夢を諦めた青年 第1話
雨は、いつから降っていたのだろう。
気付けば、空はほとんど夜の気配を帯び、街灯の灯りが滲んで見えた。傘に叩きつける雨粒の音が、一定のリズムを刻む。だが、その音が今日はひどく重たく、頭の中に響いていた。
僕はカバンの中に詰め込んだ“それ”の重さに、肩を落とす。一枚ではない。十枚でもない。数えきれないほどの落選通知の束。
出版社の名前が並ぶ白い封筒たち。それらは全て、僕が書いてきた小説に対する“答え”だった。
──選考結果 今回は見送らせていただきます。
すっかり覚えるほど読み込んだ文面。紙の端に指をかけた瞬間、もうその文章が見えるほどに。
それでも、読まずにはいられない。読んだところで変わらないのに、希望を探すように封を切った。
結果は、いつも同じ。
「……もう、意味がないよな」
口の中で言葉がくぐもり、雨に混ざって消えていく。
夢は小説家になることだった。幼い頃から物語を書くのが好きだった。いつか、誰かの心を震わせるような、そんな物語を書きたい。そう願っていた。
だけど、現実は残酷だ。努力すれば夢が叶うわけではない。努力したところで、届かない人間だっている。それが自分なんだと、今日はひどく思い知らされた。
雨は冷たく、都会の匂いが湿気とともに漂う。人々は傘を差し、足早に通り過ぎる。誰も僕を見ないし、僕も誰を見る気にもなれなかった。
“諦める”という言葉が、喉の奥で鈍く響く。
その言葉が傘の下で僕を覆っていた。
駅へ向かおうと足を動かしかけた、その時だった。
──ふと。
霧の向こうに、ひとつだけ温かい光が灯ったように見えた。
ビルの狭間、いつも通り抜けていたはずの路地の奥に、小さなランプがゆらりと揺れていた。
「……あんな場所に、店なんてあったか?」
足が自然とそちらに向かった。
路地に入ると、濃い霧がまとわりつくように空気を変える。気温がわずかに下がり、外の喧騒が薄れていった。
その先に、木製の古びた扉があった。
ガラス越しに見える店内は、暖色の光に満ち、本の影が揺れている。
扉の上にくすんだ金文字で書かれた看板。
──未来屋古書店
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。
触れる前から、胸の奥がざわついた。
僕は小さく息を呑み、重たくなった傘を閉じた。
そして、扉を開けた。
チリン──
小さくベルが音を立て、店内の空気が揺れた。
木の香りが、心臓の鼓動に染み込むように広がる。外の雨音は遠くなり、静かで柔らかな空間が、目の前に現れた。
壁一面に茶色くなった古書が並んでいる。どれも装丁が古く、触れれば粉が落ちそうなほど年季がある。それでいて、棚や机は丁寧に手入れされており、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
そして、カウンターの奥に、老人が静かに座っていた。
白髪は緩やかに肩まで流れ、膝には茶色と黒が混じる三毛猫が丸くなっている。
老人は僕を見ると、目尻に優しいしわを寄せた。
「──ようこそ、未来屋古書店へ」
穏やかにそう言った。
その声は、不思議と胸の奥にすっと落ちてくるような温度を持っていた。
初対面なのに、挨拶だけで涙が出そうになる人がいるのなら、きっとこんな声なのだと思った。
「……あ、すみません。急に入ってしまって」
「ここは、疲れた人がふと立ち寄る場所。謝らなくてもいいんですよ」
老人は笑い、膝の上の三毛猫の頭を撫でた。
猫は「にゃあ」と鳴き、僕を見てまばたきをする。
「ワラも、あなたを歓迎しているみたいだね」
老人は猫の名前を教えてくれた。
ワラは、すぐに丸く戻り、また目を閉じてしまう。
しばらく店内の温かさに包まれていると、外で感じていた重さが、少しだけ薄れていくのがわかった。
老人がゆっくりと立ち上がり、僕に向かって言う。
「おや、あなた……少し、濡れてますね。傘をこちらに」
「あ、ありがとうございます」
老人に傘を渡すと、ふと視線が棚の奥に吸い寄せられた。
古書の背表紙がずらりと並ぶ中、ひときわ古びた黒革の本があった。縁が擦り切れ、まるで長く誰かの言葉を受け止めてきた歴史を刻んでいるような本。
その背表紙には、金の文字でこう刻まれていた。
──失敗録。
「触れてみますか?」
老人の声に、心臓が跳ねた。
「い、いえ……あの、本を見るだけで大丈夫です」
「そう遠慮なさらずに。ここにある本は、ただ見るだけのものではありませんよ。訪れた方の“過去”や“願い”に反応して開かれるものですよ」
老人は優しく説明したあと、僕の顔を静かに見つめた。
「あなた、何か抱えているのでしょう。もし話せるのなら……ここで話してみませんか?」
その言葉で、胸の奥の堤防が軋む音がした。
──話したら、少しは軽くなるのだろうか。
そんなことはわからない。
でも、僕の中の何かが、話せと言っていた。
僕はゆっくりとカウンター前の椺子に腰を下ろし、カバンの中に手を入れた。
取り出したのは、今日だけで四通増えた落選通知。それを握る手が、震えているのが自分でもわかった。
「……僕は、小説を書いているんです。ずっと」
「ほう」
「でも、どこに出しても、全部落ちて……。続ければ報われるなんて、嘘でした。もう、何をしても無駄なんじゃないかって……思ってしまって」
声が途中で途切れた。
老人は急かさず、ただ静かに聞いてくれた。ワラは、いつの間にかカウンターに飛び乗り、僕の手の近くで小さく丸くなっている。
「努力が報われるとは限らない……そう言われている気がして」
それは、初めて本音にした言葉だった。
本当は誰にも言いたくなかった。
言葉にしてしまえば、“諦めた自分”を認めるようで苦しいから。
老人はゆっくりと頷く。
「あなたの言葉……確かに届きましたよ」
そして、棚に歩み寄り、先ほど僕が目を奪われた黒革の古書を手に取った。
「この“失敗録”は、あなたの歩んできた物語を写すでしょう。もしよろしければ、開いてみませんか?」
老人が本を差し出し、その表紙が目の前に現れた瞬間──
古書が、かすかに震えたように見えた。
呼吸が止まる。
「……これが、僕の?」
「ええ。あなたがここへ辿り着いた時から、ずっと待っていたようですよ」
老人の声が遠く感じられるほど、黒革の古書は存在感を放っていた。
まるで中に、僕の“まだ知らない未来”が詰まっているような。
僕はゴクリと、唾を飲み込んだ。
そして、両手でその本を受け取った。
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