第3章:支えの分散
ユウは、スマホを裏返しにしたまま、朝を迎えた。
夜を越えたというだけで、胸の圧がほんの少し軽い。
だが、軽さは油断を連れてくる。
“昨日止まれた。今日も止まれるだろう。”
それが罠だと、ユウは知っていた。
弱っているとき、止まれた日ほど、次の日に暴発する。
「もう大丈夫」という言葉が、最も危険な合図になる。
ユウはまず、冷蔵庫を開けた。
何も考えずに飲み物を取る。
それから、机の引き出しを開けて、メモを取り出す。
《支えの分散》
書いて、丸をつける。
今日の目的は、たったこれだけだ。
彼の支えは、いつも一点に寄っていた。
ナギがいるかいないか。
ナギが笑うか笑わないか。
ナギが返すか返さないか。
一点に寄る支えは、強い。
同時に、崩れるときに全部崩れる。
ユウは“支え”の定義を書き換える必要があった。
彼女の存在を薄めるためではない。
彼女を“支え役”に固定しないために。
机に紙を置き、ペンを握る。
思考が散らばらないように、項目を四つに分けた。
体
仕事(配信)
人
仕組み
「人」と書いた瞬間、胸がざわついた。
人。
本当は、そこにナギの名前だけを書きたかった。
だが、それはもうやらない。
ユウは、連絡先を二つだけ思い浮かべた。
一人は、スズ。
もう一人は、ルーメンの配信仲間――カイ。
カイは、どこか雑で、でも余計なことを深掘りしない。
「どうした?」と聞いて、答えが重いなら、笑いに変えてくれる。
ユウにとって、今必要なのはそれだった。
スマホを手に取る。
裏返しから表に戻しただけで、胸が跳ねる。
ユウは深呼吸を一つして、メモの五行を読み直す。
追わない。
説得しない。
罪悪感で動かさない。
監視しない。
四行以内。
そして、送る相手を選ぶ。
ナギではない。
カイだ。
ユウは短く打った。
今日、少しだけ電話できる?
重い話はしない。
ただ声だけ聞きたい。
無理なら大丈夫。
送信。
四行。
“無理なら大丈夫”を最後に置いたのは、逃げ道を残すためだ。
自分に、じゃない。相手に、だ。
返信はすぐ来た。
いけるで。昼過ぎな。
ユウは、息を吐いた。
胸の圧が、ほんの少しだけ逃げる。
その逃げ道を、ナギ一人に背負わせない。
それが今日の勝ちだ。
昼過ぎ、短い通話。
カイは、ユウの声のトーンを聞いて、余計なことを言わなかった。
「元気ないな」
「うん。練習中」
「ええやん。練習って言える時点で、まだ折れてへん」
それだけ。
アドバイスも、説教も、慰めもない。
ユウはそれがありがたかった。
通話を切ったあと、ユウは“仕組み”の欄に追記した。
夜はスマホを裏返す
衝動が出たらメモに吐く
送信は四行以内
相手はナギ以外に分散
最後の一行を見て、胸が痛んだ。
ナギ以外。
その言葉は、背中に小さな罪悪感をくっつける。
でもユウは、罪悪感を否定しなかった。
否定すると反動で暴発する。
罪悪感はある。
その上で、やる。
夕方、配信の準備をする。
今日の配信は、テーマを決めた。
「ルール回」
視聴者は笑うだろう。
真面目すぎると言うだろう。
でもユウは、笑われてもいいと思った。
配信開始。
いつもの挨拶。
いつもの雑談。
それから、ユウは少しだけ、言葉を選んで話した。
「最近、俺さ、自分の扱い方を覚え直してんねん」
コメントが流れる。
「なんそれw」
「成長してて草」
「何があった?」
ユウは、ここで“物語”を投げたくなる衝動を感じた。
語れば理解される。
語れば同情される。
語れば救われる。
その誘惑を、ユウは見送る。
「何があった、は言わん。言うと誰かに背負わせるから。
ただ、俺は今、止まる練習してる」
コメントが少し静かになって、すぐに別の話題が流れた。
それでいい。
理解されなくていい。
背負わせない方が大事だ。
配信を切った夜。
また、沈黙が来る。
ユウは、スマホを裏返した。
そして、机の端の文庫本を手に取った。
読む気は、まだない。
けれど、今日は初めて、ページを一枚だけめくった。
文字の列が目に入る。
意味は追わない。
ただ、そこに“文字がある”という事実だけを受け取る。
ユウはページを閉じた。
「……一枚で十分」
自分に言い聞かせるように、呟く。
再生は、派手な反転じゃない。
小さな分散の積み重ねだ。
ユウはメモに最後の一行を書き足した。
《今日の勝ち:ナギに背負わせなかった》
そして、ペンを置いた。
第4章:連絡が来た日、来ない日
朝、ユウはスマホを裏返したまま目を覚ました。
起きて最初にやることが、それになった。
裏返す。
見ない。
確認しない。
確認した瞬間、心が「答え」を探しに行く。
そして「答え」がない時、心は勝手に物語を作る。
――嫌われた。
――忘れられた。
――俺はもう、名前だけで怖がられる。
物語は速い。
現実より速い。
だからユウは、現実の方を遅くする必要があった。
台所で水を飲み、簡単な食事を取る。
それから机のメモを開く。
《連絡が来ない日:やること》
・生活を回す
・配信は通常運転
・匂わせない
・“確認”しない
・夜は裏返す
書いて、丸をつける。
今日もそれでいい。
午前中、ユウは配信の企画を考えた。
笑えるやつ。軽いやつ。誰も背負わないやつ。
たまに胸がきしむ。
――こういう時、ナギなら…
その想像を、ユウは途中で切った。
“ナギなら”は、禁句だ。
彼女を自分の設計図に戻すと、また一点に寄る。
一点に寄ると、崩れたときに全崩れする。
昼、カイからメッセージが来た。
「夜、コラボいける?
ユウは返した。」
「いける。軽めで頼む」
軽め。
それが、いまのユウの防波堤だった。
夕方、コラボの準備をしていると、胸の奥がざわついた。
スマホが机の上で震えている気がした。
実際は震えていない。
震えているのは、自分の神経だ。
ユウはスマホを手に取って、裏返しのまま握った。
“見たい”
見たいの中身は、たぶん一つだ。
ナギからの連絡。
たった一言でもいい。既読だけでもいい。
存在の証明が欲しい。
ユウはメモを開いて書く。
「見たい=証明が欲しい」
書いた瞬間、少し落ち着く。
証明が欲しい自分を、否定しない。
ただ、動かない。
コラボ配信はうまくいった。
カイは、重い話を振らない。
視聴者も笑う。
ユウも笑う。笑える自分が、少しだけ戻る。
配信が終わって、静けさが戻った。
いつもなら、ここが危ない。
ユウはスマホを表に返した。
心臓が跳ねる。
画面を見た瞬間、通知がひとつもないことを知る。
それだけで胸が落ちる。
――やっぱり何もない。
何もない、という現実は、耐えがたいほど単純だ。
だから人は物語を足す。
ユウの頭の中に、勝手にナギの声が生まれる。
「もうやめて」
“やめて”は、いつも通りの音量で、でも胸の奥で反響する。
ユウはスマホを置こうとして、指が止まった。
“送れば楽になる”
悪魔のささやきは、今日も愛の声をしている。
優しい言葉、丁寧な謝罪、感謝、理解、決意。
そして最後に――戻ってきて。
ユウは、まっすぐにメモアプリを開いた。
手紙を書く。
送らない手紙。
件名だけ、書いた。
「送らない手紙 #17」
番号がつくのは、恥ずかしい。
同時に、救いだ。
送らない手紙が増えるほど、ユウは“送らなかった日”を生き残ってきた証拠になる。
ユウは書いた。
「今日は、何もなかった。
何もないことを、耐えた。
俺はまだ愛してる。
でも、愛してるって言葉で、あなたを縛りたくない」
四行。
四行以内。
そのルールを守れたことに、ユウは小さく息を吐いた。
そこで、通知が鳴った。
一度だけ。
短い音。
ユウは固まった。
心臓が耳の裏まで上がってくる。
手が冷たくなる。
視界が狭くなる。
“来た?”
ユウは画面を見ない。
いや、見る。
見るなら、ルールを使って見る。
反射で見るな。設計で見ろ。
ユウは、机の引き出しから紙を一枚取り出した。
そこには、あらかじめ書いてあった。
《連絡が来た日:やること》
1.深呼吸 3回
2.すぐ返さない(10分)
3.返信は四行以内
4.要求ゼロ
5.罪悪感ゼロ
6.“追わない”を優先
ユウは深呼吸をした。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
スマホを見た。
通知は、カイだった。
「さっきの配信、ええ感じやったで。おつ」
ユウは一瞬、笑ってしまった。
笑ってから、泣きそうになった。
「……俺、今、何期待してた」
期待が悪いわけじゃない。
期待の矛先が一点に戻るのが危ない。
ユウはカイに返した。
「おつ。助かった。ありがとう」
短い。
そしてスマホを裏返す。
ユウは、さっき書いた送らない手紙を閉じた。
送らない。
今日も送らない。
その夜、ユウは文庫本を開いた。
一ページ。
一ページだけ。
そこには、こんな言葉があった。
――「待つことは、諦めではない。境界線の中で生きる技術だ」
ユウはページを閉じた。
読んだのは一行。
それで十分だった。
「……来ない日も、来た日も、俺は止まる」
彼はそう言って、電気を消した。
暗闇はまだある。
でも暗闇の中に、守れるものが一つ増えた。
送らない、という選択。




