068 異変
突然現れた兄の台詞と容姿に、お針子さんは顔を真っ赤にして硬直し、手にしていたリボンとハサミを床に落とした。
彼女は慌てて拾ったけれど、兄が自分の動きを見ていることに気がつくと、拾ったものをまた取り落とす。
見ていて気の毒になるくらい動揺している。
「あ、あのぅ…そのような事を言われましても…こ、困ります」
彼女は改めて拾い直したリボンとハサミをガラスのテーブルの上に置いた。
赤く染まった頬を両手で押さえつつ、兄の顔から目を逸らしながら断りの言葉を紡ぐ。
「ただ今店主は外出しております。
店主不在の間は私がこの店の留守を預かっておりますが、私は雇われの身ですし…今は店内にお客様もいらっしゃいます。
あなた様が公職に就いている御方で、お役目のために店内をお調べになりたいというのであれば、お断りすることはできないのでしょうが……せめてお客様がお帰りになるまで待っていただけませんか?」
彼女の返答を聞いて、兄はジュリアさんに視線を移す。
兄が言葉を発する前に、ジュリアさんが先に口を開いた。
「――貴方にお会いするのは初めてではないけれど、とりあえず『初めまして』と言っておくわ。
あたしの名前はジュリア・ラウエル。
ラウエル子爵夫人と名乗るよりは、ヴァルフラムの姉だと言ったほうが貴方には解りやすいでしょうね」
「ヴァルフラムの…?」
「うちの愚弟、ヴァルフラム・ヴァーンシュタインから、あたしの話を聞いていない?」
「上に兄と姉が一人づついるという話は彼から聞いたことがあります。
そう言われてみれば、貴女とヴァルフラムは顔立ちがよく似ている…」
怪訝そうな表情を浮かべながら歩み寄ろうとした兄を、彼女は身振りでビシっと押し止めた。
「申し訳ないけど、それ以上こちらに近寄らないでちょうだい」
「…?」
「貴方に他意がなくても、あんまり近くへ寄られると、いろいろな問題が発生しそうなのよ」
ジュリアさんはそう言いながら、横目でお針子さんをチラリと見る。
彼女が潤んだ目で自分を凝視している様子を見て、兄はジュリアさんの言葉に納得したのかちいさく頷いた。
ジュリアさんのお蔭で、兄はお店の出入り口近くに留まっている。
わたしが居る試着室はお店の一番奥。
カーテンも閉まっているから、直ぐにバレる危険は無さそうだった。
逃走経路を兄に塞がれているし、『透明マント』も無い。
逃げるどころか、隠れ場所を変えることすら危ぶまれる。
ここはジュリアさんに任せて様子を見ることにしよう。
「貴方に魅惑的な美貌の持ち主だという自覚があって良かったわ。
…まぁ、それはともかく、質問させてもらっていいかしら?
貴方、どうして免税市場に居るの?
今朝早くに王都を出発して、治療士選抜のための最終試験に参加している予定だったでしょう?」
ジュリアさんの質問に、兄は僅かに目を細めて問い返した。
「――随分とこちらの事情にお詳しいんですね。
弟さんとは頻繁に会って話をしているんですか?」
「ヴァルフラムから聞いたんじゃないわ、女王陛下から伺ったの。
あたしは王城で働いていたから、友達もたくさんいるし、情報を入手する伝手はいくらでもあるわ」
「…。」
「貴方は国中の注目の的で、今一番熱い話題の人だもの。
火竜退治に挑む、リヴァーシュラン伯爵家出身の新たな勇者としてね」
それまで二人の会話を黙って聞いていたお針子さんが、驚いたのかぴょこんっと飛び上がった。
そして早口で尋ねる。
「この方が、あの?
ルスキニアの騎士団さえ討伐できずにいた、北の森の魔狼・南海の海蛇・西湖の人面魚・東峰の怪鳥を、瞬く間に倒してしまったという、あの噂の勇者様なのですか?」
「…!」
わたしは試着室の中に隠れていることも忘れて、思わず素でツッコミを入れそうになった。
(何そのRPGっぽい東西南北の討伐クエスト!
魔獣のLvがだんだん上がっていく展開もお約束だったのかな?)
そんなことを考えている間にも、思わず笑いだしてしまいそうな兄の武勇伝話は続いていた。
「国境沿いの街道で、盗賊に襲われていた隣国の貴人を、颯爽と助けたというお話も聞きました。
その際に頂いた多額の謝礼金を、貧しい孤児院に全額寄付なさったということも、国中に広まっていますわ。
強くて、優しくて、情け深い御方…さすがはリヴァーシュラン家の方だと、皆が勇者様を褒め称えております」
(うわぁ、よくある王道なイベントも発生してたんだ。
困っている人を助けて名声や仲間との親密度が上がった経緯は、詳しく聞いても面白くなさそう…)
わたしはこっそりと盗み聞きしながら、他の笑える冒険を期待して耳を澄ます。
ジュリアさんが興奮しているお針子さんを落ち着かせた後、兄はさきほどの質問に答え始めた。
「――貴女が聞いた通り、俺たちは今朝早く王都を発ちました。
治療士選抜のための最後試験は、魔獣の討伐と同時に行う予定でした。
王都の近くに棲みついていた魔獣…人が近寄らなければ害が無いと放置されていた魔獣の縄張りを巡り、火竜討伐に志願した人たちと治療士の実技試験を一度に済ませてしまう筈だったのですが、肝心の魔獣が消えていたんです」
兄の言葉に、ジュリアさんは眉を顰めた。
「情報が古かったのかしら。
誰かに倒された後だったとか、魔獣同士の縄張り争いで負けて姿を消した可能性は?」
「行き先を決めたのは、ヴァルフラムとレイフォンでした。
宮廷次席魔導士と騎士団長の二人が参考にしたのは、最新の調査に基づいて作成された報告書の内容だったそうです。
それが一ヶ所だけならば不審には思わなかったかもしれませんが、五ヶ所の実技試験候補地の全ての魔獣が居なくなっているとあっては、何かが起きているとしか考えられない……という結論に達しました」
「五ヶ所…か。
それは確かに、多すぎるわね」
「現時点で魔獣が消えたと解っている場所は、『南西の森』も加えて全部で六ヶ所です」
「南西の森って……確か、旅人の荷を強奪する猿の魔獣が夜中に出没する場所だったわよね」
「はい。
一昨日の夜に一人でソイツを倒しに行ったんですが、魔獣は姿を現しませんでした。
念のため、昨日も騎士団の人に頼んで確認しに行ってもらいましたが、気配どころか瘴気すら無くなっているという報告を受けました」
「…瘴気は魔獣が自らの力を誇示し、縄張りの範囲を示すもの。
それが無くなっているということは、本当にその場所からは居なくなったってことよね。
一体、何が起きているのかしら?」
「解りません。
西南の森の件は昨夜グレアム師にも報告しておいたのですが、他の場所の魔獣も次々と消えていることを早急に女王陛下へ報告すべきだと意見がまとまったので、試験の続きはヴァルフラムと騎士団の人たちに任せ、俺とエリオットだけ王都へ戻ってきたんです。
エリオットは王城へ報告に向かい、俺は消えた魔獣の足取りを探して、情報収集しながら免税市場へ来ました」
ジュリアさんは急に表情を強張らせると、真剣な口調で訊いた。
「魔獣がこっちに向かっているのを見た…という情報でもあったの?」
「いいえ、魔獣の目撃情報は今のところ何一つ得られていません。
魔獣の情報はありませんでしたが、王都周辺の村の人たちから『野鳥の姿を見かけなくなった』という情報が多く寄せられたのが気になって…。
ここ数日、王都では逆に『小鳥の数が増えた』と噂になっているんです。
鳥と魔獣の不可解な動きには何か関係があるのではないかと思い、鳥の群れが多く飛来してきている場所を順番に調べています」
兄の話を聞いて、ジュリアさんとお針子さんは首を傾げた。
「鳥?
確かに海鳥が多く飛んでいる気はするけど…」
「それは海の近くだけで、市場の中央…内陸の人の多い場所ではあまり見かけませんよ」
半信半疑といった体の二人を見て、兄は苦笑いをしながら説明を付け加えた。
「俺が妙だな…と思ったのは、ソコなんです。
野鳥…小さい鳥は普通、人の目を気にせずに大きな木や広場に集うでしょう?
でも、王都に集まっている鳥たちは、人目につく場所では群れていない。
だからこそ余計に、王都のあちこちで沢山の人が鳥の姿を目にしているようです」
「小鳥が群れているのは、外敵から身を守るためよね?
敵がいない…魔獣が姿を消したことを解った上で、いつもとは違う行動に出ているってこと?」
兄はジュリアさんの問いに頷いた。
「その可能性が高いと考えて、調べようと思ったんです。
不可解な動きをしている鳥が一種類じゃない点も、気になります。
何者かの術に操られている可能性も捨てきれませんから」
わたしは兄の話を聞きながら、鳥の姿を見かける機会が多かったことを思い出していた。
(確かに、昨日の朝…ヴァルフラムさんのお家のベランダに、人懐っこい小鳥さんたちが沢山集まってたなぁ。
ヴァルフラムさんが餌付けしていたのかと思ったけど、違うって言ってたし。
長い間人が居なかった屋敷に、鳥が集まっていたのは…ただの偶然?
女王陛下とお会いした空中庭園の鳥さんは極彩色だったから、野生じゃなくて、飼われているんだろうけど…)
「なるほどね、貴方が免税市場にいる理由はよく解ったわ。
もうひとつだけ訊きたいことがあるんだけど、いいかしら?
…この店の中を調べたいっていう理由は何?」
ジュリアさんはさりげない口調で本題に切り込んだ。
心の中で彼女へ声援を送りながら、わたしも疑問に思った。
(そういえば、どうしてわたしが居るお店の中に入ってきたのかな?
わたしの匂いは魔道具のイヤリングで封じているから、手がかりなんて何も無いはずなのに…)
「貴方はこの国の名家の出で、数多の魔獣を退治し続けてくれている人だけど、何の権限も無いのは自分でも解っているのでしょう?
店の主の留守に、若い女の子を言いくるめるような真似は感心しないわ」
ジュリアさんは腰に手を当てて、兄の顔を見上げている。
その眼差しは酷く険しい。
「――そうですね、すみません」
兄は彼女の指摘を認め、お針子さんに頭を下げて謝った。
「あり得ないと思いつつ、どうしても気になることがあって……失礼しました」
兄の謝罪を受けると、お針子さんはまた顔を真っ赤にして動揺している。
「いえ、あの、大丈夫です。
その気になることって、何ですか?
うちのお店には特別珍しいものは置いていないんですけど…?」
不思議そうに首を傾げた彼女に、兄は切羽詰まった口調で訊いた。
「この店に、黒髪黒目の女の子が来ませんでしたか?」
「黒髪黒目の…?
いいえ、そんな方は一人も来てません」
「十三歳くらいの…いや、十七歳くらいの背格好の女性客は?」
「今日いらした女性のお客様は、二十代から三十代の方ばかりでしたわ」
「…。」
お針子さんの返答を聞くと、兄は黙って目を閉じた。
わたしは息を潜めて、カーテンの隙間から兄の様子を窺う。
(今の質問…妹が店に居るんじゃないかって、疑ってるってことだよね?)
わたしがそう思った瞬間、ジュリアさんが兄に話しかけた。
「――誰かを探して、この店に入ってきたの?」
「はい。
異世界に居るはずのない、妹の匂いを辿って来ました。
この店の前で途切れていたので、店内に居るのかもしれないと思ったんです」
「「…。」」
お針子さんは兄の返答が理解できなかったのか、怪訝そうな表情を浮かべている。
ジュリアさんは無言で兄の様子を窺っていた。
兄のチートな嗅覚で追跡されていたことを知ったわたしは、恐慌状態に陥った。
(…え、何で?
まさか、イヤリングをどこかに落として、魔法の効果が切れてた?)
慌てて試着室の鏡で確認する。
イヤリングはちゃんと両耳に装着されていた。
(ひょっとして、コレ、故障してる…とか?)
レイフォンさんたちが急いで作ってくれた魔道具だから、不具合が起きてもおかしくはない。
悪い予想ばかりが次々と浮かんでくる。
おろおろとしているわたしの耳に、ジュリアさんの毅然とした声が聞こえてきた。
「匂いだなんて……そんな不確かなことが根拠だったの?
このお店には貴方が探している女性客は来ていないそうだし、早く異変の調査にお戻りなさいな」
ジュリアさんは兄の脇を通り過ぎ、お店のドアノブに手をかけた。
ドアを開け、兄に早く出ていけと行動で示すつもりだろう…と予測していると、突然兄が動いた。
ジュリアさんの足元に跪き、彼女の左手に口元を寄せる。
「ちょっと、貴方いきなり何をするの?」
ジュリアさんは即座に兄の手を振り払い、後ずさりした。
兄は一歩でその距離を詰める。
「――貴女から優奈の……妹の匂いがする」
「…っ!」
兄はジュリアさんを壁際まで追い詰め、彼女の耳元に顔を寄せて尋ねた。
「貴女から漂ってくるこの匂い…何処でついたのか、教えて下さい」
「…。」
「答えられないのですか?
それとも、何か言えない事情でも?」
威圧感を漂わせながら問いを重ねる兄に、ジュリアさんが小さな声で何か言った。
「……なさい」
「?」
「もっと離れなさい!
近寄らないでって、さっき言ったでしょうっ」
彼女の叫び声と同時に、パンっと乾いた音が店内に響き渡った。
兄の右頬には手の形をした真っ赤な痣が浮かび上がる。
それを見て「漫画みたい」だと思った瞬間、わたしの緊張は少しだけ解れた。
■2013.09.30 優人とジュリアの台詞を一部加筆修正