成長期とアゼルさん
夏だと言うのに太陽は顔を隠し、どんよりと曇っている。
窓際の教室にある自分の席に座って、琴子は頬杖をついてそんな空を眺めていた。教室には琴子の他に数人生徒がいたが、その誰もが帰り支度をしている。その内のひとりが琴子に向かって手を振ってきた。
「ましゅまろ、バイバーイ。溜め息ばっかり吐くと幸せが逃げちゃうぞー」
そんな台詞を残して去った友人に気のない返事を返して、琴子は初めて注意される程溜め息ばかり吐き出していた事に気づいた。そうと気付くと、今度はその事実に溜め息が漏れる。吐き出しても胃の辺りの思苦しさは全く無くならず、寧ろ増した気さえす。今、琴子を悩ませるのはあるひとつの事だ。
ちらりと再び曇り空に見上げて、その今にも雨を降らせそうな空に比例して琴子も泣きたくなってきた。
「はぁー」
「なーに、ましゅまろ恋煩い?」
ずしり、と背中に重さが乗ったかと思うと後ろから回った二本の腕が琴子を抱きしめる、と見せかけてそれは体型同様ふくよかな胸へと伸ばされた。
「あー流石ましゅまろの名前は伊達じゃないよね。堪んない」
「郁子おっさんみたい」
ぺちり、と郁子の手を叩き落とす琴子は別段驚いた様子も見せず冷静にくるりと後ろを振り返った。
「委員会もう終わり?意外に早かったね。もっとかかるかと思ってたのに」
「んー、簡単な話し合いだけだったから。でもそのかわり今日話したことをまとめてこいだって」
最悪ーと口を尖らせる郁子に大変だねぇと返しつつ琴子は通学鞄を手に立ち上がった。
「他人ごとだと思って。で、相手は誰なの?あたしが知ってる人?」
「え、相手?何の話し?」
「とぼけちゃってー。さっきの溜め息だよ。いかにも恋煩いって感じだけど?」
肘で琴子の脇腹をつつきながら、郁子は可笑しくて堪らないと顔をにやつかせた。立ち止まり、何を言っているのだろうと不思議そうにきょとんとする琴子を見て、郁子も同じくきょとんとした。
「恋煩い?誰が?」
「ましゅまろが」
ぱちぱちとまばたきを繰り返す琴子は暫くして、口を大きく開いた。
「えー!わたしが?!ない!ない!有り得ないから!」
顔の前で手を激しく振って否定する琴子はあははと笑い飛ばす。脳裏に浮かんだのはあの幼過ぎる、恋愛の対象に到底考えられない存在だった。だがそこでふと、恋しく思っているのは事実だと思い直す。
「あーでも、恋煩いに似てるのかなぁ…」
零した言葉に郁子が食い付かない筈がなかった。
「え?結局恋なの!違うの?どっちなの!?」
「もーどっちでも良いでしょー。ほら、雨も降ってきそうだし急いで帰るよ」
しつこく食い下がる郁子を教室に残して琴子はさっさとひとり先に行こうとする。背後で郁子の待ってぇ!と言う叫びが聞こえた。
一週間。
それが琴子があの灰色の子供に会っていない時間だ。今までだって毎日同じ夢を見ていた訳ではない。続けて見る事もあったが3日、間が空く事もあったから最初はそこまで気にしていなかった。それも4日目になるとあれ?と首を傾げ、5日目になるともう会えないんじゃないかと不安になった。それがもう今日会えなかったら一週間になる。
「ルゥく~ん」
禁断症状だった。パジャマに着替え、寝る準備が万全な琴子は気を紛らわせ様と大きなテディベアを抱きしめベッドの上で転がった。
ごろごろと転がりお気に入りの人形を抱きしめても満たされる事はなく、只虚しかった。何してんだろと、早々に人形から手を離す。
気持ちが強ければ夢に現れると聞くが、全くその気配はなく最近では何もない空間でルゥを待つだけの夢を見ている。枕の下にその人の写真を入れて寝れば想い人に会えると気くが、もちろんルゥの写真なんて持っている訳がないので仕方なく琴子の丸い字で名前が書かれた紙が枕の下に敷かれた。
しかし、今の琴子を見る限り結果は分かっている。今日は見れるだろうか。会えるだろうかとぼんやりとあの真っ白な空間に近いベージュの天井を見て、琴子は目を閉じた。
ああ、眠っちゃうと重くなる意識の中で名前を呼ばれた気がした。
「ああ、あれから直ぐ寝たんだわたし」
相変わらず琴子の夢は何もない。そう言えばさっき名前を呼ばれた?とキョロキョロすると、色のない筈の空間に確かにそこにだけ色が存在した。大股で歩けば10歩に満たないだろう場所に灰色がひょこひょこと揺れている。
「え、あれ?」
幻?会いたいが為に琴子の心が見せた幻覚?と望んでやまないモノがなんとも呆気なく近くにあり、思わず琴子はもっと良く見ようと目を細めてみる。
しかしそれはこちら側に頭を向ける形でうつ伏せになり、リズムをとる様に変わらず右へ左へと揺れていた。耳を澄ませば、琴子が教えた童話の鼻歌が外れた音になって聞こえてくる。間違いないあれはルゥだと、やっと琴子の脳味噌が遅い処理をした所で顔には満面の笑みが浮かんだ。
「ルゥくん!」
大きな声で呼べば一週間振りの緑の瞳が琴子を捉える。駆け出そうと一歩を踏み出せば、それを合図にルゥも立ち上がりこちらに向かって駆け出してきた。それを見ておや?と違和感を覚える。
「コトコ!」
手を広げ迎えると、琴子と変わらない満面の笑みがそこにあった。ぎゅっと互いに抱きしめあい、琴子の違和感は確信に変わる。
舌っ足らずな呼び名が変わっているのもそうだが、前までのルゥは抱きしめるとき琴子の背中に腕を回すのがやっとだったのにそれが今はどうだ。
楽々背中に手が届いている。
「コトコひさしぶりー」
「あ、うん…」
自分の名前なのにルゥから聞くのは不思議な感じがした。それに確かに琴子はルゥに会うのは一週間振りだが、夢の登場人物であるルゥからそう聞くと、まるでルゥ自身にも琴子と会えない間があった様に感じられる。そっと体を離して、改めて見るとぽかんと開いた口が塞がらない。
「コトコ?」
「あー、いや。…ルゥくんおっきくなったなーって」
うん!と元気良く返事を返すルゥは勘違いだったと笑い飛ばせない程に大きくなっていた。前は正に幼児と呼ぶに相応しい姿だったが、今は幼児と少年の間と言うべきか。
琴子の手が置かれた小さな肩は確かに子供らしい丸みを帯びていたが、以前とは明らかに違う。琴子の身近にルゥの様な子供は居なかった為にそれがどれほどの成長かは分からない。
そう、まさに成長と呼ぶに相応しいルゥの変化に琴子は戸惑っていた。子供は成長が早いと言うが、まさかこれ程とはと冗談にしてみても目の前のルゥは何も変わらなかった。
「コトコこっちー」
くんっと引っ張って手を引かれた先は先程までルゥがうつ伏せになり、鼻歌を歌っていた場所。そこには一枚の大きな白の画用紙と、その上に散らばったカラフルなクレヨンが数本あった。
「ルゥくんお絵描きしてたの?」
「そうだよ。コトコもいっしょにしよ」
再び腹這いになるルゥに習い、琴子も同じく腹這いになり画用紙の中を覗き込む。案の定と言うか、そこには全く何が描かれているのか分からない色とりどりの絵が並んでいた。
「これは、おさかな」
そう言ってルゥが指差したのは、何故かピンクのクレヨンを使って描かれた角張ったもの。
「こっちはにゃんにゃん!にゃんにゃんおさかなどうぞ」
そう言ってルゥが指差したのは丸く描かれた線の上辺りにふたつの三角がある、言われて初めてなんとなく猫だと分かるものだった。その多分口元だろうと思われる位置に、紫色で角張った魚が追加される。
ふたりで床に腹這いになり、投げ出した足をぶらぶらと揺らし遊びながら琴子はルゥを盗み見た。灰色の髪は琴子が今日、教室で見た色そのままでふわふわと甘いミルクに似た匂いがするのを知っている。同色の睫が隠す濃い緑の瞳もそのままに屈託なく琴子に笑いかけ、多少の成長を覗けばルゥその者だった。
ここは、琴子が望めば何でも叶う場所。ルゥに会いたいと言う願いは確かに叶ったが、何故大きくなっているのかが分からない。それで嫌いになる事は決してないが、戸惑いは隠せず琴子は横にいるルゥを暫くぼんやりと見ていた。
「コトコー?どうしたの?ぽんぽんいたい?」
顔を覗き込む為に身を寄せた緑の瞳が彼女を捉え、小さな手はぎこちなく琴子の手に添えられる。それに応えて握り返せば、はにかむ様な笑みが返ってきた。それに嬉しくなって琴子もほにゃり、と顔を崩す。
「んーん、大丈夫。心配してくれてありがとう。ね、これってもしかしてわたし?」
画用紙の端には人だと分かる絵が描かれており、頭部分にはリボンだと思われる赤いクレヨンで描かれた女の子がいた。そしてその上には茶色の丸い円盤が幾つか飛んでおり、何故か赤い斑点模様に白色の線が光の加減で見える。暗号の様なそれに琴子は首を傾げた。
「うん!コトコだよ。こっちは、ホットケーキなの」
ああ、なるほどと頷く。円盤はホットケーキで斑点はイチゴ、白線はホイップになるのかと知ると同時に、もう「ほっちょけーき」と言わない事に気づいた。不思議と寂しさを覚える事はなく、むしろ琴子と過ごした時間を大切にしてくれていた事実に溜まらずルゥを抱きしめたい衝動に駆られる。
「もぅ、ルゥはかわいいなぁ!またホットケーキしようね」
くしゃくしゃと髪を撫で回し梳いてやれば、その間から甘えた緑の瞳が上目使いに琴子を見てきた。
「次はルゥもおてつだいするね!」
「うん、お願い」
ああ、可愛いなぁと今度は心の中で呟いた。驚きはしたが、多少大きくなってもルゥの変わらなさに結局のところ琴子は「まぁ夢の中だしそんな事もあるよね」と片付ける。深く考えるのは苦手だ。
それから琴子も一枚画用紙を取り出し、絵を描いてゆく。上手いとは言えないが描くのは好きだった。初めは犬に始まり、ぞう、キリンと簡単な動物を描いてゆく琴子をその内ルゥがリクエストをする様になった。
「つぎはアゼルかいてー」
「アゼル?そんな動物いたっけ?ガゼルじゃないんだよね?」
顎指をかけて考えるも角を生やし、山羊に似た動物は出てくるがアゼルと言うのは聞いた事がない。
「アゼルに角はないし、どうぶつじゃないよ。髪はね、いっつもむちゃくちゃなの」
「むちゃくちゃ?」
髪があるなら人だろうかとルゥを見ると、自分でその灰色の頭をかき回していてぎょっとした。
「こんな頭してるの」
あっちこっちに好き放題跳ねた髪は元々癖っ毛な為に鳥の巣状態だ。それにお互い笑いながら琴子はその柔らかな髪を優しく撫でてやった。
「つまりそのアゼルは髪がボサボサなんだね」
「そうなの!でもね、ルゥの髪がめちゃくちゃだったらおこるのよ」
「おこりんぼだねー」
「ねー」
アゼルを知らない琴子は描けそうもない。さて、次はと茶色のクレヨンを走らせたのは家で飼っている気ままな猫だ。体を描くのは苦手な為、人間の様に二本足で立つお世辞にも可愛いとは言えない頭は猫、体は人間と言う宇宙人にも似た奇妙なモノが出来上がった。気持ち程度に蝶ネクタイもおまけして。
「あ、アゼルだー」
「え」
これのどこが?人間じゃなかったの?という言葉は飲み込んだ。
「アゼルって猫だったの?あれ、でも髪は?」
「アゼルはにゃんにゃんちがうよ」
ルゥはぷるぷると首を振って琴子の答えを否定した。動物でもなければ人間でもない。じゃあ一体何者なんだと、なぞなぞの様なアゼルの正体に必死に頭を回す。
「おこったらね、いいかげんにしなさーい!がおー!っていうの」
「え、喋っちゃうの?鳴くの?」
「絵本もよんでくれたよ」
「字も読めちゃうの!」
なにそれ!という顔はルゥの前なので必死に隠した。
結局琴子の中で答えは出ず、頭がボサボサで猫顔の二足歩行する生き物で怒るとがおーと鳴き、喋る事も字を読む事も出来る未知なる生物と認定された。