過去を背負う元犯罪者 第3話
「……意味、だと?」
男は、掠れた笑いを漏らした。
胸の奥に溜まったものが、皮肉となって滲み出る。
「俺が生きていることに、どんな意味がある」
古書店は静まり返っていた。
ランプの灯りだけが、わずかに揺れている。
「人を傷つけた。奪った。壊した」
言葉を重ねるほど、自分を追い詰めていく感覚がある。
それでも、止められなかった。
「更生したふりをして、社会的に紛れ込んでいるだけだ。誰も知らないから、ここにいられる」
老人は、すぐに答えなかった。
代わりに、膝の上の三毛猫をそっと撫でる。
「……罪は、消えません」
その一言は、重く、しかし静かだった。
男は、わずかに目を見開いた。
慰めの言葉がくると思っていたのかもしれない。
「忘れられることも、なかったことにされることもない」
老人は、淡々と続ける。
「あなたが背負っているものは、これからも、ずっとそこにある」
男は、深く息を吸った。
「……だったら、なおさらだ」
拳を握る。
「未来なんて、見る資格はない」
その瞬間、棚の奥で、何かが鳴った。
ページがめくれる音。
誰も触れていないはずの本が、ざわめく。
男の前に置かれていた失敗録が、再び淡く光り始めた。
「店が、あなたに問うている」
老人は言った。
「“それでも生きるか”と」
光の中に、再び幻影が浮かび上がる。
今度は、先ほどの若者ではない。
小さな部屋。
古びた机の前に、男自身が座っている。
歳を重ね、白髪が混じり、背中は丸くなっている。
未来の自分。
机の上には、一冊のノートがあった。
表紙には、震える文字で書かれている。
──『失敗について』
「……何だ、これは」
未来の男は、ペンを取り、書き続けている。
自分が犯した罪。後悔。逃げたくなった夜。それでも生き延びた日々。
ページをめくるたび、文字が増えていく。
「……誰が、読む」
未来の男は、顔を上げた。
部屋の隅に、若者が座っている。
先ほどとは別の顔だ。年齢も、境遇も違う。
「……読んで、いいですか?」
未来の男は、しばらく黙った後、ゆっくりと頷いた。
若者は、ページを読み進める。途中で、何度も立ち止まり、深い息をつく。
「……怖かったんですね」
その一言に、男の胸が締め付けられた。
「それでも、生きたんですね」
未来の男は、何も答えない。
だが、その沈黙が、何よりも雄弁だった。
幻影がふっと薄れる。
男は、古書店の椅子に戻っていた。
息が、荒い。
「……こんな未来、望んでいない」
絞り出すように言う。
「許されないまま、生き続けるなんて……」
老人は、静かに頷いた。
「許されるために生きるのではありません」
その声は、優しいが、逃げ道を与えない。
「生きることでしか、背負えないものがあるのです」
男は、唇を噛みしめた。
恐ろしかった。未来を信じることが、こんなにも。
古書店の空気が、わずかに重くなった。
ランプの灯りは揺れを増し、棚に並ぶ古書たちが、同時に呼吸をしているかのように音を立てる。紙と紙がすれる、低く湿った音。
「……店が、暴走しているわけではありません」
老人は、男の視線の先を見つめながら言った。
「あなた自身が、扉を開けているのです」
男は、唾を飲み込んだ。
「選ばされている……」
そう呟いた自分の声が、他人のもののように聞こえる。
「違います」
老人は、静かに首を振った。
「選ぶかどうかを、選んでいる」
棚の奥から、別の一冊が引き抜かれた。
それは、先ほどの失敗録よりも薄く、まだ白紙のページが多い。
「……何だ、それは」
「まだ、書かれていない未来です」
老人は、本を男の前に置いた。
「この店は、可能性を“見せる”だけ。書くかどうかは、あなた次第」
男は、本に触れなかった。
「俺は……また、選択を誤る」
男の声が震える。
「だから、何も選ばない方がいい」
その瞬間、本が、ひとりでに開いた。
白紙だったページに、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
──『何も選ばなかった未来』
景色が歪む。
男は、薄暗い部屋に立っていた。
年老いた自分が、窓辺に座っている。
誰もいない。
声も、足音もない。
ただ時間だけが過ぎていく。
机の上には何も書かれていないノート。
電話は、長い間、鳴っていない。
「……これが」
喉が、ひくりと鳴る。
「……選ばなかった結果だ」
老人の声が、遠くから聞こえた。
「罪を犯さずとも、人は“何もしなかった”ことで誰かを救えなかった、という失敗を抱えます」
幻影の中の老いた男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……嫌だ」
男は、思わず声を上げた。
「こんな……何も残らない未来は……」
次の瞬間、場面が変わる。
今度は、小さな集会所。
数人の若者が、椅子に座っている。
視線の先に立っているのは、自分だった。
歳を重ねたが、背筋は伸びている。
「……俺は、過去に罪を犯した」
未来の自分は、そう語り始める。
ざわめきが起こる。
「誇れる話じゃない」
だが、逃げない。
「だから、間違えそうな人間の前に立つ」
若者の一人が、俯いたまま言う。
「……それでも、生きていいんですか?」
未来の自分は、少し考え、こう答えた。
「いいかどうかは、わからない。だが、生きて、止めることはできる」
幻影が消え、古書店に戻る。
男は、膝の上で、拳を強く握っていた。
「……怖い」
正直な言葉が、こぼれ落ちる。
「未来を選ぶのが……」
老人は、初めて深く頷いた。
「それでいい。恐怖のない選択などこの世にはありませんから」
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