073 夢の階梯
深い眠りの中に落ちていたわたしを呼び覚ましたのは、誰かが呼ぶ声だった。
「わたしを呼んでいるの?」
声を絞り出した途端、ぱちりと目が覚めた…と思ったけど、すぐにまだ夢の中に居るのだと悟った。
目の前に見えるのは、空中に浮かぶ虹色の階段。
その階段は雲のような白い踊り場に繋がって、空高くどこまでも続いてる。
わたしはめるへんちっくな光景を見上げて、ちいさなため息とともに呟いた。
「……寝直そう」
冒険心よりも、睡魔のほうが勝ってる。
何しろ眠い、とにかく眠い。
目蓋が重くて、目を空けていられない。
ここ数日、現実で謎と不思議いっぱいの体験をし続けているから、好奇心を刺激されるような光景を見ても、あまり心は動かなかった。
その場にごろりと横たわり、丸くなって眠る体勢を整えた途端、また『声』が聞こえた。
――― たすけて
――― だれか、だれでもいい、たすけて
救いを求めるその声には、切実な想いと火急の危機に直面しているような焦りが宿っていた。
「…?」
わたしは渋々目を見開いて、周囲を見渡した。
声の主の姿は、どこにも見当たらない。
考えられるとすれば…
「上、かなぁ?」
このめるへんちっくな階段を上へ昇ってゆくのか…と考えただけで、やる気の九十パーセントが削がれた。
でも、助けを求める声は相変わらず聞こえてくる。
「夢だから知らんぷりしてもいいような気がするけど、仕方ないよね」
もう一度寝直しても安らかに眠れるとは思えなくて、わたしは渋々上へ昇る覚悟を決めた。
ふわもこな白い雲の上を歩いて、虹色の階段へと足を踏み出した瞬間、ポーンっと身体が弾き飛ばされた。
「…階段に見えるけど、実はトランポリン?」
空中から急速に落下しつつ冷静にツッコミをいれていると、背中からふわっと柔らかい処に着地した。
ごろんっと回転して身を起こし、辺りを見渡す。
わたしはふわもこな小さい雲の上に居た。
立ち上がって下を覗き込むと、地上(?)が随分遠い。
そのあまりの高さに震えあがって端から離れると、反対側の端に赤色のちいさなドアがあることに気がついた。
小人さんのお家用のドアなのか、しゃがまなければ絶対に通れないサイズだ。
「この場所には他に階段も移動手段も無いから、このドアを開けるしかない…よね?」
恐る恐るドアを開けると、ドアの向こうには真っ黒な闇が広がっていた。
「…。」
即座にドアを閉めてしまったわたしは、しばらくした後でそぅっとドアを開けてみた。
「……何も見えないけど、コレ、どうすればいいんだろう?」
こんな暗い部屋の中に入っても、きっと何も見えない。
ドアの周囲に電気のスイッチが無いか探そうとして手を差し入れると、チャリン…と硬貨が地面に落ちたような音が響いた。
「え?」
急いで辺りを見渡したけど、何も落ちてない。
視線をドアの中へ戻した時、そこには暗闇ではなく、柔らかい光が満ちていた。
その光の中に四人の人影が朧げに見える。
影絵のような黒い人影の他は、薄手のカーテンに遮られているような感じでハッキリとは見えない。
けれど、聞こえてくる会話から、性別や続柄を推測することができた。
『――この子は女の子だね、間違いないよ』
声が少し掠れている女性に、幼い男の子が尋ねる。
『おばあさま、ほんとう?』
『ああ、本当だとも。
あたしは今まで一度だって、赤ん坊の性別を見誤ったことはないからね。
…お前は妹よりも、弟のほうが良かったかい?』
『ううん、ぼく、どっちでもうれしい。
おかあさま、ぼく、妹ができてうれしいよ。
ありがとう』
複数の明るい笑い声が満ちる。
『あらあら、まだあなたの妹は産まれていないわよ』
『うちの息子は気が早いな』
若々しい声の男女はそう言いながら、ちいさな男の子を抱きしめた。
『妹が産まれたら、兄として守ってあげるんだぞ?』
『うん、ぼく、がんばる!』
力強く答えた男の子の返答に、また笑い声が上がる。
『この子の名前は何がいいかしら?』
母親らしき若い女の人の言葉に、三人はそれぞれ答えを返した。
『赤子が産まれてくるまでまだ時間はたっぷりある。
お前たちで相談して、良い名前を選んでおあげ』
『女の子なら、呼びやすい…可愛い名前がいいだろうな。
長子じゃないから、自由に好きな名前を選べる』
『おかあさま、ぼくもかんがえていいの?』
『ええ、もちろんよ』
母の膝元に抱きつきながら男の子は言った。
『ぼくはね、 …がいいとおもう。
ゆーなって、よぶんだよ』
「…え?」
ゆーな。
それは、わたしの名前?
「これは…わたしがまだ産まれていない頃の…過去の夢?」
そう呟いた瞬間、わたしはこの夢がただの夢ではない可能性に気がついた。
レイフォンさんが言うように、安眠の護符の効力がわたしの夢にも影響を与えているのなら、これは兄が見ている夢の欠片なのかもしれない。
もっとよく見ようと身を乗り出した途端、パリンっと硝子が砕け散るような音と共に映像が消えた。
元の真っ黒な闇が広がるドアを何度か開け閉めして、手を差し入れてみたけれど、二度と同じことは起こらなかった。
ドアを閉めて周囲を見回してみると、さっきまでは無かった筈の場所に虹色の階段が出現している。
わたしは迷うことなく階段へ足を踏み出して、再び天高く飛ばされた。
そこでまた別の色のちいさなドアを見つけて開く。
オレンジ色のドアを開けた途端、仄暗い闇の中から激しい剣戟の音が聞こえた。
本物の日本刀の打刀なら、こんなに派手な音はしない。
TVの時代劇の音響かな…と思った瞬間、何かが割れる音、倒れる音が立て続けに聞こえてきた。
絹を引き裂くような悲鳴と、地響きのような怒号が響き渡る。
『――おまえらは上へ行けっ、あの餓鬼を仕留めてこい!』
『させるかぁ!』
『大奥様、坊ちゃまを連れて早くお逃げくださいっ』
『我らが賊を押し留めている間に、お早く!』
激しい戦いの音が続く中、無事を祈る声があちこちから上がる。
さっきと同じで、声は鮮明に聞こえるけど、映像はほとんど見えない。
焦れるような気持ちで耳を澄ましていると、荒い息づかいで共にふたつの人影が走る姿が見えた。
『――おばあさま、おとうさまと、おかあさまは?』
『あの二人は、 候の急使に呼ばれ、留守にしていたんだよ。
ひょっとしたら、全て仕組まれていた可能性もある。
こうなると、誰が本当の味方なのか…』
『おとうさまと、おかあさまは、ごぶじ、なの?』
『大丈夫さ。
うちの婿殿は…お前の父上は、強い。
自分の身と母上を守る術を身につけているから、心配ないよ』
『…ほかのみんなは?』
『押し入ってきた賊と戦って、追手を防いでくれている。
今は、自分が無事に逃げ延びることだけ、考えるんだよ。
それが、皆の忠心に報いることになる』
『……はい』
二人の会話が途切れるのとほぼ同時に映像が消え、真っ黒で何も見えなくなった。
わたしはすぐにドアの扉を閉めて次の階段を探し、また別の階に飛んで扉を探した。
次のドアは黄色だった。
あの二人は無事に逃げ延びることができただろうか…と考えながらドアの中に手を差し入れると、男の子の泣き声が聞こえてきた。
『おばあさま、いやだ、いやだよ!』
『おやおや、何だい、怖気づいたのかい?
男の子だろう?』
『おばあさまをおいて、ぼくだけにげるなんて、できないよ。
いっしょじゃなくちゃ、いやだ。
ぼくのかわりに、おばあさまがころされちゃう』
ちいさな男の子はふるふると頭を振って全身で拒否の意を伝えている。
祖母であろう女性は男の子を抱きしめながら言った。
『あたしはもう、十分に生きた。
棺桶に片足を突っ込んでいる婆ぁより、ちいさな子供を生かすのは当然のことさ。
昔から皆がそうやって、年若い女子供を守りながら命を繋いで…今まで生き延びてきたんだよ』
『…。』
『これからお前を送る場所は、間違いなく安全な処だ。
そこにはあたしが誰よりも信頼している人が居る。
間違いなく、お前を守り、慈しんでくれるから』
彼女はそう言うと、不可思議な呪文を唱え、男の子の右手に何かを握らせた。
『おばあさま、これは…』
『ソレがあたしの代わりにお前を守り、あの子の下へと導いてくれる』
『いらないよ、ぼく、こんなだいじなもの、あずかれないよ。
かえす……あれ、どこにきえたの?』
『ふふっ、無くなってしまった物は、もう返せないね』
『そんな…』
『術が発動するまで、あたしが時を稼ぐ。
老いたといっても、あたしも 家の女で、 の継承者。
そう簡単にやられはしないよ』
『いやだ、ぼくひとりがたすかるなんて、いやだよっ』
『あたしは一緒に行くことはできないけれど、心はいつもお前と共に在る。
あたしも、お前の父上と母上も、お前の幸せを祈っている。
生きて、強く、賢くなるんだよ。
望む未来へ続く道を、自分の力で選び取れるように。
大切な人を、守れるように』
パリンっ。
また硝子が砕けるような音と共に映像が消え、ドアの中が暗闇に閉ざされた。
わたしはドアを閉め、虹の階段を踏んで上へ飛び、また次のドアを探した。
今度のドアは緑色。
最初の赤いドアに比べると、少しづつ…でもハッキリと解るくらい、ドアの大きさが小さくなっている。
その変化を不思議に思いながら緑色のドアを開けると、またちいさな子供の泣き声が聞こえてきた。
子供が泣きじゃくって、呼吸困難を起しているような音だけが聞こえる。
やきもきしているうちに、遠くから密やかな足音が近づいてきた。
足音が止まると、扉の中がぼんやりと明るくなって、二つの人影が浮かび上がる。
『また怖い夢でも見たのかい?』
『おばあさまが、おばあさまが…っ』
『あたしはここにいる、お前の傍にいるだろう?』
『…うん』
『誰も死んでなんかない。
あたしも、爺さんも、お前の両親も無事だよ。
お前が泣くようなことは、何にもない。
…だから、泣くのはおよし。
そんなに泣いたら、目玉が溶けちまうよ』
『ゆーなは?
ゆーなも、ちゃんといきてる?』
『あの子も無事だよ。
今夜はもう寝てる。
まだ赤ちゃんだからね』
『…よかった。
おばあさま、またあした、けんじゅつをおしえてね』
『そりゃぁかまわないけど……お前も毎日厭きないねぇ。
たまには子供らしく、一日中遊んでいてもいいんだよ?』
『ううん、ぼく、あそぶよりも、おべんきょうと、おけいこするほうがいい。
そしてね、つよくなって、ゆーなをまもるんだ。
だってぼく、おにいちゃんだから。
まもるって、やくそく、したんだよ。
たいせつなひとを、まもれるようになるって……やくそく…』
『…ほら、もう眠いんだろう?
続きはまた明日にしな』
『うん…そうする』
しばらくすると、規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。
もう終わりだと思い扉に手をかけた時、ちいさな呟き声を耳が拾った。
『――失くしても惜しくないと思っていたけれど、贅沢だったね。
今…必要なのに、使える力は僅かで、時も足りない』
彼女は重い溜息をつきながら立ち上がり、部屋を出てドアを閉めた。
そして、顔を上げて宙を見据える。
「?」
何が見えているんだろうと思った瞬間、扉の中の映像が鮮明なものにパッと切り替わった。
今まで薄ぼんやりとして人影しか見えなかったのに、急に色つきでハッキリと見える。
映像の中からこちらを見返しているその人の顔を、わたしはよく知っていた。
写真の中の記憶しかないけれど、見間違う筈がない。
「おばあちゃん…?」
わたしが思わず口走った言葉に、彼女は目を丸くして問い返した。
「…優奈?
あたしの孫の?」
「うん、そう。
わたし、優奈だよ」
あわてながら答えると、おばあちゃんは目を細めてわたしを暫く見つめ、その後早口で言った。
「あまりにも昔のあたしにそっくりだから、幻かと思って見ていたけど…どうやら本物みたいだね。
優奈、よくお聞き。
お前の今の状態は、かなり不安定な状態だよ。
いくつもの術と魔力が複雑に影響しあっていて、こんがらがった毛糸玉みたいに見える」
「そう…なの?」
「ああ、叶うのなら、すぐにお戻り。
その様子だと、自分で望んでここに来たんじゃないんだろう?
精神だけ時を遡るなんざ……世界の理に大きく反することは、魔力を激しく消耗する。
魔力が切れたら、肉体に戻れなくなるよ」
おばあちゃんが怖いくらい真剣な顔をして言うので、わたしは大人しく従うことにした。
こくりと頷き、急いで扉のドアノブを掴んだ。
扉が閉まる直前、おばあちゃんの声が聞こえた。
「優奈、優人のことを頼むよ。
あたしが死んだ後、あの子を止められるのは、きっとお前だけだから」
…お兄ちゃんを止める?
おばあちゃんは、どんな未来を予想しているの?
問い返したかったけれど、ちいさな緑色の扉はもう閉まってしまっていた。
ノブを回して開けようとしたけれど、鍵がかかってしまったようで、開けられない。
おばあちゃんに聞きたいことは沢山あったのに、何も聞けなかった。
折角の機会を逃してしまって……何か取り返しのつかないことが起きたらどうしよう。
わたしが言い様のない不安に駆られていると、また救いを求める『声』が聞こえてきた。
――― たすけて
――― だれか、だれでもいい、たすけて
――― ここからだして
その幼子のようなたどたどしい言葉遣いの印象が、幼い頃の兄とさっき見た映像の中の男の子に重なる。
改めて周囲を見渡してみたけれど、誰も見当たらない。
「あなたは、誰?
どこにいるの?」
呼びかけた声に応えはなくて、ただすすり泣く声だけが聞こえてくる。
見つけて、慰めて、助けてあげたい。
……そう思った瞬間、ぱちりと目が覚めた。