過去を背負う元犯罪者 第4話
しばらくの間、男は動けなかった。
古書店の奥に漂う、紙と埃が混じった匂いが、やけに濃く感じられる。
膝の上で握りしめた拳は、白く強張り、血が滞った指先がじんじんと痛んでいた。
その痛みだけが、今、自分がここにいる証のようだった。
未来を選ぶ。
その言葉は、静かな店内に落ちたにもかかわらず、胸の奥で鈍く反響した。
これほどまでに重く、逃げ場のない言葉だとは、思っていなかった。
「……俺に、何ができる」
喉の奥を削るようにして絞り出した声は、ひどく小さく、棚の間に吸い込まれて消えそうだった。
老人は、すぐには答えなかった。
カウンターの上で丸くなっていた三毛猫が、ゆっくりと目を開け、欠伸を噛み殺すように伸びをする。
爪が木の表面を引っかく、かすかな音が、沈黙をなぞった。
「大きなことを、する必要はありません。未来はいつも、小さな選択から始まります」
低く穏やかな声だった。
男は、膝元に置かれた白紙の多い本を見つめる。
紙は少し黄ばんでいるが、指で触れるとまだ柔らかい。
そこには、まだ何も書かれていないページが、いくつも残っていた。
「……何から」
その問いは、道を失った者のものだった。
老人は本を閉じ、古い棚の一角へと静かに戻す。
本が収まる音が、乾いた空気に小さく響いた。
「まずは、“立ち続けること”です」
「立ち続ける?」
男は眉をひそめる。
老人の影が、暖色のランプに照らされて、床に長く伸びていた。
「逃げずに、自分の過去の前に立つ。許されないまま生きることは、罰ではありません。それはあなたの責任です」
男は目を伏せた。
視界の端で、床板の傷が歪んで見える。
──責任。
それは、これまで何度も背を向け、別の言葉で塗り替えてきたものだった。
「あなたが犯した罪は消えない。だからこそ、その先で何をするかが、この本には記される」
男は、ゆっくりと息を吐いた。
肺に溜まっていた重さが、少しだけ抜ける。
「……一歩でいいのか?」
「ええ」
老人は、深い皺の刻まれた顔に、かすかな微笑みを浮かべた。
「誰かを救えなくてもいい。今日を投げださなければいい」
その言葉が、胸の奥に触れ、じわりと熱を帯びる。
棚の奥で、失敗録が小さく鳴った。
背表紙同士が触れ合う、ほんのわずかな音。
まるで、この選択を承認するかのようだった。
「……俺は」
男は椅子から立ち上がる。
床が、きしりと低く鳴いた。
「逃げない」
声は震えていた。
だが、視線は、確かに前を向いていた。
老人は、何も言わずに一度だけ頷く。
「それで、十分です」
男は出口へ向かう。
扉に手をかけると、背中越しに、あの静かな空気が名残惜しく感じられた。
「……あんたは、」
振り返り、老人を見る。
「なぜ、こんな店を?」
老人は、少しだけ視線を落とした。
ランプの光が、白い眉を淡く照らす。
「それは、いずれわかるでしょう」
それ以上は語られなかった。
扉を開けると、冷たい夜の空気が一気に流れ込む。
外はまだ暗い。
だが、不思議と先ほどよりも、寒さは感じなかった。
一歩、踏みだす。
たったそれだけのことが、これほど難しく、これほど重いとは思わなかった。
それでも、男は歩き出す。
未来屋古書店の灯りが、背後で静かに揺れていた。
外に出た瞬間、男は足を止めた。
夜の街は、相変わらずだった。
ネオンは瞬き、車は通り過ぎ、人々はそれぞれの目的地へと急いでいる。
だが、何かが違う。
同じ景色のはずなのに、、輪郭がはっきりして見えた。
まるで、長い間掛かっていた霧が、少しだけ晴れたような感覚。
男は、深く息を吸った。
胸の奥に、まだ重たいものは残っている。
罪は消えない、未来が保障されたわけでもない。
それでも足は止まらなかった。
数日後。
男は、小さな掲示板の前に立っていた。
地域センターの入り口に貼られていた、色褪せた紙。
──「若者相談・自立支援ボランティア募集」
髪を見つめている指が、わずかに震える。
「……俺が、行っていい場所か」
心の中で、何度も自問する。
だが、未来屋古書店で見た幻影が、脳裏に浮かんだ。
誰かの前に立ち、逃げずに話す自分の姿。
男は、紙に書かれた連絡先をゆっくりとメモした。
電話をかけるまでに、三日ほど時間を費やした。
受話器を持つ手は、汗ばんでいる。
「……もしもし」
震える声。
「ボランティア募集の件で……」
電話の向こうの声は、想像しているよりも普通だった。
警戒も、詮索もない。
「一度、面談に来ていただけますか」
それだけだった。
面談の日。
男は、古びた会議室に座っていた。
机の向こうには、穏やかな表情の担当者がいる。
「これまでのお仕事は?」
その質問に、胸がつまる。
「……正直に話しても、いいですか?」
担当者は、少し考え、頷いた。
「聞ける範囲で」
男は、ゆっくりと語った。
罪を犯したこと。
服役したこと。
それでも、生き続けていること。
沈黙が落ちる。
男は、覚悟していた。
断られることを。
「……過去は、重いですね」
担当者は、そう言った。
だが、次の言葉は、男の予想と違っていた。
「それでも、ここに来た理由は、伝わりました」
男は、顔を上げた。
「すぐに関わる形は難しいかもしれません。それでも、雑務からでも、少しずつ始めませんか?」
胸の奥が、熱くなる。
「……はい」
それだけ答えるのは、精一杯だった。
帰り道。
男は、夜空を見上げた。
街頭に照らされた空は、星はほとんど見えない。
それでも、闇の中に、確かに光はあった。
未来屋古書店の老人の言葉が、胸に蘇る。
──未来は
小さな選択から始まる。
男は、歩いた。
今日も、逃げなかった。
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