第15話 「鷹の構想」
十分後、誠司が会議室に戻ってきた時、人数は七名に減っていた。桜庭慎司と総務部長がいなかったのである。総務部長は役割を終えたとして、一誠に通常業務に戻されたのだが、桜庭は違った。
「すいません。桜庭は急用が入りまして、失礼ながらそのまま社に戻らせていただきました」
申し訳なさそうに説明する冬川に、
「あぁ、聞いてるよ。さっきちゃんと私に挨拶して帰っていった。気にすることはないよ」
と誠司は落ち着いた口調で応じた。既に勝ちを確信している二晴は、桜庭の不在など気にも留めなかった。もう勝負はついた。追加融資の話も必要ない。そう思って桜庭は帰ったのだろう――と勝手に都合よく解釈していた。
だが、冬川は違った。桜庭が帰る直前に「先に帰る。あとはよろしく頼むよ」と言われた。その言葉は、彼女には「後始末はしとけよ」と言われたように響いた。桜庭もこの案件は失敗したと見切りをつけてさっさと帰っていった――冬川にはそう思えた。勝ったと思っているのは、いよいよ二晴だけだった。
「では三鷹の番だ」
誠司にの言葉に促されて、三鷹は秋葉と目を合わせ、軽く頷いた。いよいよだ。三鷹は椅子に深く腰をかけたまま、誠司の方へ身体を向けた。
「三十五億のプランは……用意してない」
三鷹のその言葉に、二晴がふっと鼻で笑った。この場にいる誰も、三鷹が三十五億円を本当に用意できるとは思っていなかった。だが、笑う場面ではない。誠司は無表情のまま黙っていた。そのまま三鷹の言葉を待った。三鷹は間を置かず、言葉をつなげる。
「用意してないと言うより、用意する必要がない。で、親父に一つ訊きたいんだが、もし相続税を三十五億円も払わずに済む方法があるとしたら、どうする?」
「それはまぁ払う必要がないならそれに越したことはないが……そんなことは…」
唐突な質問に誠司は怪訝な顔をした。
(脱税でもしようと言うのか?もしそんな話をするようならがっかりだ。とんだ見込み違いだ)
誠司の言葉を最後まで聞くことなく、三鷹は秋葉に目で合図を送った。
「今日はそれを説明させて頂きたいと思います」
「ちょっと待て。お前は誰だ?」
秋葉が説明を始めようと立ち上がった瞬間、二晴が語気を強めて声を上げた。
だがすかさず三鷹がその言葉を遮った。
「この人は秋葉さんといって俺の腹心だ。彼が話すことは全て俺が話すことと同じだ」
「ありがとうございます」
三鷹の一言に秋葉はにこやかに礼を言った。三鷹にすれば二晴の横やりを封じる為の一言だったが、秋葉は内心、感動していた。コンサルタントとしてクライアントにそこまで信頼されること、それは彼にとってこれ以上ない喜びだった。
秋葉は三鷹と自身の間にホワイトボードを引き寄せて、ゆっくりと説明を始めた。
「結論から言いますと、YUZUNOKIの時価総額を下げることを考えます」
香川がかすかに反応した。
「ではどうやって下げていくか、ですが、まず今のYUZUNOKIの業務を二つか三つに分類します。そのあとYUZUNOKIとは別資本で会社を作ります。これは、業務ごとに機能を持たせたアウトソーシング会社になります」
この時点では、誠司も一誠も、二晴も、冬川ですらまだ完全には飲み込めていなかった。香川だけが秋葉の描こうとしている図式の輪郭をぼんやりと掴み始めていた。
「そのアウトソーシング会社に、YUZUNOKIが業務を外注に出すということです。その会社に、今いるYUZUNOKIの社員を出向、または転籍してもらいます。そして売上はこれまで通りYUZUNOKIに計上されますが……業務委託費をアウトソーシング会社に支払う形になります。ここは調整することになりますが、まぁ簡単に言えばYUZUNOKIの利益が減る状態、可能なら赤字になる状態が好ましいですね」
「いや、しかしそれは」
香川が口を挟もうとした瞬間、秋葉が手を軽く挙げて制した。
「わかってます。税務署に相続税回避とみなされるってことですよね。ですので、この業務委託費の金額設定はきちんと精査し、妥当性を持たせる必要があります。さらに、YUZUNOKIだけでなく、外部の企業からの受注も取りに行く必要があるでしょう」
「いや、それだけでは税務署は」
「相続税回避と言ってくるでしょうね。もちろん設立してすぐに相続を行えば回避目的と見なされるでしょう。ですので、時間が必要になります。理想は十年、最低でも五年以上続けてからの相続になります。それにきちんと経営合理性があること。そしてその間に税務調査が入って問題なしとされれば、より良いでしょう」
誠司は香川をじろりと鋭い目で見た。秋葉の説明に口を挟もうとしたことは、つまり、「お前はこの方法を知っていたんじゃないのか」という目である。誠司のその様子を見て秋葉は続けた。
「香川さんは誠実なのです。そして優秀な税理士です。節税はしても納税はきちんとするべき…と思っているのでしょう。そういう誠実な税理士だからこそ、長年、柚木社長も依頼し続けたんじゃないでしょうか……もし柚木社長がこの方法を思いついて香川さんに相談したのなら、香川さんは適確に、そして具体的にアドバイスをくれた筈です。ですので、これが脱税にならないよう、具体的なところは香川さんにお願いできればと思います」
誰も声を発する者はいなかった。一誠と二晴はあまりにも唐突な話で理解できずにいる。冬川は頭の中で話の整理を急いでいた。秋葉はさらに続ける。
「さっきの一誠さんの計画書を見れば……分ける業務は店舗運営が一つ、次に商品の仕入れや商品開発、そして」
「加えるなら新店舗開発と既存の店舗管理業務を行う不動産会社だろう」
三鷹が言葉を引き継いだ。
「三つの会社は俺が作る。そのうちの一つの店舗運営については、一誠兄に社長を任せる。既存の店長達を引き連れてさっきの計画を進めてくれ。で、残りの二つは俺がやる。親父は、YUZUNOKIの社長のまま、全体の調整をとってくれたらいい」
話の展開が早かった。構想は既に終えている。それを仕切るのは俺だ――と言わんばかりの三鷹の言葉だった。
二晴はいきり立って叫んだ。
「YUZUNOKIを三つにバラバラにして全部自分の物にしようと言うのか!」
三鷹は二晴を一瞥もせず言葉を続けた。
「二晴兄にはYUZUNOKIの副社長として親父の補佐をお願いする」
その一言に、二晴は返す言葉を失った。
(副社長?俺が副社長だと?親父の補佐で?)
緊張感と静寂が広がった会議室で、誠司は驚きを隠せなかった。会議室の中の雰囲気が一変していた。
いったいこれはなんだ。ついさっきまで概ね自分のシナリオ通りに話が進んでいた。それが三鷹が喋り出した途端、あっという間に変わった。そう、これはまるで戦評定だ。大将と、その傍らに立つ軍師が、部下たちに次々と作戦を言い渡す。そんな場面だ。不平不満を言う二晴も一瞬にして黙らせた。そして、その指示される中に誠司自身さえも含まれている。まだ三鷹に決めたと宣言したわけでもないのに。
しかも三鷹が話す構想には、ついさっき知ったばかりの一誠の計画まで組み込まれている。さらに三つの会社に分けるということは、いずれその一つを二晴に任せる可能性があるということが誠司にはわかった。そして、その二晴をYUZUNOKIの副社長に据えると言う。二晴の教育は親父がやれ。猶予は与えたぞ――というメッセージが込めらていることも理解できた。それが相続争いを回避する案だということも。
この三鷹の構想の中に、相続争いを回避させるという“父の役割”が織り込まれているのだと気づいた時、誠司は主導権が自分の手の中になくなったことを悟った。