071 推測
「――という訳で、エリオットが悪いんじゃないんです」
突然現れたレイフォンさんにわたしが事情を説明し終えると、彼は厳しい表情を和らげてエリオットに謝った。
「私の早とちりだったようですね。
すみません」
「いいえ、気にしないで下さい。
…そんなことより、レイ先輩、大丈夫ですか?
酷くお疲れのようですが」
「そう…ですね、確かに疲れています。
< 誓約 > の準備に加えて、魔獣の情報の取りまとめに追われ、朝から休む暇なく働いていましたから」
レイフォンさんはそう言いながら、ソファに身を投げ出すようにして座った。
エリオットはそんな彼を心配そうな表情で見ている。
私はエリオットのローブの袖をツンツンっと引っ張って訊いた。
「レイフォンさんにお茶とケーキ、出してあげてもいい?」
「あ、そうですね。
…いえ、僕がやります」
「そう?
じゃあ、わたしはここの本を片づけておくね」
「はい、よろしくお願いします」
装丁の種類ごとに本を分類し、同じ装丁の本が入っている棚を探して一冊づつ戻してゆく。
綺麗に片づけ終えてから振り返ると、部屋に差し込んでくる光がほのかなオレンジ色に変わっていた。
レイフォンさんはソファに深く腰掛けたまま、目を閉じている。
ひょっとしたら、眠ってしまったのかもしれない。
わたしはちょっと迷いながら、レイフォンさんの向かい側のソファに腰かけた。
何もすることがなくて、ぼんやりと彼の姿を眺める。
今朝別れた時よりも、ずっと顔色が悪い。
血の気のない白い肌は病人のようだった。
青みを帯びた銀髪が夕日を浴びてキラキラと輝いて見える。
もっとよく見ようと身を乗り出した途端、ソファのスプリングが軋んだ。
その音と同時に彼は目を開け、青灰色の瞳にわたしを映した。
「――姫?」
「あ、起してしまってごめんなさい」
「いえ、うたた寝をしてしまった私が悪いのですから、どうかお気になさらずに。
……私のことを注視していらしたようですが、何か?」
音じゃなくて視線を感じて目が覚めたの?
わたしは慌てて適当な理由を口にした。
「えっと、あの、色が似ていると思って…見てました」
「色?」
「はい。
おばあちゃんと一緒に火竜と闘ったという…狼に似た魔獣の毛並みが、レイフォンさんの髪の色とよく似ていたので」
わたしがそう言うと、レイフォンさんは一瞬目を丸くして、破顔一笑した。
「昔、姫と同じことを、エリオットからも言われたことがあります」
楽しそうに笑い続けているレイフォンさんの席の前に、エリオットがケーキとお茶が並べた。
「遅くなってすみません。
疲労回復に効くハーブティを淹れてきました。
こちらのケーキはユーナの手作りです」
「あぁ、ありがとう。
いただきます」
エリオットはわたしの隣の席に腰を下した。
「ずいぶん楽しそうでしたが、二人で何の話をしていたんですか?」
「話込んでいた訳ではありませんよ。
昔、エリオットと初めて会った時に言われたことを姫からも言われて、それが可笑しくて笑っていただけです」
「僕が先輩と初めて会ったとき…ですか?」
「貴方が五歳…いえ、四歳の時の話ですから、覚えていないかもしれませんね。
貴方は挨拶もそこそこに私の髪の毛を『狼王と同じ色』だと言って、触ってみたいと駄々をこねたのですよ」
「「…。」」
「この国には銀髪の人間が少ない上に、私と同じ髪の色をした者が他に居なくて、中傷の対象になったり、気味悪がられることが多かったものですから、ちいさな貴方から憧れの目で見られて、くすぐったいような…不思議な気持ちになったことをよく覚えています」
レイフォンさんはそう言うと、静かにケーキを食べはじめた。
エリオットが困惑していることに気がついたわたしは別の話題を探した。
「エリオットはそんなにちいさい頃からおばあちゃんの絵本がお気に入りだったの?」
「…あ、はい、そうです。
姉さまたちにせがんで、寝物語はいつもリリアーナ様の絵本を読んでもらっていました。
そのうちに絵本以外のお話も知りたくなって、自分で大人向けの本を読めるようになろうと、毎日一生懸命勉強して…読み書きを習得する良い目標になっていましたね」
「そうなんだ。
それで今でもあんなにたくさんの本を持ってるんだね」
わたしはエリオットの答えに頷き、本棚にチラリと視線を投げた。
「――エリオットはリリアーナ様を敬愛していますから。
初恋のお相手もリリアーナ様なのでは?」
レイフォンさんが人の悪い笑みを浮かべながら口を挟むと、エリオットの頬は赤く染まった。
「レイ先輩、僕をからかって遊ぶのは止めて下さいっ」
「おや、そんなにムキになるということは、図星でしたか?」
「…っ!」
しれっと言い返されて、エリオットは口を噤んだ。
エリオットはむっとした表情を隠さずにレイフォンさんを睨んでいるけれど、全然迫力がない。
睨まれている当の本人はにやにや笑いながら悠然とお茶を飲んでいる。
(レイフォンさん、すごく楽しそうだなぁ)
わたしは内心呆れながら軽く咳払いをして、話を逸らすために口を開いた。
「魔獣の情報の取りまとめをしていたそうですが、何か新しく解ったことはありましたか?」
彼はわたしの質問を聞くと、片眉を少し上げてこちらを見た。
わたしは平静を装いつつ、視線を逸らさずに見つめ返す。
こっちの話のほうが重要なんだから、話題を変えるのは不自然じゃない…よね?
うちの子で遊びたいのは解るけど、いぢりすぎは良くないと思います。
レイフォンさんはティーカップを静かにソーサーの上に置いてから、ゆっくりとした口調で話を始めた。
「――お師匠さまが研究室に籠ったまま出てきて下さらないので、私が今回の異常事態を調査する統括責任者として動いています。
五ヶ所の実技試候補地に部下を派遣し、南西の森に最近立ち寄った者を探し出して、該当者から聞き取り調査を行いました。
近隣の住人や隊商を組んで魔獣の縄張り近くを通過した商人たちの話には、いくつか気になる共通点がありまして…」
「共通点?」
「はい。
十日ほど前から示威行為と思われる行動…魔獣が頻繁に遠吠えをしたり、瘴気の範囲を広げたりしていたことが確認されています。
通常このような動きが見られた後には、魔獣同士の縄張りをめぐる激しい争いが起きるものなのですが、丹念に調べても争ったような形跡は何処にも見当たらなかったそうです」
レイフォンさんはそう言いながら空中に右手を差し伸べて、素早く呪文を唱えた。
自分の手の中に筒状のものを呼び寄せると、それをテーブルの上に広げ、指で指し示しながら話を続ける。
「西南の森はここ、その他の五ヶ所…治療士実技試験の候補地は、地名の下に赤線を引いてあります」
その地図をじっと見ているうちに、ふと気がついた。
西南の森が一番王都に近いけど、他の場所の位置は…。
「王都を中心に、ほぼ同心円状にあたる場所ばかりなんですね」
わたしの呟きを聞くと、レイフォンさん満足げに頷いた。
「はい、その通りです。
ヴァルフラムと候補地の選定をしているときは、そこまで気がつきませんでしたが…」
わたしは改めて地図に向き合い、情報を読み取ろうと努めた。
魔獣の行動の変化は十日ぐらい前から。
王都から同じくらい離れた場所が彼らの棲家。
実際、距離にするとどれくらい離れているんだろう?
地図の四隅に視線を走らせ、右下の隅に距離を示す記号を見つける。
ええと…このKは多分キロメートルの略字だから、半径二十キロぐらいの場所に棲みついていた魔獣に何かが起きたってことだよね。
中心の王城に何か理由があったのか、それともその距離……その位置に何かあるのかな?
「西南の森の魔獣が居なくなっているのが解ったのは、いつの話でしたっけ?」
わたしの問いに、レイフォンさんはサラリと答えた。
「ユートの話によれば、一昨日の夜ですね。
その一報を受けて翌朝ヴァルフラムの部下が確認に赴き、本当に魔獣の姿が消えていることを確かめたそうですよ」
一昨日の夜ということは、二日前の夜。
「二日前の夜って…何か変わったことあった?」
隣に座っているエリオットの顔をのぞきこむようにして尋ねると、彼はビクッと身体を震わせてのけぞった。
何だね、そのその怯えたような態度は?
わたしとレイフォンさんの話を聞いてなかったのかな?
疑いの眼差しでじぃっとエリオットを見つめると、彼はプルプルと頭を振った。
「――いえ、ちゃんと話は聞いてました……本当です。
今のはちょっと、その、距離が近すぎて…」
「?」
「いえ、何でもないです。
ええと、二日前の夜の話ですよね。
……僕にとっては、ユーナをこちらの世界に喚んだことが一番重大な出来事ですが、他に王都で何か変わったことが起きたかどうかというのは、ちょっと解らないです」
レイフォンさんとエリオットが騎士団や王都の自警団の日報を調べてはどうか…と相談している横で、わたしはまったく別のことを考えていた。
異世界に来て三日目だということは覚えていたけど、二日前の夜に来たと言い換えられることには今まで気がつかなかった。
こちらに着いた時間って、そんなに遅い時間じゃなかったよね?
時計は確認していなかったけど、お昼を抜いていた腹時計の具合から考えると…十九時ぐらいかな?
おじいちゃんの研究室でカレーを温めて食べていた匂いを兄に指摘されて大変だったことまで思い出した途端、ふっと心の隅にもやもやしていた疑問の答えがハッキリと形になって現れた。
二日前の夜、『黒の加護』を得ているわたしが、異世界に来た。
もし魔獣がそれを察知できていたのだとしたら、それは…。
「――わたしの、匂い?」
わたしの唐突な言葉に、二人はびっくりしたのか話を止めた。
「姫?」
「ユーナ?」
一からちゃんと説明しなくちゃと思いながら、逸る心を抑えられずに先に質問をする。
「おじいちゃんの研究室の換気って、どうなってるの?」
「「?」」
「二日前の夜、わたしが異世界に来た時、『魔導士の塔』には結界が張ってあったけど、お兄ちゃんが…優人が塔に入ってきた。
そしておじいちゃんの研究室の扉を空けて、『この部屋の中からカレーの匂いがする』と言っていたよね。
…ということは、カレーの匂いは扉の外や塔の内側には漏れていなかったってことだと思うんだけど、それは間違いない?」
わたしが一気にそこまで話すと、二人はお互いの顔を見合わせ、ほぼ同時に頷いた。
「この塔の研究室では危険な薬剤を用いた実験も行われます。
その際、人体に悪影響を及ぼす気体が発生することもありますから、排気は塔の内部や周辺ではなく、離れた場所へ流れるように設定されているそうですよ」
レイフォンさんの台詞にエリオットが言い足す。
「この塔の天辺から更に十メルくらい離れた上空に放出されている…とお師さまから聞いたことがありますけど、それが何か?」
二人の答えを聞いて、裏付けがとれた。
わたしがおじいちゃんの研究室に現れた瞬間から、部屋の中の匂いが外に漏れていた。
それなら、多分、間違いない。
二人は怪訝そうな表情を浮かべてこちらを見ている。
わたしは全てを話そうと口を開き、すぐに閉じた。
この話をレイフォンさんに知られても大丈夫かどうかを急いで考え直し、不安要素はあるけど説明しないわけにはいかないと判断してから話をはじめた。
「二日前の夜、西南の森の魔獣が見つからなかったのは、多分、わたしの匂いに気がついて、身の危険を感じてすぐに逃げたからだと思います。
精霊さんたちから教えてもらった話ですが…」
わたしは二人に精霊さんたちから聞いた話と推測を手早く伝えた。
おばあちゃんが魔獣討伐に赴く際、自分の匂いを封じる術をかけていたことを。
この塔の上空から排出された空気の中のわたしの匂いを察知して、匂いの届く範囲に居た魔獣が姿を消したのではないか…と。
「匂いを封じる術をかけなければ、魔獣が逃げてしまう…?
精霊たちが姫に嘘を教えるとは思えませんが、そんな話は今まで聞いたことがありません。
『黒の加護』由来のものではなく、数多くの魔獣を狩っていたリリアーナ様だから、という可能性もありますね。
いや、それでは、姫の匂いに魔獣が反応するのはおかしい…か。
しかし、リリアーナ様と姫は祖母と孫…容姿も良く似ていますから、お二人の匂いがほぼ同一ならば、魔獣にその区別がつかなくても不思議はない…?」
わたしの話を聞くと、レイフォンさんは眉根を寄せ、小声で呟きながら深く考え込んでいる。
そんなところもおじいちゃんと同じなんだな…と思いながら、そっとエリオットに目配せをした。
精霊さんたちのことは、話さない。
数多の神々の加護を受け精霊にも慕われる者が発している…人には解らない香気があることを。
その香りが彼らに及ぼす影響と、それに似せて作った香水が現存していることも教えない。
エリオットはわたしと目が合うと、黙って頷いてくれた。
言葉で伝えなくても意図を酌んでくれている様子にホッとして、思わず笑みがこぼれる。
「――姫?」
不意に声をかけられ、わたしは慌ててレイフォンさんを見た。
「はい、何か?」
「何か、と問いたいのは私のほうなのですが」
ため息交じりにそう言われても、何の事だかサッパリ解らない。
への字になりそうな口元を見ると、明らかに機嫌が悪そうなんだけど…何でだろう?
わたしはぼんやりとレイフォンさんの顔を見ているうちに、重大なことを忘れていたことに気がついた。
「……そういえば、うちの愚兄は、今、どこで何してるんですか?」
鍵も結界も効かない傍迷惑な加護を持っている奴の動向を把握しておかないと、我が身が危ない。
「ユートなら、先程お師匠様の研究室に入りましたよ。
女王陛下へ現時点で判明している事についてのご報告を終えてから、二人で塔へ戻ってきたのです。
私はお師匠様の結界に弾かれてしまいましたので、こちらに来ました」
レイフォンさんの返答を聞くと、わたしは直ぐにソファから立ち上がった。
「多分、兄は今朝のわたしと同じように、神剣のことについて話をしているのだと思いますが、おじいちゃんとの話が終われば外へ出てくるでしょう。
今日は透明マントも持ってきていないし、早めに違う場所へ移ったほうがいいと思います」
髪の毛と瞳の色は変えてあるし、匂いの対策は二重にしてあるけど、至近距離で兄と遭遇した場合、女王陛下から借りた…『はじまりの魔法使い』が作った眼鏡の効力だけで、あの兄を誤魔化せるかどうか自信がない。
「そうですね、ユーナは今でも十分に変装していますが、まだ声音を変える術を手に入れていませんから、返答を求められたりしたら危険です。
ユートと鉢合わせしないように、今すぐ移動しましょう」
エリオットもわたしに同意しながら勢いよく立ち上がる。
わたしたちの話を黙って聞いていたレイフォンさんは、大儀そうにゆっくりと腰を上げた。
「私が姫をお送りしてきますよ。
エリオット、貴方ではあの場所の座標は解らないでしょう?」
「レイ先輩はお疲れでしょう?
確かに僕が訪れたことのない場所ですから < 転移 > はできませんが、馬車で送っていきますから大丈夫です」
「しかし、それでは…」
エリオットはレイフォンさんの言葉を待たずに、強い口調で言った。
「今後のことを考えると、レイ先輩が用意した『隠れ家』へ行って、場所を覚えたほうがいいと思うんです。
一度行けば、僕も座標を覚えて < 転移 > することができます。
行きに時間がかかっても、帰りに術を使って戻ってくれば、それほど時間はかかりませんし」
「それは、確かにそうですが…」
「今夜も塔に泊まるという話は、相談して既に決めてあるんです。
ユートをめぐって争いを起こす治療士候補の人達は戻ってきていませんから、しばらくの間僕がいなくても問題ないと思います。
ユーナのことは僕に任せて、レイ先輩は少しでも休んでいて下さい。
お師さまの代わりができるのは、先輩だけなんですから」
エリオットがそう言うと、レイフォンさんはちいさなため息をついて頷いた。
「ここのところ睡眠不足の日が続いていますし、今日のところは貴方に甘えることにしましょう。
貸別荘にはジュリアが待機している筈ですので、あちらに姫を送り届けたら、後のことは彼女に任せて戻ってきてください」