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処方された微笑

作者: ぽてとりお
掲載日:2026/01/08

 心療内科の待合室は、加湿器の出す低い音だけが響いていた。隣に座る夫は、深い海の底にいるかのように、電源の切れたスマートフォンの画面をじっと見つめていた。メンタルを崩してからというもの、彼の世界の入り口は閉ざされ、部屋の空気はいつも鉛のように重く、暗かった。


「奥様、こちらの管理アプリを。ご主人の同意は得ています」 診察室で若い医師は、事務的な手つきで私のスマートフォンを操作した。 「このアプリを通じて、ご主人がスマホで目にする広告、SNSの投稿、ニュースをすべて最適化します。負の感情を誘発する情報を遮断し、心地よい情報だけを流し込む。現代のメンタルコントロールにおいて、最も副作用の少ない治療法です」


 それから数日。 家の中は、相変わらず夫の静かな沈黙に支配されていた。夫にとってはそれが今の心地よい居場所なのだと分かってはいても、共に過ごす私には、その影が耐え難い。彼を観察し、日報をアプリに打ち込むたび、私の心も削られていくようだった。


 気づまりな空気に押しつぶされそうになり、私はついに、ポケットの中で管理アプリの設定画面を開いた。 画面には、夫に提示する情報の「傾向」を調整するスライダーが並んでいる。何度かためらったが、指先でほんの少しだけ、コンテンツの傾向を「ポジティブ・快活」に振ってみた。


 タップした瞬間、夫に変化はなかった。私はどこかで残念なような、けれど禁忌を犯した罪悪感から解放されたような、複雑な安堵を覚えた。


 気分を変えるために一度席を立ち、トイレに行ってから戻ってみる。すると、リビングには先ほどまでとは少し雰囲気が変わった夫がいた。


 夫の口元には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「どうしたの?」 私が声をかけると、夫は顔を上げて答えた。 「いや、このツイートが面白くて」


 ここ数日、事務的な短い会話しか交わしていなかった夫が、画面の中の「加工された世界」に触れただけで、こんなにも軽やかな返事をするなんて。


 その日から、私は夫の感情をコントロールするアプリの虜になった。 夫の笑顔が好きだったから。夫の感情が激しく揺れ動くと、私自身が疲弊してしまうから。そして、停滞した空気に、私自身が耐えられなかったから。


 私は理想の夫を作り上げているつもりでいた。 けれど、私は気がついていなかったのだ。


 夫の感情を操作することで、本当にコントロールしていたのは、私自身の感情だったということに。


(了)

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