過去を背負う元犯罪者 第2話
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ランプの灯りが揺れ、棚の奥で本の背がわずかに軋む音がした気がする。
男は視線を落とし、床の木目を眺めていた。
ここで語れば、もう後戻りはできない。そんな予感が、胸の奥で警鐘を鳴らしている。
「……俺は」
声を出した途端、喉が震えた。
「俺は、人を傷つけた」
老人は、ただ聞いている。
頷きも否定もせず、言葉を促すこともしない。
「金が、必要だった」
男は淡々と続けた。まるで、他人の話をなぞるように。
「正当化するつもりはない。だが、あの時は……追い詰められていた。仕事もなく、家族も守れず、何もかもが崩れて」
握った拳が、微かに震える。
「たった一度だけだと思った。誰にも気づかれずに終わると……」
そこで言葉が途切れた。
老人の背後、棚の一角から、微かな光が漏れ始めていた。
最初は気のせいかと思えるほどの弱い光。しかし、確かにそこだけ空気が違う。
「……やめろ」
男は思わず呟いた。
「続けてください」
老人の声は変わらない。
「失敗録は、途中で閉じることができません」
棚から、一冊の本が、ゆっくりと引き抜かれた。
誰の手も触れていない。それなのに、自然に宙を滑るように、カウンターの上へと置かれる。
分厚い装丁。
表紙には、題名も著者名もない。
「……俺の、か」
老人は答えなかった。ただ、本を開いた。
瞬間、古書店の空気が変わった。
ランプの光が強まり、紙の擦れる音が重なり合う。棚の奥から、低いうなり声のような響きが広がった。
男の視界が、歪む。
次の瞬間、彼はそこにいた。
──過去の、あの場所に。
狭い部屋。安っぽい机。散乱した書類。
壁にかかった時計が、やけに大きな音を立てている。
「……やめろ……」
自分自身がそこにいる。
若く、焦り、視線を泳がせている。
あの日の自分だ。
幻影の中の男は、金に手を伸ばし、震える指でそれを掴む。
次の瞬間、誰かの悲鳴が響いた。
男は、目を逸らそうとした。
だが、できない。
古書は逃がさない。
胸が締め付けられて、息が浅くなる。
頭の中で、何度も聞いた声が蘇る。
──どうして、あんなことを。
「……俺は、壊した」
現実の男は、震える声で呟いた。
「誰かの人生を……」
幻影は、そこで終わらなかった。
場面が切り替わる。
留置所。裁判所。新聞の片隅。
そして、被害者家族の背中。
泣き崩れる姿。
「……もう、十分だ……」
男は、顔を覆った。
だが、その時だった。
幻影の向こうから、別の光が差し込んだ。
暗闇の中、誰かが立っている。
若い男だった。
肩を落とし、絶望した目をしている。
──知らない顔だ。
だが、次の瞬間、その若者がこちらを見た。
「……助けてください」
その声が、胸に突き刺さった。
♢♢♢
暗闇の中で、若者は俯いていた。
背中は丸く、両肩は重たいものを背負っているかのように落ちている。
「……助けてください」
その言葉は、懇願というより、諦めに近かった。
誰かに届くことを期待していない声。
「俺に、そんな資格は……」
男は呟いた。
幻影の中でも、胸の奥が焼けるように痛む。
だが、若者は顔を上げた。
「あなたは……」
視線が合った瞬間、男は息を呑んだ。
その目は、かつての自分と同じだった。追い詰められ、逃げ場を失い、未来という言葉を信じられなくなった目。
「……俺と、同じ顔をしている」
若者は、かすかに笑った。
「ええ。だから、あなたなんです」
意味がわからないまま、場面が揺れる。
次の瞬間、二人は簡素な部屋に立っていた。
壁には、就職情報誌や資格の参考書が無造作に積まれている。
「失礼しました」
若者は淡々と語る。
「会社を辞めて、夢を追って、全部失いました。借金もできて、家族とも……」
男は、黙って聞いていた。
──かつて、自分がそうだったように。
「誰にも言えませんでした」
若者は拳を握りしめる。
「だから、間違えそうになった」
その言葉に、男の心臓が強く脈打った。
「……やめろ」
思わず、口をついて出る。
「その先にあるものは……」
言葉が、詰まった。
若者は、驚いたように男を見た。
「知っているんですね」
男は、首を横に振った。
「知っているからこそ……止めたい」
幻影の中で、時間が止まったように静まり返る。
その時、男の口から、言葉が溢れた。
「俺は失敗した」
声が震える。
「取り返しのつかないことをした。人を傷つけた。償っても、消えない」
若者は、黙って聞いている。
「だが……それでも、生きている」
男は、自分でも驚くほどはっきりと言った。
「苦しくても、恥を背負っても……生きている」
若者の目に、わずかな光が宿った。
「……それでも、いいんですか?」
「いいかどうかじゃない」
男は、一歩踏み出した。
「生き続けるしか、ないんだ」
次の瞬間、若者の背後に、無数の文字が浮かび上がった。
失敗、挫折、後悔──それらが、光の粒となって舞う。
それらは、やがて一冊の本の形を取り始めた。
古書店の棚に並ぶ、失敗録。
男はじっと周囲を見回す。
──これは、未来だ。
自分が誰かの前で、語っている未来。
若者は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
その言葉が、胸に強く響いた。
次の瞬間。幻影が崩れ落ち、男は椅子に座ったまま、古書店に戻っていた。
息が荒い。額には冷たい汗。
老人は静かに本を閉じた。
「見えましたか?」
男は、震える声で答えた。
「……俺が、誰かを救う未来が来るなんて……」
老人は、ゆっくりと首を振った。
「救う、という言葉にとらわれなくていい」
そして、穏やかに続ける。
「あなたが生き延びたこと自体が、すでに意味なのです」
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




