日常潜航
1年1組。千尋の在籍クラスである。
蒼鳴夏帆がお目付け役に就任してから、千尋の登校はHR15分前が基本となった。
1分でも長く寝ていたいと心より願う千尋は、学校なんぞ間に合えばいいし、間に合わなくても大して問題になるとは思っていない。
しかし、そんな理屈は生真面目な優等生タイプである幼馴染には通用しない。例え往来のど真ん中で、他の生徒の見ている前で、手加減無しの中段蹴りを幼馴染に見舞ったとしても、千尋以外の相手には礼を欠かさないし親切に対応するのが夏帆だった。
そして、家のカギを押さえられてしまった今となっては、千尋は幼馴染の少女に○○を握られているも同然なのである。○には読者の皆様の年齢に応じて好きな字を当てはめて欲しい。
(それにしても……思いっきり蹴ってたけどあいつ、脚は大丈夫かね……?)
いきなり前触れも無く蹴ってきたかと思うと、謝りもせず理由も言わずに早足で先に行ってしまった夏帆。その歩き方が少しぎこちなかったのを、千尋は思い出していた。
今まで幾度となく喰らった蹴り。感じる痛みは前と同じだったが、幼馴染の反応を見る限りは、やはりダメージは以前より大きいらしい。当然だ。千尋の耐久力が以前とは比較にならないのだから。
幼馴染の態度が突然変わるのは、今に始まった事ではないので良いとして、気になるのは夏帆の脚の具合。それに黒いスポーツカーの女の事。
スポーツカーは千尋が夏帆にドつかれた直後に走り去ってしまった。ただそこに停まっていて、用事が済んだか用事が出来たのかで移動した。ただそれだけだろう、と言われてしまえばそうなのだが。
とにかく、印象的な女性だった。千尋が見惚れていると勘違いした幼馴染が嫉妬するほどに。
「よーサイコ野郎」
「おはよう性犯罪者」
ひと月経っても、こんな気分の悪いからかい半分の挨拶をしてくる生徒は多い。それでも事件直後よりは大分マシになった。
もともと千尋はムキになって相手と言い合いをしたり、口論するのが好きではない。頭にも口にも自信がある方では無く、言い負ける事が分かっているからだ。
『論破』。事実より理屈を重視し、相手を言い負かして優越を得る卑しい思惑の見え隠れする、イヤな言葉だ。
そんな元々の性格もあって、千尋はこのひと月その手の嫌味や嫌がらせには全く取り合わなかった。
以前の事件で人間の腐ったヘドロの様な悪意をたっぷりと見せ付けられて来た事もあり、子供の戯言程度は大して堪えなかった、という事もある。
実際、千尋は自身では気が付いていなかったが、以前とは纏う雰囲気が変わっていた。
事件前の足下が頼りない浮ついた空気は無くなり、落ち着きが出て来て腰の据わった少年になった。
その変化は一種の危うささえ感じさせ、少年の身近な人間を不安にさせる。両親や幼馴染の危惧も、決して大げさなものではなかった。
少年は、それだけの経験をしたのだから。
「オレだったら殴ってるけどね。やっちゃっても学校側だって問題には出来ないんじゃないの?」
そう言って同情してくれる友人も千尋にはいる。
「学校側はそうでもそんなのワイドショーのネタじゃないですか。ヤダー」
千尋は当面、というか金輪際、隙が無い生き方をして行こうと決めたのだ。無理だと思っても決めた。
第一千尋が迂闊に殴ったら、相手がどこに飛んでいくか分からない。頭にでも当てて、骨ごと中身が欠けたりした日には―――――――――
「―――ぅえ……」
イヤな事を思い出し胸が悪くなってしまった。
吐き気があるって事はこの身体どうなっているんだろう。
「学校もイジメあっても見て見ぬフリだもんな。知らなかった気が付かなかったって言い訳して。生徒がどんな目に遭っていても責任取らない事しか考えていないのさ」
「………仕方ないんじゃないの? 責任取りたくないのは誰でも一緒だし」
「相変わらず熱さが無いというかやる気が無いというか……」
そう言って呆れたように溜息をつくのは、同じクラスの友人、藍川仁。
長身長髪で涼しい表情の似合う好青年だが、音楽に青春の全てを注ぎ込むギタリストだった。何につけても最優先はバンドであり、その為に学校の成績も上位グループを維持しているという、千尋にとっては親しい友人でありながらも、軽い羨望と嫉妬を覚える相手だ。
「そうだ、ウチのバンドの門間さん、覚えてる?」
「あー………金髪がスゴイ高さになってた人だっけ?」
「それはジョーさん。ドラムでリーダーの」
「……あ、あのヒトか」
「こんどの金曜、川崎でやるんだけどゲスト出演して欲しいって」
「……いやいやいやおかしいだろ。どうして音符も読めないオレがライブのゲストに出るんだよ。カスタネットでも叩くのか」
それもリズム帯という意味では若干怪しい。
テレビや雑誌でも、こんなトンチンカンな依頼が結構あった。畑違いも何のその、話題性だけで千尋を招きたいという要請が。挙句の果てには、芸能事務所に所属しないか、なんて話まで。
しかし千尋は、何の取材でも事件と関係ない事は応えない事にしていた。事件の取材と言って呼び出され、全然関係ない質問をされたこともあった。そういった手合いに対しては、例え話の途中でも席を立った。
相手がどう思おうと何を言おうと関係ない。ひと月前の千尋なら、ズルズルと相手のペースに乗せられてただろうが。
ちなみに、テレビでは顔出しNGでお願いした。
「藍川までやめてくれー……。家帰って来た次の日とかもう電話だらけで夜中まで叩き起こされたよ。悪いんだけど」
「別にイイって。多分ダメだって先に言っておいたし。義理は果たした」
千尋とは逆ベクトルでドライな級友だった。
◇
事件の際は一週間学校に出られず、その後も落ち着いて授業を受けるのも難しかった千尋は、現在の授業進行について行くのは少し大変だった。
幼馴染や仲の良い友人程ではなくとも、千尋は中学から成績は中程度をキープしている。家ではほとんど勉強しないが、授業は真面目に受けて分からない所はその日のうちに理解しておく事を心がけていた。予習も復習もやりたくないから。
だが、このままだと今期の期末は少々ピンチである。授業のノートに関しては頼れるのが近くにいるのでどうにかなるが、それでも追い付くのは大変だ。
どうせサイボーグになっているのなら、何でも簡単に記録出来るようになっていればいいのに。肝心な所で役に立たないサイボーグである。
と言うワケで授業は真剣に受ける千尋なのだが、そこに水を差しに来るメッセンジャーが。
時代が変わり、携帯電話を学生が当たり前に持つ昨今でも、メモを回すという前時代的であり且つ古き良き習慣は変わらないものらしく、授業内容の理解に四苦八苦する千尋の所にも小さなノートの切れ端が回ってきた。
『ジョニーズ事務所にスカウトされたって本当?』
その場で燃やしてやりたかった。
〝ジョニーズ〟と言えば二枚目イケメン美男子揃いで芸能界屈指のタレント事務所だ。そんな所に並盛といった感じの千尋が何にスカウトされるのか。
主体無く有名になってしまうと、ここまで周囲が荒唐無稽になるのか、と。事件の時ともまた違う世界に足を踏み入れてしまったかのような空恐ろしさを感じ、メモはひとまず制服のポケットに入れ見なかった方向で。
「牧菜、分からない所があるか?」
「あ……、いえ、どうにか付いてってます」
「そうか……まぁ分からなければ後で聞きに来なさい。他の者もだぞ。分からないままにすると試験が大変だからな」
数学教師に声をかけられ、メモを見ていたのを見咎められたか、と千尋はヒヤリとさせられる。だが、教師は純粋に千尋が授業内容を理解しているかを心配してくれたらしい。
本人に一切咎が無いにしても、学校にとって千尋がお騒がせな存在になった事に違いはなく、教師達の千尋を見る目もまちまちだ。
しかし、厳しいながらも面倒見が良く、時折ぶっきらぼうな優しさを見せる数学の女教師は、素直に千尋を案じているようだった。有難いことだ。
スレンダーで姿勢が良く、髪はミディアムショートのストレートで前髪がパッツンな美人数学教師である。隠れファン多し。
「そうだな……牧菜には後で遅れた分の課題を出すか。昼休みに職員室に来るように」
「………はーい」
有難い、と思うしかなかった。千尋もファンならもっと素直に喜べたと思う。
◇
4時限目が終わり、30分間の昼休みを迎える。
30分などあっという間だ。昼食を食べてトイレ行ったらもう時間切れである。食事くらいゆっくり摂らせ。
しかも千尋には昼食以外にも用事がある。数学教師に有難い課題を貰いに行くのだ。有難すぎて泣けてくる。
そのようなワケで、昼休みの鐘が鳴ってからすぐに、千尋は職員室へ向かおうとした、のだが。
「牧菜クーン、ちょっーといいかなぁ?」
「少し付き合ってくれなーい?」
どうやら、面倒臭いのに捕まってしまったようだ。
21世紀になっても、前時代的な言い方をするところの所謂不良という輩は存在し続けていた。集団の中で徒党を組んででも優位な位置に着きたい、人間の矮小な本性の表れだろうか。ならば彼等がどんな時代でも消滅する事は無いのだろう。
自分に関わらなければ寄り集まって何をやっていても構わない、と千尋は思う。真似したいとも思わない。
「昨日テレビでキミの事やってたよー」
「カッコイイよねー。警察から逃げきって逆に警察を潰しちゃうなんて」
「ゆーめーじんだよキミ。げーのーじんとかにも会えるんじゃない?」
だがこういう輩は、基本的に自分本位で人の都合や迷惑など考えない。関わりたくないのに、千尋はこうして校舎を繋ぐ渡り廊下の死角になどに呼び出されているのだ。
だらしなく制服を着崩し、ヘラヘラと半笑いで千尋を褒め殺しながら壁際に囲んでくる4人の生徒。
それにしても、と千尋は思う。自分は警察を潰したワケでもないし、ひとりで事を成したワケでもない。
こいつらは報道をまともに見た事があるのか。それともマスコミの方がいい加減な真実を流しているのか。
多分両方、半々だ。とはいえ受け手がこれでは、マスコミだけ一方的に批判も出来ないだろうが。ジャーナリズムの責任を発振側だけに求めるのもどうかと思う。
だが本題はそこではない。
以前にもこのように呼び出された事のある千尋には、彼等が何を目的にしてこんな事をしているのか、大方の予想は出来ていた。
「でさー、取材って全くのロハってワケじゃないんでしょー?」
「警察からの賠償金とかさー、けっこうたんまり貰ったんじゃない?」
「あんだけ新聞とかテレビとか出てればギャラも溜まったんじゃないの?」
そして、その予想が正しい事を指し示す雲行きだった。
「………オレ、警察も政治家も訴えてないから賠償金なんてもらえないし、取材でお金もらった事もないし………」
とりあえずは、それが事実だった。
確かに、精神的苦痛や社会的な信用を傷つけられたと訴えを起こして賠償請求しようという動きは周囲であった。本人にやる気が無いのに。
しかし千尋は、これをきっぱりと跳ね退けていた。
取材も、事件の事であれば可能な限り応えた。これも無償だ。その代わり、関係ない取材だったらその場で席を蹴っていたが。
お金を一切受け取らなかったのは、意地と言うか、誰にも伝える事のない意思表明だ。
千尋は、身勝手な理由で美波楓を殺して自分に罪を着せた政治家も、その手先になった警察も、一切赦す気が無かった。
お金を受け取れば、ほんの僅かでも赦す事になる。謝意を受け入れる事になる。死んでしまった先輩の事で儲ける事になる。お金の為に、事実を切り売りしてマスコミの扱いやすい真実に墜とす事になる。
とか、少年なりに思ったのだ。
千尋は自分が高潔な人間だとは思っていない。金は好きだし、先輩との事でいかがわしい妄想をした事もある、自分で認める俗物だ。
それでも、あの事件の事に関してだけは、自分は潔癖でいたかった。自分の為ではなく、美波先輩の為に。
自分のやり様が100%正しいとは思わない。自己満足だと言われれば、返す言葉もない。
ただ千尋を囲む不良少年達には、そんな事情も理屈も知った事ではない、という事で。
「えー勿体ないじゃんそんなのー」
「貰えるもん貰っとけばいいのにー」
「でも結構いい気分だべ? 取材受けてヒーロー扱いされて。絶対オレらよりイイ目見てるよなー。ズルイよなー」
「ちょっとオレらにもおす分けしてくれないかな、牧菜くーん」
そこは『おす分け』じゃなくて『お裾分け』だろうが。ヒヨコでも選別するのか、と千尋は突っ込みそうになるのを我慢した。
なんだかんだと理屈をつけても、結局要点はそれである。いやヒヨコじゃなくてお金の方。
不良が徒党を組むのは、数の暴力を以って弱きを挫く為に他ならない。お金を巻き上げる為に数と暴力で威圧する。または、お金の代償に組織力を以って心理的苦痛を与えるのが、彼らの存在理由と言っても良い。お金目的ではなく、暇潰しに個人を虐めて遊ぶ場合もあるが。
何にしても、群れて自慰に耽る害悪以上でも以下でもない存在だろう。
「……さっきも言ったけど、『お裾分け』する金なんてないし」
「全く無いワケじゃないんだろ? オレらには何にも無いんだから、その分カンパしてくれたっていいじゃん?」
「自分ひとり良い目を見ようだなんて許されないよー牧菜くーん?」
「幸せはみんなで共有したいでしょ? したいよね? 牧菜くん?」
不良どもは見下した笑みで千尋への圧力を強めて来た。
以前の千尋ならこの時点で完全にビビっていただろうが、自身でも不思議なほどに落ち着いている。
性根から腐った政治家に比べれば、彼らはまだ素直な良い子だと言えた。汚職警官の圧力に比べれば、不良の圧力などそよ風に等しかった。
以前、千尋から金を脅し取った経験のある不良のひとりは、相手の余裕に気が付いていた。
新入生で弱そうな獲物をひとりずつ呼び出し、それぞれから入学の挨拶金を納めさせていた時だ。半泣きになる者、反抗して殴られる者、脅されて財布を出す者。その中にいた千尋の事も覚えていたのだ。
当時の千尋は泣きもせず、それほど怯えもても見せず、渋々と財布を出すまでの間、絶妙に自分達に抵抗して見せていた。それにムカつき、結局肩を殴ったのだが。
今の千尋の態度は、その時よりも露骨だった。そして、不良のひとりはこう解釈する。
あの時と同じ、こいつは自分達を腹の中で下に見ていると。
「……あれ? なんかオレらの事舐めてない?」
「えーマージーでー?」
「あらあら、調子に乗って勘違いしちゃった? 牧菜クン?」
両側の不良が、千尋の肩に手を置いて来た。苦痛を与えようと肩を掴む手に力を入れて来ているのが分かる。
半笑いの不良のひとりが、千尋の脛を爪先で小突きながら、連続で腹を殴ってきた。
「カッコつけてんじゃねーぞ……。なんとか大臣を逮捕させたのとか、そのオヤジがバカだっただけだろ? ここには携帯電話なんて仕掛けてないよなー?」
顔を寄せ、囁くように嘲る不良少年のひとり。千尋が先の事件で決定的証拠を掴んだ手は、ワイドショーやニュース番組でも取り上げられていた。『起死回生の一手』とか、『一発逆転の策』とか持ち上げられ過ぎではあった。
それに不良少年の言う通り、アレは大臣の自爆という面も強い。そこまで追い詰めたのは、間違いなく千尋の奮戦によるものだったが。
「オレらはそんなバカじゃないしー。なぁ、もう良いから金出せよ。ホントは結構貰ってんじゃないの?」
「貰ってなくてもそれはお前の責任でオレらのせいじゃないしー。オレらに金払わなきゃならないのは変わんないしー」
「そうだ、本書こう。本を書いて出版すればベストセラー間違いなしだね。だからオレらに前借させてよー。とりあえず100万くらい」
こうなると、もう理屈も常識も何もない。ある意味で千尋も対応に窮す。
財布に余裕があるワケでもなし、あってもお金を渡すのはイヤだ。その理由もない。
どうにか相手を怒らせず、穏便に事を修める事は出来ないか。
説得は無理。殴るのも論外。助けを呼ぶにも位置的に遠い。
「なー、カーネ、カーネ、カーネ!」
「殴られたくはないだろー? いいじゃん、100万くらい牧菜クンならすぐ稼げるって」
稼げるわけないだろう。
苦悩する千尋の思いなど知らず、不良少年たちは囃し立てる。
もはや何を言っても聞く耳を持つまい。というか、この手の輩は初めからヒトの話など聞かずに自分の都合ばかりを押し付けるモノだ。
いや、人間全てが大なり小なりそんな本性を持っているのだと、千尋は先の事件で教訓を得たのを思い出す。
ならばあの時同様、それに付き合ってやる義理もないと、千尋は思った。
「お……おいちょっと待てよ!?」
「なんだよお前……? おい止まれコラぁ!!」
呆れたように周囲の不良少年たちを睥睨すると、千尋は無言のまま歩きだした。まるで、不良少年たちの存在など無いものとするように。
見た目にそぐわない千尋の力に押し退けられた不良少年たちが、怒声を吐いて千尋を阻止しようとする。
しかし腕を掴んでも、肩を掴んでも、踏ん反り返って千尋の前に立っても、その動きは全く止まらなかった。
完全に無視されている。その屈辱に一瞬で激昂した不良少年のひとりは、
「舐めた事やってんなよクソがッ!!」
ガッ、と千尋の側頭部を全力で殴りつけた。
千尋の頭が揺さぶられ、鈍い痛みが頭の横から広がってくる。
だが、
「うギイッ―――!!?」
「………!?」
殴った不良少年の方が、腕を抑えて転げ回り始めてしまった。
「お、おいどうした?」
「なんだよ藤島……、手首でもやったのか?」
体感的には、頑丈な木でも殴った感じだろうか。表面は柔らかだが、高密度の木材は時として金属よりも弾性があり強固だ。
不良少年は細かな手の平の骨が砕け、手首を骨折していた。
殴られても平気なのだから、こいつらを一切無視してこの場を離れよう。千尋としてはその程度の考えだったが、相手の有様を見て流石にヤバいと思う。自分から手を出さなくても、相手を壊し得るのかこの身体は。
「ヒィイイイィ! 痛てぇ! 痛てぇよぉ!!」
「お、おいおいフジの手、めっちゃ腫れてきてる!!?」
「や、やったなテメー!!?」
『やったな』って千尋は何もやっていない。本当に理屈も事実もないバカを相手に、千尋はそっちの方で泣きたくなってきた。だいたい殴られた方だって物凄く痛いのだ。
「ふっざけんなオラッ!!」
目を剥いた不良少年のひとりが、千尋の脛目がけてローキックを打ってくる。素人っぽくない、形になった攻撃だ。
「グアッ!! ッてぇええええぇエェ!!?」
それがかえって良くなかったのかもしれない。素人ではない蹴りを打った少年も、千尋を殴った少年同様に埃っぽい地面を転げまわる事になった。骨にヒビが入った程度で済んだのは、まだ運が良かったとは言えた。
「…………」
何も手を出されていないのに、ふたりが激痛に悶え転げている。
ウンザリした目で千尋が残りの二人を見ると、仲間の有様に青くなった不良少年がへっぴり腰で後ろに退がった。
千尋は悠々と(不良少年達にはそう見えた)、動けない二人の不良少年の間を通り抜けてその場を去る。
もしかしたら面倒な事になるかも。
その予感は後に現実となるが、この時点では千尋はそれほど深刻に考えていなかった。
逆恨みした不良少年が何をしようと、所詮は子供のお遊びに等しい。政治家も警察も敵に回して戦い抜いた千尋が、そもそも不良少年程度を恐れる理由が無かった。
◇
不良少年が自爆し、千尋が理不尽な暴力をものともしなかった学校の死角での一幕を、遠景から観察している姿があった。
そこは学校からはかなり遠い、電車の車庫の上だった。距離にして約1キロ。通常は、肉眼で見通せる距離ではない。
だが、その人物が双眼鏡や望遠鏡といった道具を使っている様子はない。本来、人が立入る事など出来ない、駐機場のカマボコ屋根の上から、裸眼のまま遠くの学生の姿を見ていた。
『確認しろ。アレが例の……?』
「顔は確認した。倒れている学生は彼を『マキナ』と呼んだ。間違いないだろう」
『……ただの子供にしか見えん。赤外線は? 内部に熱源反応は』
「無いな。ただの人間の子供に見えた」
口も動かさずに、その人物は別の場所と交信していた。上着の襟にマイク等が仕込んであっても、それならそれで声を吹き込むのには口と喉を使わねばならないだろう。
傍目には、ただ突っ立っているようにしか見えない。
「情報は正しいのか。彼がUNとAWGの造った試作型だと? 情報室の人間はジャパンコミックと報告書を取り違えたんじゃないのか?」
『………』
日本の漫画やアニメが好きな人物特有のジョークだったが、通信相手は笑わなかった。
『とにかく、事実を確認せねば本社に報告も出来ん』
「事実であれば〝フェンネル〟製との比較データ収集と、それに、あわよくば試作躯体も、だろう?」
『分かっているなら良い。やり方はいつも通り任せるが、万が一にも社の関与が明るみになる事だけは断固避けるように』
「了解」
軽く返事を返すと、その男は何気ない足取りで一歩前に踏み出してしまう。男が立っていたのは駐機場のかまぼこ型の屋根の端。その先には何も無い。
一歩を踏み外した男は、そのまま中途半端な姿勢で20メートルはあろうかという高さを落ちる。
下は砂利と小石と鉄の線路だ。叩き付けられれば、世にも無残なモザイクアートの出来上がりとなるだろう。
と思われたが。
ズドンッと激突音を立て、砕けたのは地面の方だった。
男は黒いコートの裾を払うと、まるで落着のダメージ影響など感じさせない滑らかな足取りで真昼の駐機場を後にした。