琴子という少女
目の前に置かれたプリンを只ひたすらじっと見つめる。何度見ても、透明の容器に入ったそれは黄金の輝きを放ち、堪らなく琴子を誘惑した。 知らず口に溜まった唾液を飲み込む。
「ましゅまろ、食べないの?」
「食べ、食べ…」
ない。最後のその一言がどうしても出てこなかった。だって本音を言えばもの凄く食べたい。
「なに、体調悪いの?だったらあたしが食べちゃうよ」
「だめぇー!」
自分の口から出た声が予想以上に響き、それに驚いてはっと周りを見た時は既に遅かった。
教室の視線と言う視線が琴子の全身に突き刺さりお昼休憩中の騒がしさが一瞬にしてぴたり、と静まった。だが、椅子に縮こまり気まずげに顔を赤く染めた元凶を見るなり「あぁまたアイツか」と、険悪と言うよりもむしろ和やかな雰囲気が教室を漂う。生暖かい空気を肌で感じとり、更に琴子は背中を丸め必死に自分の存在を隠そうとした。
ああ、今だけ自分の姿が消えたらいいのにとどうしようもなく火照る頬を指先で辿る。
「まさかダイエット!だめだめそんな事したら。ましゅまろはその抱き心地が売りなんだから」
「売りって…」
琴子の机を挟んで目の前に座る友人の言葉に促されて、夏服から覗く二の腕を軽く持ち上げて見る。
「これがなかったらもうましゅまろじゃないよ。あー癒やし癒やし」
「ちょっとそんなに揉まないでよ。第一郁だって柔らかいんだから自分のを揉めば良いのに」
「自分を揉んで何が楽しいのよ。それにあたしとアンタじゃ多分素材が違うんだわ。じゃなきゃこんなに気持ちいい訳がない」
ひたすら琴子の二の腕から手を話す気配がない友人の郁子はその揉み心地にうっとりと目を細める。
ましゅまろ。
その愛称の通り琴子の体は確かにふくよかだった。
いつだったか、学校帰りに寄ったコンビニでマシュマロを見た友人の「琴子に似てる」の一言から始まり、今やそれが当たり前の様に広まった。元々色白な事もあり、なるほど確かに良く似ている。と思ったし、ムサいゴリラ等ではなく可愛らしいお菓子に例えられて悪い気はしない。
ふくよかと言っても一般に肥満と呼ばれる程ではなく、多少肉付きが良い程度だ。けれど―。
「郁は細いよね」
羨ましい。とまではいかないが、憧れがあるのは確かだった。
「えーそうかな?最近お腹まわりとかやばいんだけど」
友人の郁子とて特別細い訳ではなく、あくまで琴子と比べての言葉だった。特に今までダイエットをしようと思った事はない。自分の身体を抱きしめて友人達が幸せそうに笑えばそれは琴子にも嬉しい事だった。
しかし、花も羨むと言われる乙女の盛り。高校二年生にもなれば肥満と言われなくともやはり見た目が気になるお年頃。
「ほーらほーらあたしが食べちゃうよ?良いの?美味しいのに」
断りもなく郁子はペリペリと蓋を剥がし、あまつさえスプーンで掬いこちらに差し出す始末。
「ちょっと郁子…」
鼻先に突きつけられたそれからは甘くもカラメルの焦げた匂いがした。匂いまで計算されたかの如く黄金比率で、お弁当を食べたばかりだと言うのに琴子の胃袋を堪らなく刺激する。
甘いモノは別腹とは良く言ったものだ。
「あーん。ましゅまろ、今更このプリンひとつで体型が変わる訳じゃないんだから」
「……じゃあ、一口だけ」
元々そこまで本気でダイエットをしようと考えていたわけではない。糸より細い琴子の決意は悪魔の囁きで早くも崩れ去った。
「食べちゃった…」
夕陽が沈む坂を背にした帰り道。ひとつ前の別れ道で友人と別れてから零した一言。結局一口と言わず、まるまる一個食べてしまった。食べた事に対してそこまで後悔はしていないが、プリンひとつさえ我慢出来ない自分が情けなくて苦笑いさえ浮かばない。
それにしてもあの期間限定のプリンおいしかったなぁ。また今度買いに行こう。と考える辺り、きっと当分琴子がダイエットに本気になる事はないだろう。