第2章:沈黙の練習
ユウは、本を机の端に置いたまま、三週間が過ぎたことに気づいた。
薄い文庫本。表紙の色は、夜の部屋だとほとんど灰色に見える。
「読むよ」
そう言った記憶だけが、何度も蘇る。
読まないままでも、生活は回る。配信もできる。飯も食える。
だから読まない。
読めば、何かが変わる気がする。変わるのが怖い。
その夜、ユウは画面に向かって喋っていた。
いつもと同じ調子で、いつもと違うことを言いかけた。
「……俺、もうここに――」
言いかけて止めた。
喉の奥で言葉が暴れる。
代わりに水を飲んだ。
水の音だけがマイクに入る。視聴者のコメントが流れる。心配と冗談が混ざる。
ユウは笑ってやり過ごした。
配信を切ってから、胃の奥が冷えた。
――いま俺、誰かに責任を背負わせようとした。
自分で自分の手口に気づいてしまうと、救いは毒に変わる。
ユウはメモアプリを開いた。
《安全の運用》
追わない
説得しない
罪悪感で動かさない
監視しない
4行以内
五行。
たった五行。
その五行のために、ユウはこれまで何百行も送ってきた。
スマホを裏返しに置く。
それだけで胸がざわついた。
裏返しにしただけで、指が勝手に動こうとする。
“送れば楽になる”
その衝動を、ユウは初めて敵として見た。
愛の顔をして近づいてくる、厄介な敵だ。
ユウは文庫本を手に取った。
読みはしない。
ただ、表紙の裏に小さく挟まれていた付箋を見つけた。
誰かの字で、短い一文。
――「言葉で守ろうとすると、壊れるときがある」
ユウは息を止めた。
そして、ゆっくり吐いた。
「……これだけでいい」
読む必要なんて、最初からなかったのかもしれない。
彼女が渡したのは、本じゃない。
“止まれ”というサインだった。
ユウは、メモのタイトルを一つ増やした。
《止まる練習》
誰にも気づかれない練習を、毎日やる。
拍手も奇跡もいらない。
ただ、同じ失敗を繰り返さないだけ。
沈黙は、ユウにとって苦手な音だった。
静かになると、頭の中が騒ぎ出す。
「送れ」
「説明しろ」
「わかってもらえ」
「まだ間に合う」
どれも、愛の服を着ている。
ユウはスマホを開かないまま、配信の準備をした。
通知は切った。
過去の自分なら、それだけで“孤独に負けた”気がしていた。
今日は違う。
これは撤退じゃない。練習だ。
配信を開始すると、いつもの名前が流れてくる。
挨拶、雑談、軽い笑い。
ユウは自分の中の“禁句”を数えながら話す。
ナギの名前を言わない。
彼女の匂いを言わない。
思い出を投げない。
“暗い自分”を視聴者に預けない。
十数分が過ぎた頃、コメントが一つ流れた。
「最近、元気ない?」
来た。
ここで、昔なら“本音”を吐いていた。
吐けば楽になる。
吐けば誰かが手を伸ばしてくれる。
その手は温かい。
でも、同時に重い。
ユウは、笑って答えた。
「元気の作り方、練習中や。大丈夫」
短い。
嘘ではない。
痛みを他人に渡さないための、短さだ。
配信の終盤、また別のコメントが流れた。
「なんかあった?誰かと揉めた?」
ユウの中で、指が勝手にスマホを掴みそうになる。
“説明したい”
“誤解を解きたい”
“真実を知ってほしい”
その衝動が、喉の手前で暴れた。
ユウは、メモに書いた五行を思い出す。
追わない。
説得しない。
罪悪感で動かさない。
監視しない。
四行以内。
彼は一度息を吸って、マイクに向かって言った。
「揉めたとかじゃないよ。俺の方の問題。だから今は、整えるのを優先してる」
言ってしまった。
“俺の方の問題”という一言が、胸に引っかかった。
言い訳にも、免罪にも聞こえる。
でも続けない。
続けたら、物語を観客に背負わせる。
配信を切る。
部屋が静かになる。
沈黙が来る。
いつもの、あの騒音が来る。
ユウはすぐに、スマホを裏返しに置いた。
代わりに、紙のメモを引き出しから出す。
そこに、スズがカフェで言った言葉を書いていた。
“何もしない、をやる”
ユウは椅子にもたれ、天井を見た。
何もしない。
それは、逃げではない。
相手に“安全”を返す行為だ。
――でも、俺の真実はどうなる?
胸の奥で、小さな子供が泣く。
「愛してたのに」
「わかってほしいのに」
「置いていかないで」
ユウは、その泣き声を抱えて、何もしないまま過ごした。
泣き声を消さない。
泣き声を誰かに渡さない。
ただ、抱えたまま耐える。
それが、再生の最初の筋トレだと、今のユウは知っていた。
夜が深くなる。
ユウは机の端の文庫本を見た。
まだ読まない。
でも、表紙を撫でて、そっと戻した。
「……明日も、止まる」
言葉は少ない方がいい。
守りたいものがある時ほど。




