嘘をつく妹に真実薬を飲ませてみた
実験的に書いた作品です。
長編版も始めてみました。
婚約破棄の言葉が告げられたのは、侯爵家の応接室だった。
「申し訳ないが、君との婚約は白紙に戻させてもらいたい」
そう言ったのは、王都でも名の通った青年伯爵、カイル・エルバート。
隣には、セレナの妹リディアが立っていた。潤んだ瞳で兄のように慕っていたカイルを見上げ、震える声で言う。
「……お姉さまに、酷いことをされたんです。わたし、ずっとカイル様のことをお慕いしていたのに、姉さまはそれを知っていて――」
セレナ・ヴァルシュタインは、まっすぐリディアを見た。表情は変えない。けれど、長年の経験で分かっている。リディアは今、また嘘をついた。
リディアはカイルに対し、ありもしない事を吹聴していたのだ。
いわゆる風評被害である。
父の前で泣いて叱責を逃れた時も、舞踏会で誤ってドレスを踏んだ相手を陥れた時も、あの子は一度も罪を認めたことがない。
セレナは、淡々とした表情のまま頭を下げた。
「婚約の件、了承いたします。ご決断に異議はありません」
感情は表に出さなかった。ただ、この場に長く留まっていても意味はない。それだけは確かだった。
◇
その日の夕方、セレナは敷地内の離れへと足を運んだ。
建物の扉を開けると、先に到着していたアネット・シュトレインが、ティーカップを片手に窓辺で足を組んでいた。
「おかえり、婚約破棄された可哀想な令嬢さん」
いきなりの軽口に、セレナは思わず苦笑する。
「そういう言い方、やめてくれる?」
「でも事実でしょう? ほら、座って。ちょうど紅茶がいい具合に冷めかけてるわ」
どこか他人事のような調子。けれどそれが心地よかった。重たい現実を引きずらずにいられる、数少ない人だ。
親友としては、きっともっと真剣に心配したり、慰めたりするべきなのかもしれない。けれどアネットは、そういう型にはまった優しさを決して押しつけてこない。
悲しいことを深刻なまま語らせない空気を作ってくれる。それが、セレナにとっては何よりの救いだった。
「……ありがとう、アネット。あなたの顔を見たら、少しだけ、呼吸が楽になったわ」
「ん? それってつまり、私の顔が癒しってこと? やだ、照れる」
アネットは冗談めかして肩をすくめ、けれどその視線は、ちゃんとセレナの揺らぎを見逃さなかった。
「でも本当は、今にも泣き出しそうな顔してる。わかってるんだからね?」
セレナはかすかに目を伏せた。けれどすぐに、顔を上げる。
「ありがとう、アネット」
かすかに揺れた声だった。普段は凛として隙のないセレナが、こんなふうに誰かに頼るのは珍しい事だった。
その声音に、アネットは少しだけ真顔になった。
「どういたしまして。泣くときは私の前だけにしなさい。でないと、あの調子に乗った小娘に“勝った”なんて思わせちゃうから」
セレナはくすっと笑った。自然と肩の力が抜ける。
「……ほんと、あなたは変わらないわね」
「そりゃあね。あなたがどんなに崖っぷちに立たされようと、私だけは平常運転よ。――それが親友ってものでしょ?」
アネットは得意げに胸を張ってみせる。
「……頼りにしてるわ」
「もちろん。そのつもりで、お茶もお菓子も倍用意してるの。涙の分、糖分で補ってもらわなきゃ」
アネットは言いながら、ティーカップを口元に運ぶ。その余裕のある仕草に、セレナはそっと息を整えた。
そして、少し声を落としながら問いかける。
「……それで、“例のもの”は?」
アネットはにやりと笑った。まるでその言葉を待っていたかのように。
「ええ、もちろん。持ってきてるわよ。ちゃんと封印も未開封のまま。薬師の証明書も添えてあるから、誰が見たって言い逃れはできないわよ」
そう言ってアネットは、傍らの小箱を開け、銀の留め具がついた小瓶をセレナの前に置いた。淡い琥珀色の液体が、瓶の中で静かに揺れている。
「“真実薬”。飲めば一定時間、嘘はつけなくなる。貴族間の裁定でも使われる正式なものよ。……飲む覚悟があるなら、ね」
セレナは、瓶に目を落としたまま、静かに答える。
「私はとっくに覚悟を決めたわ。問題は、あの子に“飲む場”をどうやって用意するかよね」
「それも想定済み。明後日の社交茶会、ヴァンディール夫人の主催よ。王都の若手貴族が半分以上集まる。何かあれば自然と話題にもなるし、逃げ場もない」
「……まさか、あなた、その場を利用するつもりで?」
「ええ、全部根回し済み」
アネットは悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「セレナ、あんたが冷静に毒を盛るタイプなら、私は炎を上げて燃やす係よ。ほら、いいコンビでしょ?」
セレナは思わず吹き出した。
「本当に……あなたって人は」
「褒め言葉として受け取っておくわ。じゃ、計画を詰めましょう」
机の上に書類と小瓶が並べられ、ふたりは椅子を引き寄せて向かい合う。
窓の外では、夕陽が静かに沈みはじめていた。
◇
数日後に開催されたヴァンディール夫人主催の社交茶会は、例年にも増して華やかだった。
広々とした庭園に張られた白亜の天幕の下、貴族たちの笑い声とカップの触れ合う音が絶え間なく響いている。卓上には季節の果実を使った菓子が並べられ、銀のポットからは香り高い紅茶が注がれていた。
花壇には初夏の花々が咲き誇り、噴水のきらめきが陽の光を反射する。絵画のように整えられたその庭園の中央に、ひとつだけ異なる気配があった。
セレナ・ヴァルシュタインが姿を現したのは、ちょうど午後の陽が真上から傾きはじめたころだった。
周囲の視線が、一斉に彼女へと集まる。
淡いラベンダー色のドレスに髪は低くまとめられ、耳元には紫水晶のピアスがひとつ。装いに派手さはない。けれど、その佇まいには確かな気品があった。
彼女の婚約破棄に関する噂はすでに広まっていた。
その姿が庭園の入り口に現れた瞬間、談笑していた数人の令嬢たちがふと声を潜め、振り返る。
セレナ・ヴァルシュタインの名は、この場にいる誰もが知っていた。名家の令嬢として、品位と冷静さをもって知られていた彼女が、今日の場に現れたという事実だけで、空気がわずかに張り詰める。
セレナはその視線をひとつも拾わず、まっすぐに庭の中心へと向かう。
誰もが視線を向け、誰もが声をかけられずにいる。
そこにいるだけで、彼女は舞台の空気を変えていた。
噴水のそば、白いテーブルの前に、リディア・ヴァルシュタインがいた。
淡いピンクのドレスに身を包み、柔らかな笑みを浮かべながら、数人の令嬢たちと談笑している。視線は周囲を柔らかく撫で、声の調子は可憐さを装っていた。
けれど、セレナが一歩ずつ距離を詰めていくにつれ、その声がほんのわずかに揺れる。
やがて芝の上に立つ足音がすぐそばで止まり、リディアが顔を上げた。
「まあ……お姉さま。いらっしゃったんですね」
驚いたように言うその声に、作られた柔らかさが漂っている。
セレナは静かに微笑み、丁寧に一礼した。
「ごきげんよう、リディア。少しだけ、お時間をいただいてもかまわないかしら?」
その一言で、辺りの空気がふっと張りつめた。
集まっていた令嬢たちが、ひそやかに視線を交わす。何かが始まる気配を感じ取って、自然と言葉を飲み込んでいく。
リディアは一瞬だけ眉尻を揺らしたが、すぐに笑顔を作り直した。
「ええ、もちろん。こんなふうにお話しするのは久しぶりですものね。……そこの君、飲み物をお願いできる?」
そばに控えていた使用人の少女が、恭しく頭を下げて紅茶の補充に向かう。
リディアは、空いた手でスカートの裾を整えながら、涼やかに笑った。
「座って。お姉さまも、どうぞ。立ち話は品がないものね」
セレナは一礼しながらテーブルについた。視線を下げると、すでに使われたティーカップと空になったポットが並んでいる。
「ごめんなさいね、紅茶が切れてしまっていて。すぐに新しいものを用意させるわ」
リディアはそう言いながら、周囲に気を配るふうに目線を巡らせた。ちょうど近くを通った若い令嬢が目に入ったらしく、柔らかく笑みを向けて声をかける。
「まあ、そのお帽子とっても素敵ね。どこの仕立てかしら?」
その一瞬――リディアの顔が完全に横を向いた。
セレナは、指先だけで静かに動いた。
膝の上の扇子の陰に隠された小瓶から、あらかじめリディアのカップに注がれていたわずかな紅茶へ、ほんの一滴、透明な液体を垂らす。
指先に重みの感覚が伝わるより先に、瓶は懐へと戻す。
リディアがこちらを振り返ったときには、セレナはすでに穏やかな表情でティーカップの取っ手に手を添えていた。
「ありがとう、リディア。あなたの笑顔を見ると、なんだか安心するわ」
なんて、聞こえの良い事を言い、セレナは静かにカップを傾ける。
紅茶の表面がわずかに揺れ、透明な香気がふわりと立ちのぼる。
そのまま、ひと口。喉に触れる紅茶の感触は、どこか冷たく、そしてどこまでも澄んでいた。
――飲み込む瞬間、わずかに脈が跳ねる。
舌先に残る苦みは、ごく微細で。けれど確かに、それが“薬”であることを告げていた。
喉を伝った液体は、静かに胸元へと広がり、じんわりと熱を帯びていく。
リディアの笑顔が、ぴたりと止まる。
セレナは、それを確認するように一度だけ瞬きをしてから、ゆっくりと口を開いた。
「皆さま、ご機嫌よう」
さっきまで談笑していた令嬢たちが、次々とカップを手にしたまま動きを止め、視線をセレナに向ける。
セレナは静かに呼吸を整えると、庭園の中央で立ち上がった。テーブル越しに、リディアと真正面から向き合うようにして。
「今日は、この場をお借りして……皆さまに一つ、確認したいことがございます」
その声に、リディアが眉を寄せた。けれど、どこか落ち着かない。視線が何度も泳いでいた。
「……お姉さま? いきなり、どういう……」
言葉の途中で、リディアの表情が不自然に止まった。
胸のあたりを押さえるように、手がゆっくりと動く。
「……あれ……? なに……これ……」
小さく漏らした声に、セレナはわずかに目を細めた。
リディアの瞳が揺れる。今まで取り繕っていた笑顔の仮面に、ひびが入ったように、わずかな“素”が滲み始めていた。
「……なんだか、身体が……あつ……くて……」
顔を上げたリディアの目は、怯えと混乱に濡れていた。
その瞬間、セレナははっきりと告げる。
「それは“真実薬”の効果です。一定時間、嘘がつけなくなるものです。……あなたがさっき飲んだ紅茶に、仕込ませていただきました」
庭園が、凍りついたように静まり返った。
誰かが、小さく息を呑む。
リディアは、まるで自分の体が自分でなくなったかのように、首を横に振った。
「う、うそよ……そんなの、きいてな……」
けれど、その声にすら、嘘の混じる余地はない。自分でも口に出す言葉を制御できていないように、どこか震えていた。
「……私は、カイル様のことが好きでした。ずっと、ずっと……でも、あの人は私を“妹”としか見てくれなくて……悔しかった」
まるで、抑えきれずにこぼれ出すように、言葉が続いていく。
「だから……お姉さまの評判を少しだけ落とせば、もしかしたら、って……思ったの」
集まった令嬢たちが、息を呑む。誰もが聞き逃すまいと、静かにその場を見守っていた。
「お姉さまが舞踏会で騒ぎを起こしたって……嘘の手紙を回したのも、カイル様に“酷いことをされた”って言ったのも……私……」
その声は震えていた。けれど、それが真実であることに、疑いようはなかった。
庭園に集まった貴族たちは、誰一人として言葉を発せず、息を呑んだまま静まり返っていた。目の前で繰り広げられた“自白”が、あまりに鮮烈すぎて――。
そして次の瞬間。
「うっそでしょリディア嬢、今の、ぜーんぶ本音ってこと!? やだ〜、こっわ!」
どこか甲高く、場違いなほど明るい声が響いた。
皆が一斉に振り返る。
白いレースのパラソルを肩に乗せ、天幕の陰から姿を現したのは――アネット・シュトレイン。
ひときわ鮮やかなロイヤルブルーのドレスに、巻き髪を優雅に揺らしながら、にっこりと笑っている。けれど、その目はまるで氷のように冷えていた。
「ほんっとにびっくりしたわ。まさかこの場で“真実薬ドッキリ”をお見舞いされるなんて、私、鳥肌立っちゃった!」
その言い回しは軽妙だった。けれど、内に含む皮肉は鋭い。
「でもさすがにこれは、社交界の歴史に残る名場面じゃない? “名家の令嬢が、自作自演で姉を陥れて婚約破棄に追い込んだ事件”なんて、今夜の噂話はそれ一色でしょうねえ」
アネットは芝生を軽やかに踏みながら、セレナの隣にぴたりと立った。
「っていうかセレナ、あなたすごいわよ。泣きも喚きもせずに、こんな形で勝つなんて……まるで正義の執行者みたいじゃない」
くすくすと笑いながら、セレナの肩にそっと手を置く。
その仕草に、重苦しかった空気が少しずつ崩れていく。
令嬢たちが気まずそうに目を逸らすなか、一人、勇気を出して言った。
「……あの、じゃあ、セレナ様は本当に何も……?」
それに対し、アネットは即座に、言葉の隙間に滑り込ませた。
「何もしてないどころか、私の知る限りじゃ一度たりともリディア嬢を悪く言ったこともないわ。むしろずーっと庇ってた。馬車の事故のときも、舞踏会の件も、全部ね」
「そ、そんな……」
令嬢の一人が、口元を押さえる。
アネットは一拍置いて、ゆっくりとリディアの方へ目を向けた。
「ねえリディア嬢、今、ちょっとでも“弁明しなきゃ”って考えたでしょ? 残念、それ、真実薬が効いてるから、無理なのよ」
リディアは、顔を伏せたまま肩を震わせていた。もう、逃げ場などどこにもない。
「……酷い話だわ、全く」
ぽつりと、誰かがつぶやいた。それはリディアに向けられた言葉だった。
「“姉の婚約者が欲しい”ってだけで、ここまでする? それも全部、嘘で塗り固めて……」
周囲の令嬢たちが、互いに視線を交わし始める。明らかに空気が変わっていた。
その中心で、アネット・シュトレインは涼しい顔で一歩前へ出る。
「うんうん、ほんとに驚きだわ。まさか“姉の婚約者が欲しい”ってだけでここまでの大仕事をやってのけるなんて、私、感動すらしてきたわ」
掌を合わせてうっとりと見上げてみせる。わざとらしい演技に、数人の令嬢たちがくすくすと笑い始めた。
そこから先のアネットは、もはや完全に“暴走モード”だった。
リディアの虚飾を一枚ずつ剥がすように、次々と暴言すれすれの皮肉を繰り出し、真実薬に縛られた彼女を言葉で転がし、踏みつけて、時折わざと持ち上げては落とす。
社交界でもここまで洗練された公開処刑はない――と令嬢たちがざわめくほどに。
アネットは終始にこやかだったが、その目の奥には微塵の情けもなかった。
そして――あの日を境に、リディア・ヴァルシュタインの姿を社交の場で見かけることは、ぱたりと途絶えた。
あれほど人懐こい笑顔で令嬢たちに愛嬌を振りまいていた彼女は、大恥と自白の余波により、姿を隠すように屋敷に籠もったのだ。
“涙の妹令嬢”から“一族の面汚し”へ――その転落ぶりは、王都でも語り草となった。
しばらくのあいだ、ヴァルシュタイン家の招待状には“妹の同伴なし”と注釈が添えられるのが、半ば当然となっていたという。
そして、件の一部始終を黙って見ていた元婚約者――カイル・エルバートにも、当然ながら流れ弾が飛んだ。
「聞こえのいい言葉に踊らされるあたり、伯爵家の当主としては些か心許ないわね」
そんなささやきが、舞踏会の片隅や喫茶室の裏手で交わされるのに、さして時間はかからなかった。
何もせず、何も見抜けなかった薄情者――そう記憶されるには、十分すぎる出来事だった。
評価&ブクマありがとうございます!励みになります。
前書きの通り、長編化させました。是非そちらもよろしくお願いします。
今回は、セレナの親友であるアネット視点のお話です。
(分かりやすいように代表作にしています)