第9章:ナギの呼吸
ナギは、スマホを机の引き出しに入れていた。
画面を見ないためじゃない。
見た瞬間に、身体が先に反応するからだ。
胸がきゅっと縮む。
喉が乾く。
手のひらが冷たくなる。
頭の中が白くなる。
「怖い」という言葉は、気持ちの説明としては足りない。
これはもっと、身体の現象に近い。
ナギはそれを、何度も何度も経験してきた。
――連絡が来る。
――来たら返さなきゃ。
――返したらまた長文が来る。
――また説明される。
――また“わかってほしい”が来る。
――また私が背負う。
背負う、という感覚が、ナギの呼吸を奪う。
彼が悪い、と言い切れたら楽だった。
でもナギは知っている。
ユウは、悪意で人を壊すタイプじゃない。
むしろ逆だ。
「優しさ」で壊す。
“守りたい”で迫る。
“愛してる”で縛る。
だから厄介だった。
ナギは水を飲んだ。
コップの縁が、少し震える。
自分の震えを見ると、また息が浅くなる。
――私は、何を守りたいんだろう。
守りたいのは、ユウじゃない。
自分だ。
自分の心の静けさだ。
自分の居場所だ。
それが崩れると、日常が全部崩れる。
ナギは机の上の紙束に目を落とした。
“メモ”が増えている。
自分が落ち着くために作った、小さなルール。
・返事はしなくていい
・返事をするなら短く
・罪悪感で動かされない
・「私のせい」を引き受けない
・怖くなったら距離をとる
距離をとる。
それだけで、昔の自分は苦しかった。
距離をとったら、相手が死んでしまう気がしていた。
でも今は違う。
距離をとらないと、自分が死ぬ。
ナギは、引き出しからスマホを出した。
画面を見ないまま、握る。
体温が移るだけで、心が少し落ち着く。
送るかどうかを、ナギは何日も迷っていた。
送れば反応が来る。
反応が来れば、また自分が揺れる。
だから送らない方が安全だ。
それでも送ったのは、別の怖さが出てきたからだった。
――このまま、周りが勝手に噂を作るかもしれない。
――配信の空気が変に濁るかもしれない。
――私の居場所が、また狭くなるかもしれない。
ナギは、文章を短くすることだけに集中した。
感情を書かない。
過去を掘らない。
説明をしない。
ただ、条件を書く。
条件は、武器じゃない。
境界線だ。
境界線は、相手を拒絶するためじゃない。
自分が呼吸をするための線だ。
送信ボタンを押した瞬間、ナギは手が震えた。
震えながら、スマホを伏せた。
返事は、すぐには見ない。
見たら、身体が反応する。
反応したら、また数日寝れなくなる。
それでも、夜になってから、ナギはそっと画面を開いた。
ユウの返事は、短かった。
短い。
それだけで、ナギの胸が少し緩む。
長文じゃない。
説明じゃない。
謝罪の連打でもない。
「戻って」もない。
「消える」もない。
ナギは息を吸った。
深く吸えた。
――やっと、止まった。
その事実が、ナギを少し泣かせた。
泣かせたのは、優しさじゃない。
安堵だ。
ナギは思った。
“ユウは、変われるのかもしれない”
その期待が危険だと、ナギは自分でわかっている。
期待は、自分をまた縛る。
だからナギは、期待を握りしめない。
ただ、机の上の紙に一行だけ書き足した。
「短い返事は、私を助ける」
それから、スマホをまた引き出しに入れた。
彼を許したわけじゃない。
戻るわけでもない。
でも、今日だけは呼吸ができた。
それで十分だった。




