第12章:会えた後
通話が切れて、部屋が静かになった瞬間、ユウの中の何かが崩れた。
崩れたと言っても、壊れたんじゃない。
張り詰めていた糸がほどけただけだ。
十五分。
短い時間。
短いのに、身体は戦ったみたいに疲れている。
ユウは椅子から立ち上がろうとして、座り直した。
足に力が入らない。
手のひらが汗ばんでいる。
喉が渇く。
“いまなら、送ってもいいんじゃないか”
衝動が顔を出す。
衝動は、いつも理屈の顔をする。
――今日はうまくいった。
――守れた。
――だから、少しくらい。
――感謝くらい。
――「ありがとう」くらい。
ユウは笑ってしまいそうになった。
衝動が、昨日より巧妙になっている。
“ありがとう”は一見安全だ。
でも、ありがとうは、その後ろに何十行も連れてくる。
「ありがとう」
「会えて嬉しかった」
「また話したい」
「次は…」
「本当は…」
次。
次を求めた瞬間、また一点に寄る。
ユウは机のメモを開いた。
《15分の目的》。
指でなぞる。
・相手が安全に終われること
・こちらが“止まれる”こと
・要求しないこと
・余計な説明をしないこと
終わった。
終わったのなら、余計なことは足すな。
ユウはスマホを手に取って、裏返したまま握った。
握るだけで、指が勝手に形を作る。
送信ボタンを押す形。
“送れば楽になる”
ユウは立ち上がり、キッチンに行って水を飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
それでも胸の熱は下がらない。
ユウはメモアプリを開いた。
送らない手紙。
件名を書く。
送らない手紙 #31
書く内容は、四行でいい。
四行は、相手にじゃなく、自分に効く。
ユウは打った。
「会えた。
守れた。
嬉しい。
でも送らない。送らないのが約束だ」
四行。
そこで止めた。
止めた瞬間、今度は別の衝動が来る。
“確認したい”
既読がついたか。
ナギはどう思ったか。
怖くなってないか。
スズに聞きたい。
今、聞けば安心できる。
安心は麻薬だ。
相手の反応で得る安心は、依存の入口になる。
ユウは紙のメモを引っ張り出した。
《会えた後:やること》。
昨日の夜、念のために書いておいたやつだ。
《会えた後:やること》
1.24時間、誰にも確認しない
2.追加連絡しない
3.“送らない手紙”に吐く
4.体を動かす(散歩 or 風呂)
5.早寝
ユウは、24時間という数字に目を細めた。
長い。
でも、長いから意味がある。
“24時間待てる人”になる。
それが、ナギの安全を守る条件だ。
ユウは外に出た。
夜の空気は冷たい。
歩く。
歩くと、胸の中の騒音が少しずつ遅くなる。
歩きながら、ユウは思った。
――俺、ちゃんと我慢できたじゃん。
その言葉は危ない。
“できた”は油断を連れてくる。
油断は例外を呼ぶ。
ユウは言い直した。
――今日は、止まれた。
止まれた、は事実。
事実は強い。
事実は、次の一歩の材料になる。
帰宅して、風呂に入る。
湯気の中で、ふっと、楽しかった記憶がまた刺さる。
ナギの笑い声。
「短くでいい」って言った声。
その声が、少しだけ柔らかくなった瞬間。
ユウは目を閉じて、その瞬間を抱えた。
抱えるだけ。
投げない。
送らない。
風呂から上がって、スマホを裏返した。
そして、紙に書いた。
《今日の勝ち》
・追加連絡しない
・確認しない
・自分の衝動を自分で処理した
・眠れる準備をした
眠る前、ユウは文庫本を開いた。
今日は一行だけ。
――「会えた後に何もしないことが、いちばん難しい」
ユウはページを閉じた。
笑った。
苦い笑い。
でも、どこか誇らしい笑い。
「…俺、いま一番難しいことやってる」
誰にも褒められない。
褒められない方がいい。
褒められたら、また“承認”に寄る。
ユウは電気を消した。
暗闇が来る。
胸の奥の子供が、また泣きそうになる。
「会えたのに」
ユウは、その泣き声を抱えたまま、静かに息をした。
会えたのに、送らない。
会えたのに、確認しない。
会えたのに、追わない。
それが、再生の形だった。




