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未来屋古書店  作者: 倉木元貴


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3/6

夢を諦めた青年 最終話

 気づいたら、涙が止まらなかった。

 今までこんなに泣いたことはあっただろうか。

 僕はずっと、“強がって”生きてきた。

 落選しても落ち込まないふりをして、SNSで他の作家が賞を取っても、笑って祝って、失敗しても前を向いているふりをした。

 

 本当は苦しくて、悔しくて、泣きたかった。でも、泣いたら負けだと思っていた。

 

「……僕は……まだ書いてもいいのでしょうか」

 

 老人は迷いなく頷いた。

 

「もちろんです。あなたが望む限り、書き続けなさい。夢は形を変えても、あなたの中で生き続けます」

 

「……形を変えても」

 

 その言葉が胸に響いた。

 

 書籍化されることだけが“作家の夢”ではない。

 賞を取ることだけが“成功”ではない。

 物語が誰かに届き、誰かが救われる──

 それこそが、本来の“書く理由”なのかもしれない。

 僕の涙が止まった時、ワラが小さく「にゃあ」と鳴いた。

 まるで「よかったね」と言っているようで、思わず笑ってしまった。

 

「ありがとう、ワラ」

 

 ワラは尻尾を揺らしながらカウンターに戻っていった。

 

 気づけば、外の雨音は消えていた。

 店の窓を覗くと、通りの街灯が静かに光っている。

 老人が傘を返しながら言った。

 

「外へ出ると、少し景色が違って見えるかもしれませんよ」

 

「景色……ですか?」

 

「ええ。失敗を抱えたまま見る世界と、失敗を未来の糧として見る世界は、まるで別物ですから」

 

 僕は静かに頷き、深呼吸をした。

 店の扉に手をかけると、老人が最後に言った。

 

「あなたがこれから見る未来は、まだ白紙です。あなた自身の言葉で書きなさい」

 

 その声は、雨上がりの空気よりも澄んでいた。

 

 

 扉を開けると、路地の霧が薄く晴れ、外は雨上がりの匂いが漂っていた。

 雨粒がアスファルトで静かに蒸発し、街灯の下に淡い光が広がっている。

 

「……本当に、止んでる」

 

 さっきまであれほど激しかった雨は、跡形もなく消えていた。

 僕は吸い込むように空気を胸に入れた。

 肩の重さが軽くなり、足取りが自然と前に向く。


 振り返ってみると──

 さっきまであったはずの古書店は、霧と共に姿を消していた。

 

「……え?」

 

 木製の扉も、窓も、あの温かい光も、何も残っていない。

 ただ、雨に濡れた街角があるだけだった。

 だけど、不思議と驚きがなかった。

 

 まるで最初から“そんな店だった”と知っていたような気さえした。

 

 僕は空を見上げ、小さく笑った。

 

「……まだ書ける。いや、書きたい」

 

 胸の奥で、何かがふっと灯った。

 

 それは、ほんの小さな光だったけれど、確かに未来へとつながる温かさを持っていた。

 

 帰り道は、いつもと違う風景に見えた。

 街灯は光を柔らかく滲み、足音は雨粒を踏むたびに小さく弾む。

 

「未来の読者か……」

 

 老人が見せてくれた幻影を思い出す。

 カフェで読んでいた青年も、図書館の少女も、老夫婦も──全員、僕の物語で心を震わせていた。


 本当にそんな未来が来るのかはわからない。だけど、あの光景は“嘘ではない”と感じた。

 

 心のどこかが確かに熱くなっていた。

 マンションへ続く道を歩きながら、僕はふと考えた。

 

 ──今度はどんな物語を書こう。


 答えはまだない。でも、不思議と焦りはなかった。

 

 “また書きたい”という気持ちが、久しぶりに胸の底から湧き上がっていた。

 

 部屋に帰ると、机の上にはずっと放置していた原稿が開きっぱなしになっていた。

 文字は乱れ、ストーリーも途中で止まっている。

 

 これを書くたびに落選し、評価もされず、自分の才能のなさに打ちのめされた作品。

 けれど今見ると──違って見えた。


「……君も、まだ終わってないんだよな」

 

 独り言のように呟き、椅子に座る。

 そして、数ヶ月ぶりにキーボードに指を置いた。

 キーボードを弾く音。その小さな音だけが部屋中に響く。

 

 始まりはたった一文字。でも、その一文字が、今の僕には大きな一歩だった。

 

 ──書ける。

 ──まだ書ける。

 未来がどうなるなんてわからない。

 だけど、“書いていたい”という気持ちが確かに戻ってきていた。

 

 

 夜風が少し冷たくなってきた頃、僕はようやく手を止めた。

 画面には、短いけど新しい一筋が書かれていた。

 

 ──雨は、終わりではなく始まりになる。


 書いた瞬間、胸が熱くなった。

 

 “あの店での出来事は夢だったのか?”

 “本当にあんな店が存在したのか?”

 

 答えはどこにもない。

 だけど、僕は知っている。

 

 あの老人も、看板猫のワラも、古書の光景も──

 全てが、僕の背中を押してくれた。

 失敗は、終わりではなかった。むしろ“まだ進める”という証だった。

 

「よし……」

 

 僕はそっと原稿を保存し、椅子の背もたれに身体を預けた。

 天井を見上げると、まるで古書店の天井のランプが浮かんでいるように見えた。

 

 そして、心の中で静かにつぶやいた。

 

「もう一度、書こう」

 

 それは誰かに向けた宣言ではない。

 自分自身に向けた、ささやかな誓いだった。

 

 ♢♢♢

 

 翌日の朝、窓辺の空は淡い青色に染まりつつあった。

 眠りにつく前、最後に机を見ると、古書店から持ち帰った傘が置かれている。

 

 “雨の日にまたおいで”

 老人はそう言った。

 

 まるでその言葉が、傘の柄に刻まれているようだった。

 これからまた落ち込む日もあるだろう。

 書けなくなる日もあるだろう。

 

 それでも──

 あの店がどこかにあると思えば、きっと進める。

 僕は布団に潜り込み、そっと目を閉じた。

 

 未来はまだ見えない。

 でも、今はそれでいい。

 

 雨は止んだ。

 そして、まだ見ぬ物語が、僕の中で静かに待っている。

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