プロローグ:灯りの外側
主要人物
ユウ(主人公):配信者。理屈で整えようとするが、孤独に弱い。
ナギ(相手):繊細で強い。支える力があるが限界を超えると身体が反応する。
スズ(第三者):中立のはずだが、ナギを守る側に回る。
ユウが自分の名前を見失う夜は、だいたい静かだ。
画面の向こう側には人がいる。数字も動いている。それでも、心臓の底だけがひたすら冷える。
「ここにいていいのか?」
その問いは、誰かに言った瞬間に軽くなる種類のものじゃない。言ったら最後、相手の肩に乗る。
それがわかるほどには、ユウは大人だった。
なのに彼は、言わずにいられないほど、今は弱っていた。
配信アプリ「ルーメン」を閉じても、暗闇は消えない。
ユウは机の端に置いたスマホを、触らないふりをして見つめる。
連絡先の一覧に、ひとつだけ指が吸い寄せられる。
ナギ。
彼女の名前の横に並ぶ、最後のやりとりの短い文字列。
その下に、ユウがいま打ち込もうとしている長い言葉の塊。
送れば、楽になる。
送らなければ、たぶん正しい。
正しさと呼吸は、ときどき両立しない。
ユウは昔の映像ファイルを開いた。
ナギが作った記念映像。周年の夜に流れた、数分の光の束だ。
歌詞の一言一句、画面の切り替え、誰かの笑い声、過ぎ去った時間の温度。
再生ボタンを押した瞬間、涙が落ちた。
落ちてから泣いていると気づくくらい、急だった。
「……違う。俺はノイズじゃないって、言ってるみたいだ」
映像がそう語っている気がした。
気がした、という言い方が卑怯だとユウは思う。
でも断言できない夜に、気がした、は命綱になる。
映像を止めて、ユウはメモアプリを開いた。
そして、書く。送らないつもりで書く。
送ってしまう未来を、少しでも遠ざけるために。
――距離感の約束を破ってごめん。
指先が震える。
それでも言葉は増えていく。
謝罪。感謝。後悔。理解。決意。
彼の胸の中で渦巻くものが、文字に変わっていく。
――あなたを愛していた。
――だからこそ壊した。
その一文を書いたところで、ユウは手を止めた。
愛していた、という言葉が、彼女にとっては呪いになる可能性を、彼は知っていた。
なのに、書かずにいられない。
ユウの指は、送信ボタンの上で止まる。
そして、いったん離れた。
離れた指が、今度は別の場所を押す。
「連絡が届きませんでした」
既読がつかない。
“届かない”は、音もなく胸を潰す。
血が引く。視界が狭くなる。
いや、ここで「気づいた」と言葉にしたら終わる。
ユウは自分にそう言い聞かせる。だが、もう遅かった。
彼の中で何かが崩れた。
それは、相手を思う気持ちが壊れた音ではない。
相手を思う気持ちしか残っていない状態で、頼れるものが消えた音だった。
ユウは暗闇に向けて呟いた。
「……俺が、いなくなればいいのか」
その問いが、彼女を救うつもりの刃になっていることを、彼はまだ知らない。
第1章:境界線
翌日、ユウはスズに会った。
カフェの隅、窓から入る光が妙に白い。
スズは、いかにも中立の顔で頷く人だった。相手の言い分を最後まで聞く。言葉の温度を落とす。対立をほどく。
「ナギは、“二人きりはまだ怖い”って言ってる」
スズの声は淡々としていた。
その淡々が、ユウの胸を刺した。
「怖いって……俺が?」
「“あなたが悪い”って話じゃない。身体が反応するんだって。呼吸が浅くなって、手が震えて、思考が止まる。そういう状態」
ユウは言葉を失った。
恐怖は、気持ちじゃない。反射だ。
反射を前にした理屈は、遅い。
「じゃあ、俺は何をすればいい」
スズは少し考えてから言った。
「止まる。追わない。説得しない。あと、短く」
短く。
ユウは、自分が書いた長文を思い出して顔を伏せた。
「……謝りたいんだ。理解したって伝えたいんだ」
「それが、ナギには重い可能性がある。いまの彼女に必要なのは、“あなたが理解した”じゃなくて、“安全だ”って感じられることだと思う」
ユウは拳を握る。
理解したのに伝えられない。
そんなのが愛だと言えるのか。
「俺は、利用したわけじゃない」
言った瞬間、ユウは後悔した。
自分の真実を守ろうとする言葉が、相手の痛みを否定する武器になりうる。
それを、彼はもう知っていたはずだった。
スズは目を逸らさなかった。
「利用した、ってナギが言ったわけじゃない。彼女が言ってるのは、“装置みたいになっていた”っていう体験の話だよ」
装置。
ユウはその単語を噛み砕けないまま、喉の奥に飲み込む。
「俺は……好きだった」
「うん」
「愛してた」
「うん」
スズの肯定は、あまりに静かで、逆に胸を締めつけた。
肯定されたいのに、肯定されるほど、何かが足りない気がする。
ユウが求めているのは、正しさじゃない。救いだ。
スズは、カップの縁を指でなぞりながら言った。
「ナギがいま必要としてるのは、あなたが“自分の愛”を証明することじゃなくて、あなたが“彼女の安全”を優先できる人だってことだと思う。
あなたの愛が本物かどうかは、あなたが知ってればいい。彼女に承認を求めると、それは圧になる」
ユウは笑いそうになった。
笑えないのに、笑いそうになった。
「じゃあ俺は、何もできないってことか」
「できる。何もしない、をやる。そこに徹するのが、いちばん難しいけど」
何もしない。
ユウは、スマホを思い出す。送信ボタン。押さなかった指。
押したい指。押したら楽になる指。
「……俺がいなくなれば」
ユウが漏らした瞬間、スズの顔がわずかに険しくなった。
「それはダメだ」
「え」
「“いなくなる”は、彼女に責任を背負わせる。あなたの中では優しさでも、受け手には脅迫に近い重さになる。
もし本当に彼女を思うなら、“いなくなる”を彼女に向けて言わないで」
脅迫。
ユウは言葉を失う。
自分の中では、救いの提案だった。彼女を楽にするための撤退だった。
なのに。
「……俺は、間違ってたのか」
スズは首を振った。
「間違ってた、じゃない。弱ってる時ほど、愛が“圧”になりやすい。
だから、設計が必要になる」
設計。
その単語が、ユウにだけは痛いほどわかった。
ルールを作って、守って、初めて自分は安全になれる。
そして、そのルールを相手に黙っていたことが、ナギを壊したのだろう。
ユウは息を吸って、吐いた。
「……わかった。追わない。説得しない。短く。いなくなるって言わない」
スズは頷いた。
「それができたら、たぶんあなたは、次の段階に行ける」
次の段階。
ユウは、次があるのかどうかもわからないまま、カップの中の冷めたコーヒーを飲んだ。
苦い。
けれどその苦さは、今の自分が生きている証拠だった。




