光と星
宣告を受けた日から、ラズは病院を住みかとして生活することとなった。
日々できることが少なくなりつつある中、既に「余命」を「運命」という言葉に変えて受け入れる覚悟をしていた。
それでも、情熱と純粋を奥に秘める瞳の色は、レイを追いかけていたあの日のままと変わっていなかった。
―そして今、ラズはノアに見守られ、戻ることのない旅立ちの準備をしていた。
「お母さん。ノアだよ。聞こえてる?」
ラズはノアの耳に届く前に、消えてしまいそうな声で
「…ノア」
手を伸ばしたくても、その力は弱く、近くにいるノアが遥か遠くに感じていた。
わずかに動くラズの手を、ノアはしっかりと握りしめた。一枚のプレートとともに。
プレートには、こう書いてある。
[Les deux premiers clients Ray et Raz](最初の二人のお客様 レイとラズ)
レイが、木漏れ日の席にかけた魔法の言葉だった。
どんなに時間がたっても、「最初」だけは誰も上書きできない。
誰にも変えることのできない愛を刻み込んだプレート。
「ありがとぅ…、ノア」
どんなに感情があふれ出しても涙を流すことさえ許さない病魔も、今のラズは全て受け入れていた。
「お母さん。大丈夫だよ。ずっといる」
ラズは、ノアの言葉に安心したように、一つ息を吐き、霞んでしか見えない白い天井に、はっきりと映るレイの影を見ていた。
(あぁ…レイ。もうすぐあなたに逢えるわね。あなたはあの頃の、無邪気なままかしら?)
ラズは、死期を迎える自分に、なぜか不思議とときめきを抱き、小さく微笑んでいた。
そして最後のとき…
ラズは、のこり僅かな力を惜しみなく振り絞りノアに最後の言葉をかけた。
「ノア? あなたのお父さん…レイと暗号を作ってたとき、いつも夜空に星が増えてくような気持ちだったんだ。
今はね…星が満天で、眩しくて…きっと、この暗号たちが私の人生輝かせてくれたのね?」
「ノア。レイは、あの席がなくなっても、別の光として、ずっとあなたを見守ってくれる。
私も夜空で星になって……あなたのこと見ているからね? 安心…してね……」
少しずつ呼吸が浅くなるラズの手を、ノアはしっかりと握りしめた。
「シャルル…クレア、ノア…。シャル…」
目を閉じたラズの温もりが、すっとノアの手の中から消えていくのを感じた。
そして瞳からは、まるで箒星のような一筋の涙がこぼれていた。
ノアは、涙をこらえ精一杯の笑顔でラズを見送った。
「シャルル クレア…お母さん…」
二人きりの別れを、窓の日差しは優しく包んでいた。静かに、安らかに。
ノアは、父が追い求め、母が語った「芳醇のその先」が、今、自分の胸に確かに宿っていることに誇りに感じていた。
――ラズの旅立ちから、さらに幾年か後――
レストラン「シャルル ラポーレ ラズ」は新しいオーナーのもと、ドアに[OPEN]と掲げられていた。
昼下がりの木漏れ日が、あの特別な席を優しく照らしていた。
白いクロスの中央に伸びる帯は、今日もプレートの文字を隠さないように渡されている。
ノアは、少し照れくさそうに向かいの席に座る女性に微笑んだ。
彼女はラズを思わせる、穏やかで芯のある瞳をしていた。
「ここがね、僕のお父さんとお母さんが、最初に座った席なんだ」
そう言って、テーブルに埋め込まれた[Les deux premiers clients : Ray et Raz]のプレートに指先を添える。
両親を宿したプレートは、自分の居場所に戻ってきていた。
女性はその文字を見つめ、小さく頷いた。
「……素敵ね。」
その瞬間、風が窓辺のカーテンをふわりと揺らし、木漏れ日が二人の指先をやさしく撫でた。
テーブルには、白い紙と万年筆が静かに置かれている。
女性は微笑みながら、ノアの瞳を見つめていった。
「私たちの暗号、ここに書いてみていい?新米オーナーさん」
ペン先は白い紙に新しい暗号の一文字目を、静かに刻んでいった。




