第10話 「難題Ⅰ」
スタッフが帰宅した夜八時頃のオフィスで、三鷹は無理を言って残ってもらった小鳥遊舞花とともに、秋葉宗一の訪問を受けた。三鷹は久しぶりに秋葉に電話をかけ、「ちょっと相談があるので聞いて欲しい。できれば夜で」とお願いした。夜を指定したのは誰にも邪魔されず落ち着いて相談をしたかったからだった。
久々の再会に、三人は最近の仕事の様子や会社の調子について、軽い言葉を交わした後、秋葉が訊いた。
「それで、今回はどんな問題が出てきたんですか?お二人が結婚するとか」
「それはありません。私は旦那一筋です」
小鳥遊が間髪入れずにきっぱりと答えた。その鋭さに秋葉が小さく笑い、三鷹が話を引き取った。
「ほら、以前親がYUZUNOKIを経営してると言ったことがあったでしょ」
「ははぁ、相続の問題ですか。で、誰かゴネてきたか、もしくは難題が出てきたか、ですか。まぁあんまり怒らないことですよ」
三鷹は相変わらず舌を巻く思いだった。秋葉の話の速さは尋常ではない。さらに三鷹は自分の気持ちまでも読まれていたことに、少なからずたじろいだ。しかし、同時に心が軽くなる感じも覚えていた。
「難題の方だ。相続税の。相続する前に相続税を用意しろと」
「それは……幾らなんです?」
「三十五億」
「そりゃぁすごい」
秋葉は豪快に笑いながら言った。三鷹は苦笑した。三鷹にとっては笑いごとではなかった。
そして父・誠司から言われたこと、長兄・一誠、次兄二晴のことやその取り巻く状況について秋葉に語った。三鷹は語りながら、この話をする相応しい相手は秋葉以上に存在しないのではないかと思った。
三十五億円の相談を持ち掛けられて笑い飛ばせる人間が他にいるだろうか。三十五億円をものともしない狡猾な経営者に話を持ち掛ければ、好機と見て会社を乗っ取ろうとするかもしれない。誠実な経営者が相手であれば、お父さんとしっかり話をしなさいだとか、親の会社は兄に譲って自分の会社をやったらいいと言ってくるだろう。だが秋葉は、そのどちらでもなかった。
「柚木さんは…スーパーマーケットの経営をしたいんですか?」
三鷹自身、スーパーマーケット自体に興味はなかった。それゆえ秋葉にそう問われた時、これは父や兄たちへの憤りでこだわっているだけだと気付いた。
だが、それを認めてしまうことはできなかった。一瞬、秋葉の問いの返答に迷った。自分のプライドの問題だと言うわけにもいかず、「スーパーマーケット自体に興味はないが、三十五億で百億企業を買えると思えば、経営者として見逃したくはない」と答えた。
「ふ~む……ではやる気はあるということですね」
秋葉は腕を組み、思案に沈んだ。三鷹と小鳥遊は静かにその様子を見つめる。一分ほどの沈黙の後、秋葉は真面目な顔をして問いを投げた。
「いくつか確認させて頂きたいのですが……お父さんはなぜこんなことを言い始めたのでしょうか?そのまま一誠さんに跡を継がせたらいいのに」
「それは……なんでなんだろうな?」
三鷹は小鳥遊の方を向いて答える。小鳥遊は肩をすくめるだけだった。
「では、社長交代に期限はあるんでしょうか?」
「え、いや、一ヶ月くらいで具体的なプランを持ってこいと言われただけで、実際社長交代するにしても1年以上は先だろう。それに社長交代しても絶対会社には居座ると思う。あの親父のことだから。なんてたって未だに現場に立つらしいからな」
「なるほど…それでは三十五億という金額は絶対条件でしょうか?」
「それはそう。それが条件」
「では、お父さんは話の通じる人でしょうか?え~と、つまり、感情は別として合理的な判断ができる人でしょうか?」
三鷹は少し考えてから、答えた。
「それはそうだな。どちらかと言えば合理的な判断をする方だ。冷たい人間だとさえ思ったことがある。まぁ自分の感情を優先して、合理的な判断ができないようじゃあそこまで会社を大きくできてないよ」
「……そうですか。わかりました。まだ不確定要素はありますが…お父さんの性格が柚木さんの言う通りなら、そんなに難しい話ではありません。三十五億円も必要ないでしょう」
あっさりと秋葉が言った言葉を聞いて、三鷹と小鳥遊は思わず顔を見合わせた。
秋葉の顔はニコニコとした笑顔に戻っていた。