余った鍵を、辺境伯だけが受け取りにきました
「折れました」
朝一番の窓口に立ったのは、近衛の若い騎士だった。掌の上に、真ん中で折れた鍵が1本。
「……西棟3階、第17訓練室ですね」
騎士の目が丸くなった。
「なぜ分かるのですか」
「折れ方です。この型番は西棟の上階にしか使われていません。それと、金具に右回りの擦過痕があります。第17訓練室の錠は立て付けが悪くて右に引きながら回さないと開かない。無理に回すとここから折れます」
リーネは折れた鍵を受け取り、予備鍵を棚から出した。1200の鍵の場所を、全て覚えている。
「……すごいですね。鍵を見ただけで部屋が分かるなんて」
「鍵番ですので」
騎士が予備鍵を受け取って去った。窓口の向こうが、また空になる。
リーネ・エーベル伯爵令嬢。23歳。宮廷鍵番。
1200の部屋の施錠と解錠、紛失届の受理、合鍵の発行、巡回——それが私の全てで、それだけが確実に私を必要としている。
(……必要としている、というより。私がいなくなっても、困るのは鍵が開かなくなった瞬間だけで、困った理由が鍵番の不在だと気づく人は——たぶん、いない)
窓口の端に、今朝は鈴蘭を1輪活けた。殺風景な窓口に花を置くのは、誰に頼まれたわけでもない。自分のためだ。ここに人がいる、という印。
巡回帳を取ろうとした時、卓の上に蝋印つきの封書があることに気がついた。
宮廷縁組仲介局。
(——4度目、ですか)
1度目のお見合いは、隣席の侯爵令嬢に決まった。「華がある方を」と言われた。
2度目は、後から来た男爵令嬢に。「お若い方を」。
3度目は、翌日に辞退された。「やはり鍵番という肩書きでは」。
あの翌朝、窓口の花を替えようとして——同じ花をもう一度活けた。新しいものを選ぶ気力がなかった。
(余った鍵のようなものです。どこの扉にも合わない。誰も手に取らない。でも捨てるほどでもないから、鍵束の端にぶら下がっている)
封を切った。
相手の名を読んだ瞬間——巡回帳が、卓から落ちた。
(——なぜ。なぜ、あの方が)
◇
お見合いの席は、宮廷東棟の応接間。
向かいに座った男の顔を見た時、巡回帳を落とした理由を思い知った。黒髪を後ろに流した、北方の鋭い目。窓口越しに何度も見た横顔が、今日は正面にある。
「——鍵番殿」
「……お見合いの席で、職名でお呼びになる方は初めてです」
「失礼した。名前を存じ上げなかった」
「2年間、月に1度はいらしていたのに、ですか」
「届け出に名前の記入欄はなかった」
(それはそうですが)
「リーネです。リーネ・エーベル」
「覚えた」
「……ありがとうございます」
(二年越しの自己紹介をお見合いの席でするとは思いませんでした)
グラウエン辺境伯セルジュ・フォン・グラウエン。北方3州を治める辺境の主。そして2年間、月に1度の頻度で紛失届を出しに来ていた常連。
「何度かそちらに伺ったことがある」
「17回です」
辺境伯が固まった。
「うち、左翼回廊が6回、東棟書庫が4回、貴賓室が3回、南門守衛詰所が2回、礼拝堂と馬車用倉庫が各1回」
辺境伯の口が開いた。
「……数えていたのか」
「鍵番ですので」
「……17回か」
「はい。左翼回廊だけで6回ですから、正直に——少々心配しておりました」
「何をだ」
「方向感覚を」
辺境伯の眉間に皺が寄った。
「左翼回廊は一本道だ」
「ですから心配でした。一本道で6回紛失される方が、北方3州を治めていらっしゃると思うと」
辺境伯の唇の端だけが動いた。
「……手厳しいな」
「事実です」
◇
「正直に言う」
辺境伯が紅茶を置いた。音がしなかった。
「紛失したことは、1度もない」
リーネの背中が伸びた。
「……は」
「毎回、預けた後で別の窓口から再発行を受けていた」
(17回。再発行手数料は1回銀貨3枚。合計51枚——)
「……なぜそのようなことを」
「窓口に用がなければ、あなたに会えなかった」
リーネの耳が熱くなった。紅茶のカップを口元に運んだが、中身はもう空だった。
(——空です)
「……なぜ私なのですか。3度余った、宮廷の鍵番です」
「使い道の話をしているのではない」
「では」
「……庭を歩かないか」
庭園に出た。辺境伯は歩幅を合わせてくれたが、それ以外は絶望的に不器用だった。
「あの花は何という」
「紫陽花です」
「ああ」
(会話が終わりました)
五歩。十歩。沈黙。
「……天気の話はすべきか」
リーネの足が止まった。
「……は?」
「お見合いの手引書に書いてあった。『天気と花の話題で場を和ませること』と」
「手引書を……」
「3冊読んだ」
(3冊)
「書いてある通りにしたが、花の名前を聞いた後に何を言えばいいのか載っていなかった」
(それは手引書の不備ではなく閣下の問題です)
「……報告書なら百枚でも書ける。だが雑談の手順書がない」
リーネは噴水の縁に手を置いた。笑いをこらえるためだ。北方3州を統べる辺境伯が、手引書を3冊読んで予習してきて、花の名前を聞いた後に詰んでいる。
(——この方は。真面目なだけなのだ)
噴水の水が光を弾いている。しばらく、二人ともそれを見ていた。
「……一つ聞いていいか」
「はい」
「なぜ鍵番になった」
リーネは少し驚いた。紛失の話でも、お見合いの話でもない。初めて——仕事そのものについて聞かれた。
「……私が覚えたのは1200の扉だけです。どの扉がどの部屋で、どの鍵がどの錠に合うか。全部覚えました」
噴水の虹を見た。
「全部覚えたら——一つくらい、私に合う扉があるかもしれないと思ったんです」
辺境伯が黙った。
「……ありませんでしたけれど」
笑おうとした。笑えなかった。
「1200の扉は全部覚えましたが、どれも私の扉ではありませんでした。私はただ、他の人の扉を開けて、閉めて、また開ける。それだけです」
辺境伯が、一歩だけ近づいた。
「……お前は1200の扉を開けられる。だが1200の扉のうち、お前が帰れる場所は一つもなかったということか」
リーネは頷いた。声が出なかった。
辺境伯の右手が、かすかに持ち上がった。リーネの肩に——触れかけて、止まった。
「閣下」
「なんだ」
「余り物に用など、ないはずです」
辺境伯が足を止めた。噴水の水音だけが二人の間に落ちている。
「余っていたのではない」
辺境伯の声は低かった。
「誰も、合う扉を探さなかっただけだ」
リーネの左手が胸元で止まった。
(——1200の中にはなかった。でもこの人は、1201番目を持ってきたのだ)
噴水の虹がにじんだ。すぐ戻した。
「……窓口に花を活けていることは知っているか」
リーネは頷いた。毎朝替えている。自分のために置いているだけだ。
「7月に1度だけ、空だった日がある。翌月、花の位置が少し変わっていた」
リーネの目が見開いた。
(——7月。体調を崩して3日休んだ月だ)
「あの月は——少し、心配だった」
辺境伯はリーネを見なかった。噴水の向こうを見ていた。耳だけが赤い。
◇
翌朝。鍵番室。
リーネは窓口に座ったまま、記憶を辿っていた。
17回の訪問。1度目、2度目、3度目——あの方はいつも、窓口に立つと最初に花を見ていた。4度目、椿の季節。5度目、桃。11回目——
(11回目に、私は笑った。「また左翼回廊ですか、閣下」と。あの時、あの方の右手がかすかに震えた。——あれは)
棚を開けた。返却された鍵を保管する抽斗——ではなく、その隣。辺境伯の家紋が付いた返却分は、他の返却鍵とは別の抽斗に入っていた。いつからそうしたのか、覚えていない。無意識だった。
17本を並べた。全て——傷一つない。
(本当に紛失した鍵には擦り傷がつく。路上に落ちたもの、排水溝に沈んだもの——どれも金具に傷が残る。だが閣下の17本は、磨き上げたように綺麗だ。1度も持ち主の手を離れていない)
さらに、全ての持ち手に、同じ方向の微かな曇りがある。長く握りしめていた跡。鍵番室まで歩く間、ずっと掌の中で——
「偶然ではないですよね」
独り言だった。だが声が返ってきた。
「偶然ではありませんよ」
侍女のナタリーが扉に寄りかかっていた。にこにこしている。
「2年前に閣下から頼まれました。『エーベル嬢の当番日を教えてほしい』と。当番表の写しをお渡ししました」
リーネの目が据わった。
「なぜ2年間黙っていたのですか」
「面白かったんですもの。毎月『今月はどこを失くすおつもりかしら』って、楽しみで楽しみで」
(私の人生を娯楽にしないでください)
「ナタリー」
「はい」
「ありがとう」
ナタリーが目を丸くした。リーネの声が震えていたからだ。
17本を並べ直した。傷のない、綺麗な17本。この鍵を握りしめながら、あの人は毎月歩いてきた。
(——本気だ。この人は)
だからこそ怖い。3度余った私が、ようやく見つけた扉に合わなかったら。
(でも——ここで閉じたら、4度目はない)
1番古い1本を手に取った。2年前の3月。持ち手の曇り。
17本を、鍵束にまとめた。
◇
辺境伯を鍵番室に呼んだ。
「17本の返却分を確認しました」
「……そうか」
「全て傷がありません。紛失した鍵には必ず擦り傷が残ります。閣下の17本は、1度も失くされていない」
「……」
「そして全て、私の当番日でした」
辺境伯の耳が赤くなった。
「正式に申し入れたい。リーネ・エーベル——」
「閣下」
リーネの声は震えなかった。震えないように、腰の鍵束を握っていた。
「余り物では——ご迷惑ではありませんか」
沈黙。
辺境伯の表情が翳った。眉が寄り、口元が引き結ばれた。
「……迷惑であれば、帰る」
辺境伯が立ち上がった。扉に向かった。
リーネは椅子に座ったまま動けなかった。
辺境伯の背中が遠くなる。五歩。扉まであと三歩。
(——あと三歩で、この人は帰る。帰って、もう18回目は来ない)
辺境伯の手が取っ手にかかった。
——がちゃり。
リーネの右手が、扉を施錠していた。椅子から立ち上がった記憶すらない。
「……なぜ施錠した」
「……」
息を吸った。
「……職業病です」
(違う。行かないでほしいだけだ。でもそれを言う手順が——業務手順書にも手引書にも載っていない。3冊とも)
「開けてくれ」
「嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「……嫌?」
「施錠したのは私です。解錠も私が決めます」
辺境伯が振り返った。リーネの耳は赤い。
「——存外、強引だな」
「鍵番ですので」
「……解錠の条件は」
「先ほどの言葉を——帰る、ではなく。最後まで言ってください」
辺境伯の目が、開いた。
◇
翌朝、リーネの辞表が宮廷管理局に届いた。
昼前に窓口を訪れたのは、あの若い騎士だった。
「鍵番殿——西棟の予備鍵が見つからなくて」
「鍵番は辞めました」
管理局の文官が答えた。
「後任は」
「……おりません。エーベル嬢以外、1200の配置を把握している者が」
騎士は窓口の端を見た。鈴蘭の花瓶だけが、まだそこにあった。
翌日、貴賓室の錠が開かなくなった。宰相府から「後任はいつ決まるのか」と問い合わせが来た。答えられる者はいなかった。
婚約が公になった日、廊下の空気が変わった。
「エーベル令嬢が辺境伯夫人に?」
「3度断ったのは——こちら側だったのよね」
ブレンダ夫人が辺境伯に声をかけたのは、その翌日だった。
「辺境伯様、以前のお見合いの件、ご無礼がございました。お詫びに——北方との交易につきまして、うちの家から——」
「エーベル嬢のご紹介か」
1言だった。辺境伯は背を向けたまま歩いていった。
廊下の端で、文官が小声で囁いた。
「余り物と呼んだ方が辺境伯夫人で、こちらは書庫も開けられない」
ブレンダ夫人の扇が、かちゃり、と閉じた。
◇
鍵番室。18回目。
「——今度は何を紛失されましたか」
リーネは帳面も開かずに言った。
「紛失ではない。受け取ってほしいものがある」
辺境伯が掌を開いた。銀の細工が施された、小さな1本。
「……どちらの部屋のものですか」
「俺の屋敷の」
「……宮廷の管轄外です」
「管轄の話をしているのではない」
(分かっています。でもこういう場面で何と返せばいいのか——手引書にも載っていませんでした。3冊とも)
辺境伯が一歩、近づいた。
「リーネ」
名前だった。鍵番殿ではなく。
「17回、窓口に通った。毎月、届け出を書きながら見ていた」
辺境伯の声が低くなった。
「窓口の花を替える手つき。届け出を受理する時に必ず言う『ご不便をおかけしました』の声。左手の小指にいつも残っている鍵油の跡——1200の全てを毎日手入れしている証だ」
リーネの視界が滲んだ。
「9回目。届け出を受理した後、お前は窓口を閉めて——額を手で押さえていた。何かあったのだと思った。だが窓口の向こう側には出られなかった」
(——あの日。3度目のお見合いを断られた、翌日だった)
「翌月、お前は何事もなかったように『家紋と部屋番号をお願いします』と言った。あの声を聞いて——もう紛失を口実にするのはやめようと思った」
「……やめなかったではないですか」
「やめられなかった」
リーネの唇が震えた。
「11回目に、お前は初めて笑った。『また左翼回廊ですか、閣下』と」
(——覚えて、いたのですか)
「あの日から、左翼回廊を選ぶ回数が増えた。お前がまた笑うかもしれないと思ったからだ」
(左翼回廊。6回——)
「3度余ったのではない。3度、合わない扉が先に開いただけだ」
銀の1本がリーネの掌に置かれた。冷たくて、確かな重さ。
「お前が1200の扉を覚えたのは、自分に合う扉を探すためだと言ったな」
リーネは頷いた。声が出ない。
「1200の中にはなかったかもしれない。——だが1201番目は、俺が持ってきた」
「……セルジュ様」
「様は要らない」
「……セルジュ」
リーネの指が、銀を握った。
「これは——返しません」
「返さなくていい。合鍵だ。もう1本は俺が持っている」
リーネは腰の鍵束に手を伸ばした。1200の束の中から、1本だけ外す。鍵番室の鍵。宮廷でリーネだけが持っている、最後の1本。
「これを——お預けします。もう、使いませんので」
セルジュの目が見開いた。
セルジュがもう一つ、掌を開いた。銀の環。
「これも受け取れ」
「……婚姻指環は管轄外だと思いますが」
「お前の隣に帰るための一つだ。管轄にしてくれ」
リーネの左手が伸びた。環を受け取る指が震えている。
セルジュの手が、その指を包んだ。北方の手は冷たい。だがリーネの指よりは、ずっと震えていなかった。
鍵番室の窓口の端で、鈴蘭が1輪、朝の光に揺れている。
リーネの左手の薬指には銀の環が嵌まり、右手には辺境伯邸の鍵が収まっている。
【作者から読者様へお願いがあります】
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