過去を背負う元犯罪者 第1話
夜の街は、昼間とは別の顔を持っている。
人の視線が減り、光と影があからさまに境界を作る時間帯。男はその影の方を選ぶように、ビルとビルの隙間を歩いていた。
フードを深く被り、足音を立てないように注意する癖は、もう何年も前についたものだ。今更誰かに追われるわけでもない。それでも、明るい場所に立つことが、どうしようもなく怖かった。
──未来など、ない。
胸の奥で何度も同じ言葉が反響する。
それは怒りでも悲しみでもなく、事実確認のように淡々とした声だった。
男は一度、罪を犯した。
ニュースで大きく取り扱われるような凶悪犯罪ではない。だが、誰かの人生を確実に壊した。取り返しはつかず、謝罪も償いも、どれだけ重ねてきても足りないと知っている。
刑期を終え、社会に戻ってからも、彼の時間は止まったままだった。
職を転々とし、人と深く関わらず、夜だけを選んで生きる。
昼間に歩けば、誰かの視線が自分の過去を見抜くのではないかと思ってしまう。そんなことはありえないと、頭ではわかっているのに。
雨上がりのアスファルトが、街灯をぼやけて写している。
その光が、血のように見えた瞬間、男は足を止めた。
──忘れたつもりでいた。
だが、忘れる資格など、最初からなかったのだ。
「……」
無意識に拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが現実へと引き戻す。
その時だった。
路地の奥、普段なら見過ごすはずの場所に淡い灯りが揺れているのが見えた。
橙色の光。古びたランプのような、懐かしくも不思議な光だった。
こんな場所に、店などあっただろうか。
男は立ち止まり、しばらく迷った。
関わらない方がいい。知らない場所には入らない。それが生き延びるための鉄則だった。
それでも、足が勝手に動いた。
光に引かれるように、路地の奥へと進む。
霧が立ち込めたように、周囲の音が遠ざかっていく。
そして、そこにあった。
小さな古書店。
木製の扉。擦り切れた看板には、静かな文字でこう書かれている。
──未来屋古書店。
男は、その名を見た瞬間、理由もわからない寒気を覚えた。
未来。
自分には、縁のない言葉だと思っていたはずなのに。
扉の隙間から、温かな光が漏れている。
中からは、紙とインクの匂いが漂ってきた。
逃げるのなら、今だ。
だが、男は扉に手をかけていた。
重く、しかし抵抗がなく、扉は開いた。
──その瞬間、彼の止まっていた時間が、わずかに軋む音を立てて動き始めた。
扉を閉めた瞬間、外の夜が嘘のように遠ざかった。
風の音も、車の走行音も、全てが厚い布で包まれたかのように消えていく。
古書店の中は、思っていたよりも狭い。
天井まで届く木製の棚が左右に並び、ぎっしりと本が詰め込まれている。背表紙の色はくすみ、文字はほとんど読めない。どれも、長い年月をここで過ごしてきたようだった。
ランプの灯りは柔らかく、影を丸く落としている。
妙に落ち着く空間だった。胸の奥に張り付いていた緊張が、わずかに緩むのを男は感じた。
「……いらっしゃい」
低く、穏やかな声がした。
男が顔を見上げると、カウンターの奥に老人が座っていた。
白髪混じりの髪を後ろに流し、深い皺が刻まれた顔。年齢はわからない。70にも見えるし、もっと若くも見える。
老人の膝の上では、三毛猫が丸くなって眠っていた。
規則正しい寝息だけが、この空間に流れている。
「……店、ですか?」
男の声は、ひどく掠れていた。久しぶりに他人とまともに言葉を交わした気がした。
「ええ。古書店です。もっとも、普通のお客さんは滅多にきませんがね」
老人はそう言って、穏やかに微笑んだ。
その視線が、男の顔を値踏みすることなく、ただ“そこにいる人間”として見ているのがわかる。
それが、ひどく居心地が悪かった。
「……用はありません」
男は踵を返そうとした。
ここにいる理由などない。過去を知られれば、また同じだ。
「そうですか」
老人は引き止めなかった。
ただ、ポツリと続ける。
「ですが、あなたはもうここに辿り着いてしまった」
男の動きが止まる。
「ここへ辿り着くのには、条件があるのですよ」
老人はカウンターに手を置き、静かに言った。
「人生に疲れ、心が迷ったものだけが、この店を見つけることができる」
男は唇を噛み締めた。
否定したかった。
だが、その言葉は、あまりにも正確だった。
「……勝手に決めるな」
低く吐き捨てるように言うと、老人は少しだけ目を細めた。
「私は決めてはいません。ただ、そういう方しか来ないのです」
沈黙が落ちる。
ランプの灯りが、ゆらりと揺れた。
「座りなさい」
老人は、カウンター前の椅子を指し示した。
「話したくなければ、無理にとは言いません。ただ……本は、あなたを待っているようです」
「……本?」
男は棚を見渡した。
どれも無言で、しかし重たい存在感を放っている。
「失敗録、と呼んでいます」
老人は棚の一角を見つめながら言った。
「あなたが犯した“失敗”も、すでに文字になっているかもしれません」
その瞬間、男の胸が強く締め付けられた。
──知っているのか。
「俺は……」
言葉が喉につかえる。
言うべきではない。ここで話してはいけない。
だが、老人は何も急かさない。
三毛猫が、寝返りを打ち、小さく尻尾を揺らした。
男は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「……俺には、未来なんてない」
それは、告白だった。
老人は、静かに頷いた。
「そう思っている方ほど、この店が必要なのです」
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