第8章:記念日
その日は、カレンダーに残っていた。
消していいはずなのに、消せなかった日付。
ユウは朝から落ち着かなかった。
理由はわかっている。
わかっているのに、身体が先に反応する。
記念日。
“特別な日”は、ルールを破らせる。
人間の脳は、特別に弱い。
特別な日は、例外を作りたがる。
――今日だけ。
――一言だけ。
――四行だけなら。
――返信はいらないって書けば。
ユウの頭は、ルール破りの言い訳を大量に生産し始めた。
ユウは机に座り、メモを開く。
《条件=ルール》を指でなぞる。
名前を出さない。
周りに話さない。
長文を送らない。
返信を求めない。
話すなら第三者・短時間。
守る。
守る。
守る。
ユウは息を吐いて、スマホを裏返した。
今日は特に、裏返しが重い。
裏返すだけで、何かを踏みつけている気分になる。
その時、ふっと、記憶が差し込んできた。
ナギが笑っていた。
画面の中じゃない。現実の声で。
夜の部屋で、二人で小さな鍋を囲んでいた時だ。
「これ、辛い?大丈夫?」
ナギが自分の器から、具をひとつユウの皿に移した。
ユウは笑って、首を振った。
「辛い方が好き」
「強がり」
ナギの言い方が、柔らかかった。
責めるでもなく、甘やかすでもなく、ただ見ていた。
生身を見ていた。
その記憶は、甘い。
甘いのに、胸の奥が痛い。
痛みは、“戻りたい”の痛みじゃない。
“壊した”の痛みだ。
ユウは目を閉じた。
次の記憶が、勝手に続いた。
記念映像の夜。
ナギが寝不足の目で笑って、ユウの背中を押した。
「ほら、行って。今日の主役はユウだよ」
ユウはその時、怖かった。
人が多い場所も、視線も、自分の声も。
なのにナギは、怖さを消そうとしなかった。
ただ、怖いまま進めるように支えてくれた。
その支えを、ユウは“当然”にしてしまった。
支えの手を、握り続けてしまった。
ユウは机の端を握った。
指先が冷える。
“送らない”が、今日は特に難しい。
ユウはメモに書いた。
「今日は送らない。送らないことが、守ること」
書いても、胸の奥の子供は納得しない。
「でも、ありがとうくらいは」
「おめでとうくらいは」
「今日は特別だよ」
特別は、破壊の入口だ。
ユウは立ち上がって、外に出た。
散歩。
身体を動かせば、物語は遅くなる。
歩きながら、ユウはもう一つの楽しい記憶を思い出した。
配信の終わり、ナギがこっそり送ってきた短い言葉。
「今日の最後の一言、よかった」
たったそれだけで、ユウは翌日も頑張れた。
その“たったそれだけ”を、ユウは欲しがり続けてしまった。
欲しがること自体は、悪じゃない。
ただ、欲しがり方が壊れていた。
ユウは公園のベンチに座り、スマホを取り出した。
裏返しのまま握る。
送らない。
送らない。
送らない。
そこで、ユウは自分に一つだけ許可を出した。
「送らない手紙を書くことは、許可」
メモを開く。
件名をつける。
送らない手紙 #23
ユウは書いた。
「今日は記念日だ。
あなたが笑ってたのを思い出す。
ありがとうって言いたくなる。
でも言わない。言わないのが今の俺の愛だ」
四行。
書き終えた瞬間、涙が落ちた。
落ちてから、ユウは笑った。
“言わないのが愛”なんて、かっこつけだ。
本当は怖い。
送ったら、また壊すのが怖い。
怖いから、送らない。
怖いから、守る。
夕方、ユウは配信をした。
いつも通り。
笑って、話して、終える。
配信の最後、視聴者が言った。
「今日、なんかやけに優しい声だった」
ユウは一瞬だけ、喉の奥が詰まった。
そして、短く返した。
「そう?…まあ、そういう日もある」
意味深にしない。
匂わせない。
ただ、今日を終える。
夜。
ユウは机に戻って、文庫本を手に取った。
読む気はない。
でも今日は、ページをめくった。
一行だけ。
――「手放すとは、消すことではない。扱いを変えることだ」
ユウはページを閉じた。
「……扱いを変える」
楽しかった日々は、消えない。
消さない。
ただ、相手を縛る材料にしない。
ユウはメモに書く。
《今日の勝ち:特別な日に、送らなかった》
それだけで、今日は十分だった。




