟総帥の孫で、学生の身でありながら既にグループ内の会社で役職に就いている才媛だ。

 多くのヒトの羨望を集める少女で、またそれも当然のこと。

 性格はたおやかな淑女そのもの。母親が英国人であり、長くウェーブしている髪は天然の亜麻色。容姿も日本人とは少し異なるおもむきで、浮世離れした魅力を感じさせる。

 しかし、誰隔てるでもなく穏やかな微笑みを向けるお嬢様は、皆に親しみ易さを感じさせた。2年生の一番人気とは、千尋の友人のげん

 江柳稀沙羅と美波楓が友人だった事実を千尋は知らなかったし、2年にそういう先輩がいる、くらいの認識しかなかった。千尋とは違う世界の住人だし、千尋がその事実を知るのも大分後の事となる。

 普通に生活していれば、ふたりの道が交わる事は無かっただろう。

 あるいはふたりの抱える秘密が、互いを結びつかせたのかもしれない。 


 数学教師の温情により、ひとり授業が遅れている千尋にだけ、課題が与えられる事となった。有難くて涙が出る。

 おまけに、それを昼休みに取りに行く予定が面倒臭いのに絡まれて時間が押し、千尋が昼食を食べる暇が無くなるという。酷い話だった。

 こんな時、弁当が自分のお手製だとダメージが小さいのが救いだ。そういえばこの身体も餓死とかするんだろうか。

 そうして腹を空かせたまま学校が終わり、千尋は早々に家に帰る事にした。学校に残っていても、面倒こそ起れ良い事など何一つもないからだ。

 帰りに何か新しいゲームソフトでも買って帰る事が出来ればまだ楽しみもあると言うものだが、生憎あいにくどこで誰の目が光っているか分かったものではないので、大人しく家に引き籠る事とする。

 学校に復帰したばかりの頃の話。遊びに誘われた事など一度も無かった学友に連れられ、着いた先で怪しい宗教団体の人間に囲まれた時はどうしようとかと思った。トイレに行くフリして窓(4階)から脱出したが、以来、その友人モドキとは極力接触しないようにしている。

 もう一生分のトラブルは経験しただろう。余生(注:現役高校生)は静かに平凡に暮らしたいものだ、と()が付くほどの本気で願う千尋だった。


 その願いが成就する事は無かったが。


 校舎を出て直後の事だった。

 人目を避けたい千尋は、学校正面の正門から駅に向かうルートではなく、学校裏手の裏門から敷地を迂回し駅の裏手へ出るルートへ選ぶ。

 裏門は駐車場の出入り口にもなっており、使用するのは主に教師やクルマでの送迎を受けている生徒だ。それ以外の生徒は、ワザワザ学校の裏手に回って遠回りする必要もない。

 裏門の方が好都合な、千尋のように事情を抱えている生徒も何人かはいたが。

「………?」

 そこで何やら、悲鳴のような声が聞こえた気がして、千尋は思わず足を止める。

 立ち止まって身動きせず、耳を澄ませて周囲の音に耳を凝らした。

 千尋がこんな面倒な立場になければ、こんな所を通る必要もなかったし、その場面に出くわす事もなかっただろう。

 ひと月前の事件の後遺症だ。一週間も神経を張り詰めていたせいか、未だに千尋はちょっとした事に対して過敏になっていた。例えば、クルマの中で寝ている人間とか。ただの営業のサボりだろうが。

 だが声には、ただ事ではない事態が進行しているのを千尋に推測させる。人間が発する、生の感情を爆発させた声だ。

 一瞬だけ聞こえた声の出所は、千尋の現在位置から校舎の影になっている駐車場付近と思われた。千尋は久しく全速力で、時速120キロオーバーを叩き出す脚で校舎の壁際を駆ける。

 しかし、千尋がアスファルトを焦がしながら駆け付けた時には、ちょうど黒塗りの高級車が裏門を出ていく所だった。

 致命的な何かが進行していたと仮定しても、千尋はその瞬間を目撃出来ていない。

 自分の気にし過ぎか、または思い過ごしかも。冷たい空気を肌に受け、頭を冷却した千尋は自問する。

 正直、また面倒な事になるなら関わりたくない。クルマを走って追いかけるのも目立ち過ぎる。大体学校の駐車場から誘拐など、ヘタをすればすぐにバレて大騒ぎになるようなリスクを冒す誘拐犯がいるだろうか。

 単に、迎えに来た家族と揉めた生徒がいたとか、男女の仲の生徒の痴話喧嘩だったのかもしれないじゃないか、と自分に言い聞かせた。

 その最後に、

「……まさか、そんな何度も何か事件に当たるなんて……ねぇ?」

 誰に聞いているのか。同意を求めても返答なんかない。

 そして、どう理屈を並べた所で、千尋の腹は最初から決まっているようなもんだった。


                         ◇


 江柳稀沙羅は、日常的にクルマで通学している。勿論自分で運転するのではなく、専属運転手による送迎である。

 クルマで来ている生徒は江柳稀沙羅に限らず、当たり前に教職員用の駐車場を使っていた。

 登下校にクルマを使うのは、単に金持ちが楽をしたいからではない。大きな理由の一つに、セキュリティー上の事情があるだろう。誘拐のリスクは少ないに越した事はない。


 黄竜グループは一次二次三次の産業を問わず、主にアジア圏で大きな力を持つ巨大グループだ。そのグループを支配する一族の直系となれば、需要(・・)には事欠かない。

 稀沙羅もその事はよく自覚していた。物心ついた時から自由にひとりで外出など出来ず、どこかに出かける時は警護付き。移動はクルマで、極力知らない人間との接触は避ける。

 将来グループを背負って立つ事を望まれ、トップである祖父に見込まれているからこその用心だったし、稀沙羅もそれは理解していた。

 祖父は、肉親としても公人として尊敬できる。自分に良くしてくれる事に感謝もしている。敷かれたレールとは思わない。黄竜グループで祖父や父を助けるのは本人の望みでもあるのだ。

 その為の用心を(おこた)ったつもりはない。だが後から考えると、日常での(なれ)れと(スキ)を突かれたという事実はいなめなかった。

「あなた達、随分危ない橋を渡りますのね……学校の中で誘拐だなんて。(わたくし)が何者か知っているなら、今すぐ海外にでも逃げるのをお勧めしますわよ?」

 長年の腐食を感じさせる虫食いだらけの倉庫の中で、稀沙羅は6人もの男に囲まれている。そんな状況であっても、取り乱す事なく澄ました微笑を見せていた。

 内心では、情けなくも囚われの己の身に歯噛みしていたが。

「何か勘違いされているようですな、お嬢様は。誘拐なんて事件は起こっていません。それに、海外へ行くのはお嬢様の方ですよ」

 誘拐犯の中でただひとり、大胆にも素顔を晒している角ガリで丸顔の男は薄笑いを浮かべて言う。

 黄竜グループの大きさに怖気(おじけ)付いてもいない。稀沙羅の言葉をまるで気にした様子もなく、落ち着き払っていた。

「……人買いにでも売るおつもりかしら?」

「いえいえ、単なる海外留学ですよ。お嬢様には外国で学業に専念していただく為に、〝GMTV〟の役員からは降りて頂く事になるそうです」

「つまり……御親族のどなたかが私をグループ運営から遠ざけたい、と?」

 丸顔の男は応えなかったが、わざわざ語って聞かせて聞かせる誘拐の目的とその態度で、稀沙羅の推測が事実であると知れた。

「それだけですの? どこに連れて行こうと勝手ですけど、私が真実を(おおやけ)にすればそれまでですのよ?」

「さぁ? 我々は依頼内容を忠実に遂行するだけですから。後の事は感知いたしませんので」

「では私があなた方を雇いたいと言ったら?」

「それは我々の命に見合う金額ですかな? この業界は信用第一。信用を無くせば命も軽くなる。金で転んだ人間の命は、それだけで二束三文の価値しかない業界ですので」

「……なかなか厳しい世界ですのね」

 買収は難しそうだった。

 いくらでも払うと口先だけで約束する事は出来るが、相手が到底払えない額を提示してくるなどして、提案には乗って来ないのは目に見えている。

 稀沙羅は相手を観察する目に優れ、聡明だったが、その分先が見えてしまうと早々に諦めてしまうきらい(・・・)があった。

 不意打ちを喰らって拉致され、自分の居場所も分らず外との連絡手段も無く、明らかに自分より肉体的に強い男に囲まれ、交渉する手札も無い。おまけに背後には自分の親類がいるらしい。

 ここまで悪い材料が揃えば、諦めるのも仕方がないだろうが。


 稀沙羅はここは負けたと見切りをつけ、既にその次を考えはじめていた。

 誘拐犯の言う通りなら、自分はこの後どこかの国に送られるのだろう。殺害が目的ならば今やればいいのだから、生存が危ぶまれるような場所には送られまい。そこでどのようにして自分の口を塞ぐかは分からないが、目的が一族の人事ならば、当分はグループの中枢からは離されるだろう。窮屈な監禁生活になるかもしれない。

 グループは最近、一族内での人事に繰り上がりがあった。今が機と見られたのだろう。

 稀沙羅の席が別の人物で埋まり、その尻に根が張ってしまえば、後から何を言っても既成事実を撤回させるのは難しい。留学させられれば、何らかの手段でそこに足止めされるのだろう。

 役職に執着は無いが、犯人の汚い工作に屈するのは悔しい。さりとて、自分一人では覆すのもほぼ不可能。

 ならば、どうにかこの包囲から逃れる機会(チャンス)を待つか、あるいは海外から挽回の手を探るか。最悪、自力で再起すればいい。


「お嬢様には迎えが来次第空港へ向かっていただきます。チャーター機を使いますのでターミナルで誰かに会う心配ありません」

「パスポートも用意しているのでしょうね?」

「出国の手続きも問題無いのでご心配なく」

 ここで嫌味や恨み言を言ったりしないのは、稀沙羅の育ちの良さか、無駄な労力を嫌う性格故か。

 しかしその平静な貌の下では、普通の少女らしい怒りも煮え繰り返らせていたりする。

 所詮この世は暴力によってまかり通ることの方が多い。個人の腕力然り、国家の軍事力然り。

 法律というルールよりも、露骨に力関係が物を言うのが、この世界。その現実を子供の頃から垣間見て来た少女は、本物の真理を正確に理解している。

 そんな救いようの無い現実を知っている為だろうか、稀沙羅が生まれ育ちや外見からは、ちょっと想像が出来ない趣味にのめり込んでいたのは。

 理不尽や不正、不条理、不公平、そして暴力を振るう紛れもない『悪』に対して、敢然(かんぜん)と立ち向かうフィクションの中だけの存在に。

(もしそんなヒトがいたら……。なんて、この状況で夢を見過ぎですわね。現実から逃避しても、現実は何も変わらない……)

 そうして、依然として世界は利害としがらみで組み立てられ、あらゆるヒトはそこに飲み込まれてしまう。

 ヒーローが実在する余地は無く、また存在したとしても、行間のモブでしかない自分とは永遠に縁が無い存在なのだ。

「……おい、来たぞ」

「お迎えが来ましたよ、お嬢様」

 選択の余地なく、ベルトコンベアの流れ作業のように、稀沙羅が運ばれる手順が踏まれていく。

 稀沙羅は胸の内を押さえ込み、引き()られるまでもなく自ら立ち、迎えの薄汚れた白いバンへ歩み寄ろうと、した。

 その『迎えのクルマ』から、新たに3人の男が降り立った。

 稀沙羅に先行していた丸顔の男が、ここで初めて表情を変える。

「……ドライバーがひとり、と聞いていたが? どうして3人もいる?」

「予定が変わった。お前達はここまででいい」

 降りて来た3人の男は、誘拐犯とはまた纏う雰囲気だった。うち一人は、大きな手提げカバンを持っている。

「俺たちは何も聞いてない」

「今聞く」

 後から来た3人の先頭に立つ男は、丸顔の男に携帯電話を手渡してきた。

 丸顔の男は怪訝な顔で携帯を受け取る。すると、受け取るのとほぼ同時に携帯電話が着信のベルを鳴らし始めた。

「……はい」

 後から来た3人を警戒しつつ、丸顔は携帯の通話ボタンを押した。

 3人の方はそんな丸顔の様子を全く気にせず、稀沙羅の方へと近づいてくる。

 先頭の男は稀沙羅の肩を上から押さえ、つい先ほどまで座っていたキャンプ用の折り畳み椅子に座らせた。少女相手に、まるで道具でも扱うかのような、粗雑(そざつ)()り様だ。

 3人のうち一人が正面、後の二人が稀沙羅の左右に立つ。右側の男が鞄をコンクリートの床へ置き、中から何かを取り出した。

「……は? 海外へ連れ出すんじゃないのか? 俺達はそう聞いていた」

 丸顔の男の声色が、少しずつ怪しくなってきているのを稀沙羅は感じていた。いや、雲行きがあやしくなってきたのは自分の運命か。

「依頼の内容は『お嬢様を武漢まで連れて行く』だった筈だ。説明してもらおうか。なぜ急に………それは、信用だよ。信用ある仕事の為―――――――おいお前達、何をする気だ!?」

 電話していた丸顔がついに声を荒げた。後から来た3人のひとりが、注射器を取り出しているのに気がついたからだ。

 冷静を装っていた稀沙羅も喉を引き()らせる。

「お前たちの仕事は終わった。報酬も振り込まれた筈だ。さっさと消えろ。おまえ、押さえておけ」

「ぇ……? い、いや……!?」

 稀沙羅の左の男が少女の細腕を乱暴に引っ張った。制服の袖を捲り上げ、透き通るような白い腕を露わにさせる。

「何を打つ気だ……。まさか、殺す気じゃないだろうな?」

「………まだいたのか? 消えろと言ったぞ?」

「俺達は誘拐屋だ、殺しはやらない! 誘拐した相手を殺したとあっては信用に―――――」

「三度は無いぞ」

 丸顔の男は、銃を突きつけられ沈黙を強いられた。

 稀沙羅は自分の見通しの甘さを死ぬほど痛感していた。

 非合法に手を染めた相手なら、いつでも短絡的に殺害という手段を選んでくる可能性は考えられて然り。

 今はダメなら後で、最悪何年後、などと何を自分は悠長な事を考えていたのだろう。相手が自分を生かしておく確証なんて、何も無いのに。

 だが、同時にこうも思った。

 何を予測した所で、法もルールも無い相手に非力な自分が何を出来たワケでもない。

 呆然と、腕の静脈に迫る死の針に目を奪われる。

 駐車場で(さら)われてからここまで、自分に出来る事など何もなかった。風に翻弄(ほんろう)され、水溜りの上でもがく(・・・)(アリ)ンコのように、圧倒的な暴力の前では何も出来ず。

 いや、何もしなかったのだ。

 それとも、こうなる前にダメもとで足掻いてみるべきだったか。

「お、おねがいやめてください……、なんでもしますから……!」

「………」

 後悔しても全ては遅く、稀沙羅は清楚(せいそ)淑女(しゅくじょ)(かお)も何にもなく、打算も計算もなく、ただ涙を流して哀願(あいがん)するしかなかった。

 後から来た3人はまるで、用途を果たす為だけの装置だ。稀沙羅を全く見ようとせず、淡々と行動目的を遂行する。これなら丸顔の男は遥かに人間的だったと言えただろう。

 死にたくないと願う一方で、稀沙羅はどこかで、自分の命は終わったものと諦めてしまっていた。逆転の目は無い。結局自分は、小利口で外面がいい育ちの良いお嬢様、それだけで終わるのだ。

 所詮ヒーローはフィクションの中の存在でしかなく、自分はこうして当たり前に転がっている理不尽によって殺される。

 ならばもう少し、自分に正直に生きて来ても良かったのでは。

 冷たい感触と同時に針が稀沙羅を侵してゆき、最後に思い浮かんだのは家族の事、友人の事。

 それに、こんな事なら一度くらい、コミックイベントに行けば良かったと思う。


 だからと言って、その時稀沙羅が見たのは、死に際の幻覚や妄想ではあるまい。


 注射器の中身が稀沙羅の中へと押し出されようとしたその時、稀沙羅の生涯のヒーローは降臨した。

 そのヒーローは、何故か頭にパン屋の紙袋を被っていた。


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